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山本昌邦のビッグデータ・フットボール by 山本昌邦

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第3回「選手交代から見るザックジャパン」(後編)
by 山本昌邦

指導者・解説者の山本昌邦が、データを基にサッカーを徹底分析するコラム「山本昌邦のビッグデータ・フットボール」。W杯まで残り3か月。日本はグループリーグを突破し、さらなる高みへ辿りつくことができるのか。勝敗の行方を左右する采配の面から日本代表を鋭く分析する。
データ提供:Football LAB

 日本の課題は必ずしも優位に試合を運べない「列強」を向こうに回したときや、相手に先制されたときである。アジアで自分優位の試合運びに慣れているせいか、格上とされる相手と戦ったときも仕掛けが遅い。遅め、というより、後手に回ってしまっている。

 それが顕著に表れたのがコンフェデレーションズ杯のイタリア戦であるこの試合、日本は前半21分に本田圭佑(ミラン)のPKで先制、33分に香川真司(マンチェスター・ユナイテッド)の左足ボレーで加点した。願ってもない展開だった(表3参照)。

 しかし、イタリアのチェーザレ・プランデッリ監督の対応も迅速だった。前半30分に早くもアルベルト・アクイラーニ(フィオレンティーナ)を下げてセバスティアン・ジョビンコ(ユベントス)を投入。同41分にダニエレ・デ・ロッシ(ローマ)が反撃の狼煙を上げ、後半5分に内田篤人(シャルケ)のオウンゴールで追いつき、7分にマリオ・バロテッリ(ミラン)が勝ち越しのPKを決めた。逆転に成功するや14分にクリスティアン・マッジョ(ナポリ)をイグナツィオ・アバテ(ミラン)に、23分にエマヌエレ・ジャッケリーニ(サンダーランド)をクラウディオ・マルキージオ(ユベントス)に代えてすべてのカードを使い切り、逃げ切りを図った。

 日本もここから猛反撃。24分に岡崎慎司(マインツ)のゴールで追いつき、その後も次々に惜しいシュートを放ったが、中途半端なクリアを拾われて41分にジョビンコに決勝点を許した。

 この間、日本の交代は28分に内田を酒井宏樹(ハノーファー)に、34分に前田遼一(磐田)をハーフナー・マイク(フィテッセ)に、47分に長谷部誠(ニュルンベルク)を中村憲剛(川崎F)に、というもの。ハーフナーは機能したとは言い難く、中村投入も遅きに失した感は否めない。この時間帯に出されて何かをやれといわれても酷というものだろう。

 2年前のユーロ決勝もそうだったが、プランデッリ監督は追いかける展開になったときにためらいがない。前半を0―2でスペインにリードを許すと後半12分までに3枚のカードをすべて使い切った。3枚目で投入したチアゴ・モッタ(パリSG)が直後に負傷するアクシデントに見舞われ、10人での戦いを余儀なくされてさらに2失点して大敗したが、1発勝負の2点ビハインドともなれば、これくらいのギャンブルに出ても責められないだろう。

 表3はイタリアと日本のシュート数と支配率の推移を示したものである。これを見れば前半は支配率、シュート数ともほぼ互角だったが、後半は完全に日本ペースだったことが分かる。ところがゴール数は後半に限ればイタリアが3点、日本は1点。63・2%という圧倒的な支配率と13本のシュートは必ずしもスコアに結びつかなかった。

 逆に浮き彫りになったのはイタリアの試合巧者ぶりだろう。前半から日本に主導権を握られながら、デ・ロッシのゴールで勢いがついた前半終了間際の残り5分は支配率(68・9%)でもシュート数(6本)でも日本を圧倒している。

 後半の入りはその勢いを持ち越し、7分までに試合をひっくり返すと、そこからは急激にスローダウン。高温多湿のレシフェでイタリアは中2日、日本は中3日の試合だったから日本の猛攻にさらされ、FKから一度は追いつかれたものの、後半41分にジョビンコのゴールで勝ち越した後は再び支配率を56・4%まで急激に回復させて逃げ切りに成功した。前半と後半の開店直後と閉店間際に効率よくモノを売り切る“イタリア商法”のしたたかさ、とでもいおうか。

 おそらく、力が拮抗したブラジルW杯本番も、ラスト15分の試合運びの巧拙が大きく明暗を分けることになる。そこで勝ち点0を1や3に増やせるか、勝ち点1や3を死守できるかどうかでグループリーグの成否が決まってくる。

 逃げ切るにしても、追いついたり勝ち越したりするにしても、大事なのはジョーカーだろう。相手のパワープレーに対抗できるCBや勇気を持って相手ゴール前に飛び込んでいけるアタッカーがベンチにほしいところ。優勝したアジア杯では主戦の前田が研究され尽くした後に李忠成(浦和)がファイナルでは切り札として機能した。勝ち上がるプロセスではサブ組の伊野波雅彦(磐田)や細貝萌(ヘルタ・ベルリン)が意外性のあるゴールを決めた。ブラジルW杯もベンチ組の充実と活躍なくして日本の進撃はありえないだろう。


やまもと・まさくに
1958年4月4日、静岡県生まれ。日本代表コーチとして2002年の日韓W杯を戦いベスト16進出に貢献。五輪には、コーチとしては1996年アトランタと2000年シドニー、監督としては2004年アテネを指揮し、その後は古巣であるジュビロ磐田の監督を務めた。現在は解説者として、書籍も多数刊行するなど精力的に活動を続けている。

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