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中学ではフットサル日本一、Jから見向きもされなかった大学時代…泣き虫少年だった古橋亨梧がJ屈指のアタッカーになるまで

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「話すのが苦手と聞いたけど、そんな印象はないんだけど」と話しかけると、画面越しの古橋亨梧は少し申し訳なさそうにはにかんだ。

「しゃべるにはしゃべれるんですけど、上手く伝えるのが得意ではないというか……よろしくお願いします!」

 素顔は26歳の好青年。ただ緑の芝生に一歩足を踏み入れば、勝負師の目つきに変わる。自信に溢れた表情はどこから来るのか。J屈指のアタッカーに成長した古橋のキャリアを振り返ると、その礎がみえてくる。

 子供のころから心の優しい少年だった。地元である奈良県生駒市の桜ヶ丘FCでサッカーの楽しさを知り、大好きなサッカーに打ち込んできた。ただもっと上手くなるためには、厳しい環境に身を置かないといけない。誰かに言われたわけではないが、当時の古橋少年には、「厳しいところに行かないとサッカーが上手くならない」という直感があったという。そこで中学進学と同時に県内の強豪クラブであるアスペガスFCに挑戦することに決めた。

「アスペガスFCは小学校時代から対戦していたので、強いチームだということは知っていました。でも怖いイメージがあって、みんなは行きたがらないチームでした。今だから言えるんですけど、アスペガスの練習に行った初日に、僕大泣きしてしまったんです。小学校は楽しくサッカーをしようという感じだったのに、一気にそういうイメージのチームに行くということになったので、怖かったのかもしれません。でも監督がすぐに来てくれて、『一緒にサッカーをしよう』と言ってくれた。実際、すごくいい人たちばかりだったので、すんなりと入ることができました。アスペガスではたくさん走りましたし、試合に負けたらすごく怒られたけど、そこで負けず嫌いの精神を叩き込んでもらった。今では行って良かったなと本当に思います」

 日本サッカー協会(JFA)の公式サイトを遡ると、意外なところで「古橋匡梧」(※)の名前をみつけることができる。2010年1月に福岡県北九州市で開催された第15回全日本ユース(U-15)フットサル大会。関西地域代表になったアスペガスFCの一員として出場した古橋は、1次ラウンドでハットトリックを記録するなど、大会通算6得点を決める活躍でチームを日本一に導いた。

「僕自身、全国大会に出るのも初めてだったこともあって、そのまま優勝できるとは思っていませんでした。でもそこで優勝できたのはいい経験になったなと思います。実は決勝の開始数分で足の指を骨折しちゃったんです。それで交代したらチームが失点してしまって。その時はもちろん骨折しているなんて思ってもいなかったので、テーピングをぐるぐる巻きにして試合に出ました。表彰式の時に喜びすぎて痛みを忘れて、周りからお前は大丈夫かみたいに言われたけど、それくらい嬉しかったことを覚えています」

 当時のアスペガスには現在松本山雅FCに所属するDF下川陽太が同期で在籍。同大会の決勝を戦った長岡JYFCには、今季より川崎フロンターレでプレーするMF小塚和季がいた。「(小塚は)その時からすごく上手くて、翻弄された思い出があります。上手いのは当たり前だなと今でも思います」。また「今でも無意識に足裏で止めたりするので、フットサルがいい経験になっている」とも振り返る。のちのサッカー選手・古橋亨梧を形作る上では、なくてはならない経験になった。

 興国高校への進学も「直感」だったという。「練習試合に招待してもらって。その時に高校の監督の内野(智章)さんと話をした時に、面白いから行ってみたいなと思いました」。今では『関西のバルセロナ』と呼ばれ、“Jリーガー輩出校”としての知名度が全国に広がっているが、入学当初はプロ選手はゼロ。ただ当時からサッカー部でスペイン遠征を行うなど、独自の強化が進められており、古橋もその中でもまれ、サッカースキルを高めていった。

「僕は修学旅行に2回行かせてもらっているんです。同じクラスでもハワイに行く子がいたり、ほかのクラスの子はオーストラリアに行ったりして、コースによって全然違う。サッカー部はスペイン。そこで海外のチームと試合をします。僕は高1と高2の時に行ったのですが、海外に行くのもその時が初めてで、海外のチームと対戦するのも初めてでした。でもそこで日本人にはない独特の足の長さ、身体能力を体感しました。今でも覚えているのが、同年代の選手がゴール前でオーバーヘッドをしたこと。あまり日本では見なかったプレーで、結構な勢いのあるシュートを蹴られた。その時に海外の選手ってこんなに身体能力があるんだと痛感させられて、世界は遠いなと思わされました」

 同級生のMF和田達也(栃木)や山本祥輝が卒業と同時に同校初のJリーガーとなる中で、古橋は大学進学を決断。もっとも、高卒時点ではプロから声がかかる選手ではなかったと自覚しているが、「すごく悔しかったし、羨ましかった。結果的に僕は大学に進んで良かったと思うけど、当時は焦りは常にありました」。そんな思いで始めた初の関東での生活。しかし中央大に進んだことが古橋の心を強くしていった。

