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「ユース教授」安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」 by 安藤隆人

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“ユース教授”安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」第13回:樋口士郎監督(四日市中央工高)
by 安藤隆人

 伝統の純白のユニフォーム。名門・四日市中央工高。かつて小倉隆史(元日本代表、名古屋グランパス新監督)、中西永輔(元日本代表、フランスW杯出場)、島岡健太(現・関西大サッカー部監督)らを擁し、第70回全国高校選手権において決勝で帝京高と伝説に残る大熱戦を演じ、両校優勝。これが初の全国制覇となった。このとき、コーチ1年目で熱血指導をしていたのが、樋口士郎監督だ。自身も四中工の純白のユニフォームに袖を通し、キャプテンとして選手権準優勝を経験している樋口監督。恩師である城雄士監督からバトンを引き継ぐ形で、1995年に母校のコーチから監督に就任。坪井慶介(現・湘南)というW杯戦士を輩出し、内田智也(横浜FC)、福田晃斗(鳥栖)、浅野拓磨(広島)ら多くのJリーガーを輩出してきた。さらに第90回選手権で準優勝、92回選手権でベスト4と、躍進を見せている。名将からバトンを引き継ぎ、自らも名将となった樋口監督。『高校サッカー界随一の人柄』と呼ばれるほど、朗らかで温和な樋口監督こと『士郎さん』の素顔に迫ってみた。

―今年で監督就任21年目となります。改めて伝統校である母校を率いることになった時の心境を教えてください。
「最初は自分も若かったので、プレッシャーよりも四中工で監督をやりたいという気持ちが強かったんですよ(笑)。ですが…、やってみたらとんでもない世界だったという感じですね(笑)」

―士郎さんは現役時代、ユース日本代表に選ばれたり、JSL(日本リーグ)でプレーされていた実力者でした。指導者になる夢があったのですか?
「ずっと将来は指導者になりたいと思っていた。現役をやりながら、通信教育で教員免許を取って、引退後母校のコーチに就任しました。ちょうどその時が小倉、中西が3年の時だったんです。それで練習を任されて、1年目でいきなり選手権優勝。それでさらに火がつきましたね」

―その4年後に監督になったのですが、先ほど言われた『とんでもない世界』とはどのような世界だったのですか?
「若い頃は自分がプレーしていた経験をベースにして教えれば大丈夫と思っていました。でもやってみて、『伝えることの難しさ』を痛感した。自分が分かっていても、選手達に落とし込んでピッチで表現させるのは本当に一筋縄では行かない。練習でよくても試合でダメだったり、声掛け一つで萎縮してしまったり、攻撃的なチームが守備的になってしまったりして、選手を生き生きとさせるにはどうすべきか悩みましたね。決してサッカー理論だけでは図ることの出来ないような部分があります。いま思うと、城先生は凄くうまくやっていましたね」

―今や士郎さんは名将の一人となっていると思います。
「自分の中でそんな感覚は全くありません。毎年、毎日、目の前の選手達に対して、どうアプローチしていければ良いかを、25年間考え続けています。よく『選手権で良いチーム作るには?』と聞かれますけど、そんな公式はありません。時代とか、子供の置かれている環境、サッカー的にもいつも変わるので、毎年試行錯誤を必要とします。だからこそ、ベテランとか若手とかあまり自分の中で変わっていません」

―いつも四中工を取材して感じるのが、士郎さんを始めとしたスタッフの仲の良さ。本当に信頼関係で結ばれていると言うか、一体感というか、ファミリー感。本当にまとまっていると思います。
「一番大きいのが、城先生と一緒のことは僕には出来ない。時代も違うし、あの人ほどカリスマ性も無い。そう考えたとき、最初は僕も気合いが入って、いろんなことを自分でやろうとしすぎてしまった。何でも自分がやろうとして、うまくいかなかった。それがあるきっかけで考え方が変わったんです。それは15年前に宮内聡(現・成立学園サッカー部監督)が、三重県の女子サッカーチームのプリマハムで監督をしていて、辞めた後にウチの臨時コーチをやってくれたことがあったんです。それで気合い入りまくりの僕の姿を見て、「士郎がやりたいサッカーが出来ているのか?本当にこれで良いのか?」と言われた。そこで周りが見えていない自分に気付いたんです。一人で何でもやろうとしてしまって、スタッフに任せるべき部分も自分がやってしまっていたんです。そこでスタッフと腹を割って話すことが出来た。自分でやれることは限られているので、いろんなことを周りに助けてもらわないといけない。四中工の基本理念を理解し合える仲間と適材適所でチームを見て、組織として四中工を構築していこうと思ったんです」

