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俊輔“レッテル”と戦った4年間。「長所以外でアピールした。俺も走れるよと」

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 中村俊輔が2度目のW杯に挑むことになった。メンバー入りは確実とされ、記者会見では周囲も淡々としたものだった。俊輔本人もドイツ大会のリベンジという思いがあり、大喜びはしなかったが、ある一つの達成感を口にした。

 「俺の場合、ハードルが高かったからね。オシム監督になって、走るサッカーになって、トップ下っぽい選手は大丈夫か? とか書かれてたから」

 2006年のドイツ大会は“黄金の中盤”に代表される、華やかな、創造性あふれる選手がもてはやされた。しかし、オシム監督が就任後、日本人の強みである走力、俊敏性を全面的に押し出したパスサッカーにスタイルが変わった。ファンタジスタ不要論が渦巻いた。

 そんな中でフォーカスされたのが、俊輔だった。俊輔はオシム流に耐えられるのか、走れるのか、代表に呼ばれるのか-。専門誌などで常に懐疑的な報道を目にし、反骨心が芽生えた。俺も走ってる、フィジカルだって、弱くはない。「そうじゃない、俺も走れるよ、というのを見せたかった」という俊輔。何とか周囲を見返したかった。

 たしかに、当時はレッジーナ→セルティックでプレーしていたが、数値的には決して運動量は劣っていなかった。フィジカル面でも改善していた。本人も手ごたえを感じていた。しかし“弱い”というレッテルは簡単に剥がれない。さらに走れる体を作ろうと努力を続けた。結果、オシム監督の元でも背番号10を与えられ、期待を集めた。

 「(オシムジャパンに)入れて、使ってもらえた。岡田監督になっても入れた。どんな監督でも使われたい気持ちでやった。自分の長所以外のところでアピールしようとした。それが、ここまで残れたんだと思う」

 念願のスペインリーグ移籍を実現されながら、後ろ髪を引かれる思いで、エスパニョールから横浜FMに復帰を決断した。周囲の目も気にはなったが、賭けに出た。まさに自分との戦いに勝利し、メンバー入りをつかんだ。もちろん、選ばれたことに満足はしていない。とにかく、ドイツで味わった悔しさを晴らしたい一心だ。上手いだけのファンタジスタから、現代版の走れる司令塔へ。4年の歳月を経て、成長した姿を世界舞台で試す。

(取材・文 近藤安弘)
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