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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:炎のストライカー、海を渡る(常葉大・小松慧)

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常葉大から新潟シンガポールへ進む「炎のストライカー」ことFW小松慧

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 チャンスが目の前にあるのならば、飛び込まない理由はない。どんなに多くのディフェンダーが立ちはだかっているゴール前であっても、どんなに困難が待ち受けている選択肢であっても、とにかく頭から身体ごと突っ込んでいく。それが「利き足は魂だ」と言い切る、この男の生き様だからだ。

「ちゃんと向こうで成功して、シンガポールで小松慧を知らないヤツはいないというぐらいになったら、今度は声が掛かったタイミングで、日本に戻って来たいと思います。向こうで『ファイヤー!ファイヤー!』と呼ばれるようになって、シンガポールに銅像が立つぐらいの有名人になりたいですね」。

 炎のストライカー、海を渡る。滾るような情熱を燃やし続けるドラマチックタフガイ。常葉大FW小松慧(4年=青森山田高)はシンガポールの地で、新たなチャレンジに身を投じていく。

 いわゆる“エリートコース”と呼ばれる道を歩いてきた。中学時代はFC東京U-15深川で全国制覇を経験。U-18への昇格は叶わなかったものの、進学した青森山田高でも3年時に出場機会を掴むと、最後の高校選手権ではスーパーサブとして躍動。準決勝、決勝と続けて埼玉スタジアム2002でゴールを奪い、優勝にきっちり貢献してみせ、『炎のストライカー』の名前を全国に轟かせることに成功する。

 そんな小松は高校卒業後の進路として、静岡の常葉大を選択した。この経緯を知るには、日本一の歓喜を味わったその日から、少し時計の針を巻き戻す必要がある。

「僕の父は日本人ですけど、パラグアイ出身なんですよ。20歳まで向こうで生活していて、3万円と航空チケットだけ握りしめて日本にやってきて、そこから独学で車の勉強をして、今はレース界の一番上のメカニックをやっているんです。そういう人なので、メチャメチャ厳しくて……」。

 もともとはFC東京のアカデミーに入った時点で、Jリーガーになれるだろうというのが父親の感覚。U-18への昇格がなくなった時点で、高校進学にも疑問を呈される中、特待生での入学を勝ち獲ったため、青森の強豪の門を叩くことができた。ゆえに高卒でプロになることは、進学する上での約束の1つだったという。

 ただ、高校3年時の夏まで所属チームでレギュラーを確保できていない選手に、当然ながらプロからのオファーは届かない。サッカーは続けたい小松にとって、それまでの経緯を考えても、親の力を借りずに特待生として獲得してくれる大学へ進学する以外の選択肢は、残されていなかった。

 当初は関東の大学を中心に考えていたものの、正木昌宣コーチの言葉が心の中にストンと落ちた。「『オマエに正しい選択をしてほしいから言うけど、何で関東行きたいの?遊びたいだけじゃないの?自分の心に聞いてみろ』と言われて、僕は冷静に考えて、そういう部分もあったので『地方の大学で勝負します』と言ったんです」。最終的には興味を持ってくれた常葉大との縁が結ばれる。小松は高校日本一を手土産に、静岡の地で改めてプロサッカー選手を目指す4年間を過ごすこととなった。

 スタートは順調だった。入学直後から公式戦にも起用され、ゴールも記録。上々の大学サッカーデビューを果たす。ところが、少しずつプレーの歯車が狂い出し、結果から見放される時間が続くと、出場機会も限られていく。そんなタイミングで、小松はある人物から声を掛けられる。

「『ノボリさん(澤登正朗監督)に使われているオマエが、どういうふうになるかを今まで見ていたけど、学ぶべきものを学ばないと、試合には出れないよ。オマエがどれだけ結果を出してきた人間なのか知らないけど、何かが足りないから高卒でプロになれていないのに、この半年間も高校と同じような意識で取り組んでいるよね。それじゃ“逆転ホームラン”打てないぜ、小松』みたいに言われたんです」。