―そこから何が変わりましたか?
「僕の気持ちが楽になったのと、スタッフとの絆が深まりましたね。僕に余裕が生まれ、それがチームとしても良い緩和になった。『こうせなあかんから、みんなでこうしようよ』と問いかけてからのスタートになったんです。それまでは『こうするから』と一方的で、選手達もやりにくかったと思う。アプローチが変わったことで、選手達の意欲がより増しましたね。今では僕、山崎部長、伊室コーチ、中西コーチ、万代コーチ、村松トレーナーの6人が一丸となって、深い信頼関係でやっています」

―第90回選手権ではそれまで3度阻まれていたベスト8の壁を破って決勝進出。決勝では和泉竜司(明治大、名古屋グランパス入団内定)を擁する市立船橋に、後半アディショナルタイム途中までリードしながら、その和泉に同点ゴール、延長戦で逆転ゴールを浴び、準優勝。敗れはしましたが、歴史に残る死闘でした。
「まさに優勝が手からすり抜けていった感じでしたね。『国立には魔物がいる』。これは本当でしたね。でも、夢だった国立に監督していくことが出来たのは、本当に感慨深かったし、凄く自分の中で財産となっています」

―その時の2年生エースだった浅野拓磨は、今凄く注目の存在となっています。そして3年生の森島司も広島への入団が内定しています。
「拓磨には本当にもっと怖い選手になって欲しいですね。昨日の試合(チャンピオンシップ第1戦)なんか観ていても、クサビにはしっかりと反応するし、(同点ゴールのきっかけとなった、角度の無い所からのシュート)あのシュートも凄かった。拓磨はもっと試合を経験していくことが大事。シビアなゲームを何回経験出来るか。そこが代表に繋がっていくと思う。司はベースを持っているので、プロの世界のフィジカルとプロ選手としてのタフさ、逞しさをもっと良い選手になると思いますね」

―士郎さんは本当に『高校サッカー界随一の人柄の持ち主』だと思います。僕も16年前から大変お世話になっていますが、まだほぼ素人同然だった僕にも、分け隔てなく接してくれたことを今でも覚えています。どうしてそこまで良い人柄なのでしょうか?
「(笑)そう言われると照れますね。ありがとうございます。もしそう思って頂いているのなら、僕が出会って来た指導者の影響だと思います。サッカー少年団の監督、そして中学の時のサッカー部の監督はもともと剣道の先生だったのですが、『やるからには一生懸命全国を目指そう』と本気になって言ってくれて、自身も一生懸命サッカーを勉強しながら、僕らの指導に当たってくれた。そして僕が中3のときに全国中学校サッカー大会に出場したんです。親身になって、一生懸命に一つのものを達成しようという意欲と努力を持って、僕らに教えてくれた。その熱意に心を打たれたし、いろんなことを教えてくれた。そして城先生との出会いが一番大きい出来事でした。あれほどの名将なのに、ざっくばらんで、全く偉そうにしない。どんな人にもフランクに接してくれる人。その人間性にOBがみんな惚れ込むんです。天然のところも愛嬌で、誰からも愛される人。今の選手がみんな僕のことを『監督』ではなく、『士郎さん』と呼んでくれるけど、僕らの時もOBのみんなで集まると城先生を『城さん』と呼ぶ。原型はそこにあるんです。城先生には『人生懸けてサッカーをしているんや』と選手時代によく言われたし、指導者になってから言われたのは、『選手がいるから、指導が出きるんやぞ』。選手を本当に大事にする監督さんだったので、この2つの言葉を引き継いで、四中工の理念として、僕らのベースとしてやっています」

―僕も気付いたらいつの間にか『樋口監督』ではなく、『士郎さん』と呼ばせてもらっています。選手達もずっと『士郎さん』ですよね。それは城先生に起源があったのですね。
「今やサッカー部以外の生徒からも呼ばれていますよ(笑)。ピッチに出たら、生徒と選手ではなく、同じ目標を共有する立場。それで良いと思っていますから」

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