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SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史

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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:初心(奈良クラブ・有薗真吾)
by 土屋雅史

 10年の時を重ねてきたからこそ、その響きがあの頃を鮮明に思い出させてくれる。ただ前だけを見つめて、ただ上だけを見据えて、何者かになりたいと願っていた自分を。「“初心”の気持ちというのは凄く大事だと思ったので、もう一度この番号を付けたかったんです」。あの頃と同じ32番を背負い、歴史ある古都の地で再び“初心”を呼び起こしている有薗真吾は今、サッカーと共に生きる幸せを噛み締めながら日々を過ごしている。

 3月24日。武蔵野市立武蔵野陸上競技場。日本フットボールリーグ第2節。1,400人を超える観衆はキックオフの時を待っていた。東京武蔵野シティFCと対峙すべく、アウェイへ乗り込んできたのは奈良クラブ。Jリーグ加盟への意思を表明しており、既に2015年にJ3クラブライセンスを取得している彼らにとって、JFLで5年目となる今シーズンは勝負の年。「サッカーを変える 人を変える 奈良を変える」を新たなビジョンとして掲げ、数々の斬新な取り組みにトライしている注目の新進クラブだ。

 その奈良クラブのディフェンスリーダーとして、スタメンリストの“32”という数字の横に名前を書き込まれたのが有薗真吾。チーム最年長の33歳。ザスパクサツ群馬、FC町田ゼルビア、ブラウブリッツ秋田、ギラヴァンツ北九州と4つのJクラブを渡り歩き、今シーズンから自身初となるJFLのステージへ挑戦することとなったが、その辿っているキャリアは余人に想像できない程の波乱を含んできたと言っていいだろう。

 もともとは薩摩隼人。大迫勇也の母校としても知られる鹿児島城西高に進学したものの、時の九州最南端は鹿児島実高の天下。目立った成績を残すことは叶わず、福岡経済大学(現・日本経済大学)在学時も全国大会や選抜とは無縁。それでもサッカーへの想いは断ち切れず、2008年に当時はJリーグのサテライトリーグを主戦場に置いていたザスパ草津U-23へと加入。クラブ創設当時の理念を継承するチームの慣習にならい、アマチュア登録の選手として草津温泉で働きながらサッカーを続ける選択肢に身を投じた。

 とはいえ有薗の加入当時で、U-23からトップチームへ昇格した選手はごくごく少数。「職場の方々もいろいろな方がいて、いろいろな支えがあって、そういう面では本当に恵まれていました」と本人は当時を表現するものの、“本業”のサッカーにおいては、先の見えない日々に不安が募る。結局1年間の活動を終えた時点で、地元に近い九州のあるクラブのセレクションを受けることを決意。「『他の所にセレクションに行くのであれば、しっかりけじめを付けて』という形だったので、一度草津を離れました」。有薗と草津の縁はいったん終止符を見る。

 ところが、その縁には続きがあった。九州で行われたセレクションに落ちてしまった有薗に、古巣から声が掛かる。「U-23のコーチだった木村直樹さんから『落ちたらどうするんだ』と言われた時に、『その後は考えていないです』と正直に言っていたんです。それで『本当はダメだけど、落ちたんだったら戻って来てもいいぞ』と声を掛けていただいたので、木村さんからもう一度チャンスを戴いた感じでした」。

 それまで以上にスイッチが入る。木村さんのために。草津のために。そして、まだ何者でもない自分のために。2009年8月。クラブは有薗のトップチーム昇格を発表する。与えられた背番号は、その時のチームで一番大きな32番。9月27日。“北関東ダービー”に当たる、J2第42節の水戸ホーリーホック戦でJリーグデビューを果たし、チームの完封勝利に貢献。12月5日。これまた“北関東ダービー”に当たる、J2第51節の栃木SC戦でJリーグ初ゴールを記録。このシーズン終盤の活躍を経て、翌シーズンの契約も勝ち獲ることになる。縁も所縁もなかった草津の地へ降り立って2年。「いろいろな人に支えられて今があるのかなとは思います」と振り返る“あの頃”が、有薗の今にとってもかけがえのないものであることは言うまでもない。

 監督が変わり、チームメイトの顔ぶれが変わり、それこそクラブの名前が変わっても、彼は“草津”の選手であり続けた。自らを取り巻く環境も変化し、選手寮のある前橋へと移り住んでからも、定期的に草津を訪れていたそうだ。「草津に行くことが自分にとってのリフレッシュだったし、その移動に掛かる2時間も苦ではなかったですから」。2015年11月。クラブは有薗のそのシーズン限りでの契約満了を発表する。7シーズンで積み重ねたリーグ戦の数字は97試合3得点。何物でもなかった1人の青年は、れっきとした“有薗真吾”というプロサッカー選手となり、そしてプロサッカー選手であるがゆえに次の仕事場を求め、数々の思い出に彩られた彼の地を去っていった。

 以降のキャリアは有薗に安住を許さない。2016年は町田。2017年は秋田。2018年は北九州。2019年は奈良。毎年のように所属するクラブも、住処を置く土地も変わっている。その中で1つだけ毛色の違う移籍は、秋田から北九州へのそれ。2017年シーズンに杉山弘一監督の元で劇的なJ3優勝を飾ったチームにおいて、彼はリーグ戦の全試合に出場するなど絶対的な中心選手として躍動していた。その理由の一端を本人はこう説明する。

