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12歳の頃に性的虐待受け、薬物中毒にも…苛烈な人生を送る元バルサDFの物語

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 現在スペインで、元サッカー選手が世に送り出した自伝が話題となっている。

 元選手の名はフリオ・アルベルト・モレノ。アトレティコ・マドリーバルセロナに在籍し、スペイン代表でも活躍した選手だ。だが彼はピッチ上での闘争心あふれるプレーだけではなく、苛烈なる人生を送ってきた人間としても知られており、先に発売された自伝「死んだことは思い出せない」でこれまで経験した様々エピソードを記している。

 アトレティコの下部組織出身であるフリオ・アルベルトは、1978年に故ルイス・アラゴネス氏率いていた同クラブのトップチームでプロデビュー。アトレティコではタイトルにこそ恵まれなかったものの、スペイン有数の左サイドバックとしての名声を手にし、1982年夏にバルセロナに移籍。約9年間在籍したカタルーニャの名門クラブではリーガを2回、コパ・デル・レイを3回制するなどして、スペイン代表ではEURO1984、1986年メキシコ・ワールドカップに出場している。

 その一方でフリオ・アルベルトは、幻覚剤の乱用によって何度も死の淵を彷徨うなど、プライベートでは精神的な問題から多くの問題を抱えてきた。自伝発売に関するスペイン『エル・ムンド』のインタビューで、なぜそのような人生を送ることになったのかを問われた彼は、自伝にも記された子供時代のあるエピソードを語っている。

「両親が離婚をして一時的に孤児院に入った。そして12歳のときに参加した夏のキャンプで、男の教師から性的な虐待を受けたんだ。このことは50歳になるまで誰にも話さず、セラピストにようやく打ち明けたときには、椅子を二つ壊してしまった。嫌悪や憎悪といった感情が、それだけ蓄積していたんだ…。そうして、私はようやく自由になれたんだよ」

「子供の頃は何にも守ってもらえず、あの事件の後、数カ月間は何も話さないまま過ごした。そして勉強とスポーツだけをして、最も真面目な生徒になったよ。ただ私がすることを唯一望んだのは、本を読むことだった。それはほかのすべての感情をブロックするためだったが、それでもダメだったね。奴の顔は、頭にしっかりと刻み込まれていた」

子供の頃の体験も影響してか、彼は精神的な不安定さから幻覚剤の虜に。選手として獲得した名声は、マイナスに働くことになった。

「2度にわたって昏睡状態に陥り、心筋梗塞にも一度なった。この世界で、誰よりも死を望む人間にすらなったよ。ただ、それでも自分の内側には、まだ力があったようだ」

「一般の人間であれば、病気から回復してもその家族、周囲の人間しか事情を知ることはない。しかし私の場合は“フリオ・アルベルト=薬物中毒者”という輝かしいレッテルを貼られたわけだよ。これはもう本当に残酷なことで、誰もが自分という人間に疑問を呈し、観察し、次に何をするかを見張るようになってしまった。ジョアン・ガスパールがバルセロナの会長を務めていた頃には、カンプ・ノウに入場することを禁じられたよ」

 フリオ・アルベルトは、薬物以外のエピソードにも事欠かない。自伝の中では女性関係と、3回にわたって経験した飛行機でのアクシデントについても記されている。

「私には21の家で21人の女性と過ごした過去がある。順番通りではないが、名前は全員覚えているよ。数週間にわたるコンセントレーションのときには、そこから抜け出して、何人かの女性をひっかけたね。しかし彼女たちを連れ込む場所がなかったから、走っていた救急車を止めて、運転手に金を握らせて中に入れてもらった」

「飛行機にまつわる話では、まずテグシガルパからエクアドルに向かう飛行機で扉の一つが外れたたまま飛び、サン・ペドロ島に不時着した。2回目の事故はチェコスロバキアからバルセロナに向かう飛行機で、エンジンが燃えたためにジュネーブに不時着。3回目は機体の後部が被雷し、バレンシアの海に不時着することになった」

 これまで何度も死線をくぐり抜け、今年で58歳を迎えるフリオ・アルベルトだが、残された時間は長くないと語る。そんな彼が抱く願いは、心の赴くままに生きることだという。

「4階から落ちたときも何もなく、走る車から飛び降りても無事だった。今も命があることを神に感謝したい。しかし私の人生はもう長くない。あと5~8年といったところだろう。自分の心臓には壊死した部分があるんだ」

「私はもう煙草を吸ってはいけない体だが、それでも吸わせてもらう。残された時間、私は好きなように生きていくよ。ただただ、幸せを感じていたいんだ」

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