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「ユース教授」安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」 by 安藤隆人

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“ユース教授”安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」第8回:野村雅之監督(作陽高)
by 安藤隆人

 名将列伝第8回は、岡山の強豪・作陽高を率いて27年の野村雅之監督。『野村IDサッカー』と評されるほど、野村監督は理論的で、知的なサッカーを展開する。サッカーに対する探究心が強く、好奇心旺盛に分析し、それをトレーニングに落とし込む。『鬼ごっこ』などのユニークなトレーニングを開発し、『考えるサッカー』を継続して追求し、相手の強さを消して、弱さを突く、相手を見て、戦い方を変えていく柔軟かつ論理的なサッカー『作陽スタイル』を確立。『作陽サッカーの申し子』と言える青山敏弘(広島)が、昨年のブラジルW杯に出場するなど、多くのJリーガーと、理論を引き継いだ指導者を輩出している。まさに『作陽は1日にしてならず』。27年間積み上げてきた野村監督の想いや原点、考え方に直撃をしてみた。

―今年で指導者生活27年目、もうすぐ30年の節目を迎えますが、今の率直な想いを教えてください。
「もちろん、ピッチ上で指導をする事は継続していくけど、組織としての、地域としての広がりが新たな楽しみを生んでいます。今、ウチは女子サッカー部が凄く盛り上がっているし、作陽U-18が第2回全日本ユース(U-18)フットサル大会で優勝をしました。女子サッカーも、フットサルの監督もウチのスタッフがやってくれていて、広がりを凄く感じます。ただ単に選手たちを直接指導するだけじゃなくて、指導者グループを指導する楽しみを感じていますね」

―指導者を養成しながら、組織としての広がりを実感している訳ですね。
「部員の数が増えてきて、自分一人ですべてのカテゴリーを見られる訳ではありません。僕のノウハウをちりばめた状態で若手スタッフがやると、それがその指導者によって変化をして、良い影響や発見が生まれる。そうなるといろんな展開が生まれ、それが自分の指導にも生きて来るんです。例えばフットサルなんかは、サッカーと似て非なるもの。確かに非なるものなんだけど、本質は一緒なので、そこでの発見がある。感じたのは、フットサルは本当に奥深いもので、グループ戦術やセットプレーはサッカーと本当に通じている。実際に底をヒントにトップチームに取り入れているものもあります。今回の優勝は凄く意義ある事だし、チームを指揮する三好達也監督はしっかりと選手たちを育ててくれた。もしかすると優勝メンバーの中から、選手権メンバーに食い込んで来る選手もいるかもしれない。それは本当に楽しみですね」

―今や作陽高校がある津山市、美作地区は『一大サッカーどころ』ですよね。作陽高校サッカー部、女子サッカー部、フットサルがあって、なでしこリーグの湯郷ベルもある。美作サッカー場を中心に人工芝ピッチや天然芝ピッチがあって、ファジアーノ岡山のホームゲームもたまに開催するなど、サッカーで地域おこしが出来ている印象があります。
「それはサッカーによる経済的効果が周りに認知され始めたことが大きいですね。最初はおばちゃんが井戸端会議でサッカーの話をしてくれれば良いなという思いから、サッカーどころ作りを始めたんです。まずは作陽高校サッカー部を一生懸命やって強くする。そこからスタートして、作陽高校サッカー部の部員によるサッカー教室を多く開いて、地元の人たちを少しずつ巻き込んでいきました。そこからウチの部員数が増え、指導者の数が増えてきて、教える人の数が増えれば、サッカーの幅も広がってくる。湯郷ベルも2002年日韓W杯のキャンプ地誘致の一環で誕生して、作陽としても何か協力出来ないかと考えた結果、下部組織としての役割を高校のサッカー部が果たすという形をとって、今や全国大会の常連となった。これはこういう地方の小さな街だったからこそ、逆にやりやすかった面はありましたね」

―野村監督はずっと知的なイメージがあるのですが、昔からそういうタイプだったのですか?
「現役時代、自分はGKをやっていたけど、GKとして身長も高くないし、(広島国泰寺高校)1年生の9月から始めたポジションだったので、技術云々よりも大声でコーチングをして、周りを動かすタイプでした。筑波大時代は、関東大学リーグのパンフレットに、選手個々の特徴が書いてあるのですが、いつも僕の欄は『声』のことが書いてあって、プレーのことは一切書かれていなかった(笑)。それで筑波大の3年生の総理大臣杯の最中に腰と肩を痛めて、プレーが続行出来なくなったんです。もともと自分の身長とフィジカルでは上は無理だと思っていたので、選手としての継続を諦めたんです。それを監督に伝えたら、当時はほとんどのチームでGKコーチがいないのが当たり前の時代だったので、監督から「プレー出来ないなら、Aチームに帯同してGKコーチをやってくれないか」と打診をされたんです。興味はあったので、それを快諾したことから、指導者への道が始まったんです。ちょうど1学年下に川俣則幸(現JFAナショナルコーチングスタッフ、2002年日韓W杯の日本代表GKコーチなどを歴任)がいて、さらに当時1年には加藤寿一(現広島ジュニアユースGKコーチ)もいて、彼らを徹底して教えたよね」

―2人とも立派なGKコーチとして、第一戦で活躍されていますよね。
「シュートストップ系、ブレイクアウェー系、クロス系、フィード系の4系統に分けて、細かくトレーニングを構築してやっていたんです。僕が卒業して、川俣が4年になったときも、後輩の指導として川俣はそれをやっていたよね。川俣が4年の時、1年に大神友明(現磐田コーチ、かつて磐田の不動の守護神)がいたんだよ」

―大学4年生でなぜそこまで指導者としての理論が出来上がっていたんですか?
「もともと観察するのが好きだったのと、僕が現役時代もずっとGKコーチがいなかったので、自分で勉強したんです。GKになった高1の時、イングランドサッカー協会が作ったビデオのGK編を、国泰寺高校サッカー部の監督が渡してくれた。それを見て、180cmちょうどのピーター・シルトンのプレーを見た。それをすり切れるまで見ていて、ピーター・シルトンのステップワークを真似て、いろんなプレーを真似した。GKとして変な固定観念が無くて、まっさらな状態だったからよかったんじゃないかな。プラス、頭が数学頭なので、当時から丸暗記じゃなく、公式を見つけて、一つの公式からいろんなものが見られると楽だよねという考え方だった。一つの公式を見つけて、そこから枝分かれを作っていく。それは今も同じですね」

―野村監督の原点が見えた気がします。『数学脳』。僕は完全に『文系脳』なので、そのアプローチに凄く興味があるので、そこはまた別の機会でインタビューしますね! では、最後に野村監督の今後の展望を教えてください!
「地域、指導者。これが一丸となって育んでいくパワーを大事にしたいですね。経済的効果、活気、人との交流をもっと強調していきたいよね。この間、新しく出来た津山市の人工芝ピッチ1面に対し、5か月間で1,978人が津山市内の宿泊施設に泊まった。こういう実績を下に、もっと津山のスポーツ施設を充実させたいと思います。その楽しさも指導者の楽しみですね」

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