「秋田に残る選択肢もありましたけど、移籍先が九州というのが一番大きかったですね。福岡は地元ですし、両親がアウェイの九州の試合は見に来てくれるんですけど、なかなかホームで試合に出る姿を見せられていなかったので、『現役中に両親にそういう姿を少しでも見せたいな』という気持ちも、移籍した理由にありました」。クラブライセンスの問題もあり、J2というカテゴリーへの想いも含めた移籍だったが、チームはまさかの最下位。リーグ戦22試合に出場した有薗も、シーズン終了後に契約満了を伝えられる。

「引退の可能性はありました。あったんですけど、自分の中で『もう少しやれるんじゃないか』って。北九州で自分の満足行くサッカーができていなかったので、『チャンスがあるのならばもう一度やりたい』という気持ちを、奥さんも含めてですけど考えていました」。トライアウトにも参加した有薗に、オファーを届けたのはJFLに在籍する奈良クラブ。しかも新たに就任する指揮官は、秋田時代を共にした杉山監督だった。

「スギさんの元を自分から離れたにもかかわらず、こうやって声を掛けていただけたので、もう一度スギさんの元でチャンスを与えてもらったことに感謝して、プレーで還元していきたいですよね」。かくして新天地は奈良に決まる。前述したように、向慎一と並んでチームの中では最年長。Jリーグでの経験もクラブの中で最も重ねている。託されている役割は決して小さくない。

 杉山監督は有薗について、こういう言葉で信頼を寄せる。「彼は大きく言うと2つ良い所があります。1つはやっぱり経験があって、リーダーシップがあります。もう1つは対人の所で、凄く上手くて、賢くて、強いです。そういう所で今は本当に貢献してくれていると思っています。これからチームが苦しい時もあったり、うまく行く時もあると思うんですけど、そんな時にもチームを鼓舞してくれたり、チームを引き締めてくれたり、そういう所に期待しています」。

 開幕からの2試合は共に0-1での敗戦。連敗スタートとなってしまった。フル出場の続く32番は、ここまでの180分間についてこう言及する。「リーグ全体的に『スピード感がゆっくりしているのかな』とは感じますけど、そのゆっくりしたペースに自分たちが合わせる必要はないと思っているので、もう少し自分たちで主導権を持ってやっていかないといけないかなというのはありますね」。

 攻撃面ではシュートの少なさも目に付く。「ゴール前まで行く回数が少なかったので、もっと増やしていかないと確率が上がってこないのかなと思います」。それでも立ち止まっている時間はない。「変わらずに続けていく、プラスやっぱり新しいことをどんどん見つけて、トライしていく作業をやり続けていくことが大事かなと思います」と言い切った指揮官を信じ、チャレンジを根気強く続けていく他に勝利への近道がないことは、おそらく選手たちが一番よくわかっている。

 有薗にとってはチームメイトの境遇も、かつての自身に重なる所が多いようだ。「ウチのクラブの選手はほとんど働いているんですけど、今はキツい想いをしていても、何年か後に結果次第ではプロ契約になれますし、そういう姿も自分が見せていかないといけないのかなと。今サッカーだけで生活できることが当たり前じゃないと思うことを、自分でも常に心掛けていますね」。“あの頃”を知っているからこそ、話せることがある。“あの頃”を知っているからこそ、伝えるべきことがある。彼の背中から若い選手が学び、それがまた後進へと受け継がれていくことに、彼が歩んできたキャリアの大きな意義があるのではないだろうか。

 今年でプロキャリアは10年目に突入する。「正直10年前に、今の自分は想像できていなかったです。この年までサッカーができているのも不思議というか。でも、やり続けていく中で、ここまで来たし、最後の最後まで、自分がサッカーをプレーできなくなる環境になるまでやりたい気持ちはありますね」。

 憧れは日常に変わり、日常は現実を伴い、現実はまた憧れを連れてくる。最後に有薗にあえて今後の夢を尋ねると、「夢ですか…」という反芻にこう言葉を重ねた。「まずはこのクラブでJ3に上がることですね。やっぱりDAZNとかもJリーグしか見られないじゃないですか。今まで所属したクラブの関係者やサポーターも気に掛けてくれている方がいると思いますし、またJリーグの舞台で活躍している姿を見せることが一番大事だと思うので、頑張らないといけないですね。もっともっとやらないといけないです」。

 都内の試合ということもあって、数多く応援に訪れた有薗の知人が彼の登場を待っていることは知っていた。取材に応じてくれたお礼を伝えようとした時、もう1つの秘めた夢を、そっと教えてくれた。「夢というか、いつかもう一度“草津”のユニフォームを着たいというのはあります。可能性はゼロに等しいかもしれないですけど、サッカーをやっている以上はもう一度、あのユニフォームを着たいなというのはあります」。“ザスパクサツ”でもなく、“群馬”でもなく、自然と口にした“草津”が、何よりもその想いを雄弁に語る。実直でまっすぐ。丁寧で繊細。今まで踏みしめてきた道のりでもそうだったように、奈良の地を愛し、奈良の地で愛される日々が、きっとこれからの彼を待っているのだろう。

 10年の時を重ねてきたからこそ、その響きがあの頃を鮮明に思い出させてくれる。ただ前だけを見つめて、ただ上だけを見据えて、何者かになりたいと願っていた自分を。「“初心”の気持ちというのは凄く大事だと思ったので、もう一度この番号を付けたかったんです」。あの頃と同じ32番を背負い、歴史ある古都の地で再び“初心”を呼び起こしている有薗真吾は今、サッカーと共に生きる幸せを噛み締めながら日々を過ごしている。

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