「初めて親元を離れて、寮で共同生活。寮は1年から4年まで一人ずつ、4人一部屋で生活するのですが、身の回りのことは1年生が担当します。それまで親にやってもらっていたことが当たり前じゃないんだと思ったし、そういう経験があったから感謝の気持ちが生まれました。またサッカーでは入学したときに同じ代の推薦組が全国に出た選手だったり、プロ下部組織のユースの選手で、僕だけが大舞台を経験していなかった。そこで一回挫折したというか、ここでやって行けるのかなって。最初は不安しかありませんでした。でも逆にだからこそ腐らずに頑張れたとも思います。地道にできることをやってきたから1年生から試合に出させてもらえた。たくさんの先輩たちにも助けてもらったなと思います」

 関東選抜に選ばれるなど、下級生のころは順調に進んだ。しかし3年生の時に膝を負傷したことが歯車を狂わせた。シーズンのほとんどを棒に振り、チームも2部に降格。進路に影響する最終学年を、スカウトの目の届きにくい2部リーグで過ごすことになった。そしてプレー面でも空回り。リーグ戦20試合に出場したが、リーグ14位の6得点。チームも5位に終わり、1年での1部復帰を逃した。

「関東2部は1部に比べたらなかなか陽が当たらないところというか、すごく頑張らないと見てもらえない。個人としても1年間すごく頑張ったんですけど、なかなか思うように結果が出せなかった。(Jクラブの)練習会に何チームか参加させてもらったけど、そこでも自分らしいプレーがなかなかできなくて、特長も出せませんでした。当時を思うと今の自分は全く想像できないですね」

 ただ、ここである出会いが古橋の運命を変える。J3クラブのテストも不合格になっていた男が、FC岐阜の監督に就任したばかりの大木武に認められ、Jリーガーとしてのキャリアを歩むことになった。「大木さんに出会えたのはすごく大きかったと思っています。特長のあるサッカーで毎日がすごく楽しかった」。開幕からスタメンで抜擢されると、ルーキーイヤーはリーグ全42試合に先発出場。翌18シーズンも試合に出続け、夏にJ1神戸から声をかけてもらえる選手になった。

「大木さんとは試合の翌日にジョギングをするんですけど、その時に『お前は大丈夫だ』『継続してやれ』『何にも考えなくていい』とずっと言ってくれていた。『成績が出なかったら俺が責任を取るから』って。それでちょっとずつ自信がついていきました。当時はシュートを外してばかりで申し訳なかったけど、大木さんはそれでも使い続けてくれた。だから2年目に神戸に来ることも出来たと思います。大木さんの言葉は大きかったなと思います」

 そしてヴィッセル神戸では言葉では表しきれないほどの衝撃的な毎日が待っていた。ドイツ代表で10番を背負ったルーカス・ポドルスキが在籍し、バルセロナを退団したばかりのアンドレス・イニエスタが加入。ドリームチームへの加入は古橋自身を更なる高みへと導き、19年11月には初めてサムライブルーのユニフォームにも袖を通した。

「今までたくさんの人たちと出会ってきて、たくさんのことを教えてもらったことで今の僕がある。神戸に来てからも、アンドレスだけじゃなく、ルーカス・ポドルスキ、ダビド・ビジャなど、たくさんの外国籍選手が神戸に来てくれて、日本人選手でも山口蛍選手や酒井高徳選手。ほかにもたくさんの選手がいる中でやれているのは運命だと思っています。その中でサッカーが出来ることは宝物で、一生忘れないこと。毎日幸せだなと思って毎日練習していますし、その出会った人たちに恩返しできるようなプレーをこれからもしていきたいと思います」

 コロナ禍で異例のシーズンとなった昨季だが、古橋はリーグ30試合に出場してチーム最多となる12得点を記録。神戸でキャリアハイのシーズンを過ごした。リーグの得点ランキングをみても日本人3位。成績面では“神戸の顔”とも言える結果を残した。「チームとしては優勝争いをしたい。ACLにももう一回出たいので、それを目指して頑張りたい。個人としてはまずは2桁ゴール。そこから15点、20点と取れればいい。アシストも2桁行きたいと毎年言いながら全然いけていないので、アシストも伸ばしていきたい。得点王?昨年はオルンガ選手に離されてしまったので、今年こそは僕が取りたいですね」。古橋亨梧、26歳。周囲を驚かせる進化をみせるのは、まだまだこれからだ。

※古橋匡梧が本名。大学まで本名でプレーしたが、プロに入るタイミングで心機一転、登録名を亨梧に変えた。理由については当時、「知り合いの方に占ってもらった。“匡”だったら良いところまで行っても漢字の右側が空いているので“王”が逃げてしまうと。“亨”は片足でも上に上がれるように、という意味が込められています」と語っている。

取材協力:株式会社SPORTS&LIFE
会場協力:WeWork三宮プラザEast

(取材・文 児玉幸洋)
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