 その人とは、当時チームのコーチを務めていた山西尊裕。ストレートな言葉が小松の心に突き刺さる。「それまでの自分は伝統のあるチームに入って、そこでタスキを受け取って、そのタスキを渡して出ていっていたんだということに気付いたんんです。『オレはそういうところに入っていただけだな』って。タスキを作っている段階のチームに入ったのは初めてだったので、『もうそういうところに入ったからには、その中でどういうチームを作っていけるかどうかが大事だな』って考えるようになったんですよね」。

 頭を巡らせるのは、どうすればこの集団が上に行けるか。幸いなことに今まで在籍してきたチームのおかげで、“タスキ”のイメージはできていた。「もう1年の頃から『ちゃんとやれよ』とか言っていましたし、それを4年生も聞いてくれたんです。ただ、僕がちゃんとやっているからこそ聞いてくれるわけだから、そこは自分の中でも凄く手応えがありましたし、バンバン意見していました。その代わり、言葉に出すからには僕に責任が発生するので、その呪縛をこの4年間で誰よりも背負い続けてきた自信はあります」。

 周囲に要求する分、自分も誰よりもサッカーと真摯に向き合う。そんな彼の意見を受け入れるだけの度量が、先輩たちにもあった。3年時には副キャプテンを任され、4年生とともにそれまで以上にグループの中心として、チームの価値を高めることに腐心する。そんな3年間を経て、最上級生になる小松がキャプテンに就任するのはごくごく自然な流れだった。

「キャプテンは初めてでしたけど、もともと僕はそういうものをやりたいなとずっと思っていましたし、『オレがこのチームのすべてを変える』という想いでやってきたので、自分の学年でキャプテンをやらせてもらった中で、一番大事なのは自分たちの代の選手からの信頼だなって。でも、今年は頼れる同期がいっぱいいるので、みんなが僕を最後にはキャプテンにしてくれるだろうと確信していました。それは難しいことですし、みんなに頼っていると思われるかもしれないですけど、僕がひた走った先にそれが待っていると信じていたので」。

 2022年の年明け。新チームが始動する際に、小松は改めてチームメイトと話し合いながら1年間の“決まり事”を固めていく。「ルールも基準も目的や目標もそうですし、『あるべき姿はこうだよね』ということを共有したんです。その中で僕はみんなに『強く愛される選手に、強く愛されるチームに、応援されるチームになろう』と言いました。これはFC東京で知ったものなんですけど、FC東京の人たちは本当に温かい人たちで、外に出た後も『ファミリーだ』ということでいつも連絡をくれますし、高校時代ももちろんそういうことを学んできましたけど、言葉にするとなったら僕はそれが一番しっくりきていたので、僕がチームに『こうあろう』ということを伝えました」。

 もう1つ、チームには大きな転機が訪れていた。9年間に渡って指揮を執ってきた澤登監督の退任に伴い、山西コーチが監督へと就任することになったのだ。「僕は山西さんと二人三脚で歩いてきた感覚があって、あの一件から2人で話すことが増えて、指導者といち選手という関係性はありながら、良い意味でお互いラフに話せましたし、正しく意見を通すために、正しい信頼関係や関係性を築いてきた感じがありましたね」。小松にとっても、常葉大にとっても、大きな勝負を懸ける1年が幕を開ける。

 シーズンが進むにつれて、キャプテンは自分たちを取り巻く環境の変化を、ハッキリと感じていたという。「今年はちょっとずつですけど、お客さんが増えてきたんですよ。『常葉のサッカー面白いね』と僕たちの試合を見に来るのをルーティンにしてくれている人たちもいて、僕たち学生は何でその恩を返せるかと言ったら、やっぱりサッカーを通した感動や魅力も含めた力を見に来てくれた人たちに与えることで、そこが学生サッカーの価値だと思っているんです」。

 また、夏前にはグループの一体感をより強固にする“出来事”も起きていた。「山西さんがオレらに弱さを見せたことが1回だけあって、『正直オレだって不安もいっぱいあるし、どうやって行こうかってメッチャ考えているんだよ。それで考えた結果がこれだぜ。こんなもんなんだよ』って言ったんです。ジュビロの黄金期を過ごして、15年以上プロでやってきた人が、20歳そこそこのガキどもに『ヤマさん、それ違うと思いますよ』と言われて、『確かにそれは間違っていたわ。すまない』と頭を下げられることに器の大きさを凄く感じましたし、改めて『この人には敵わないな』と思いましたね。その時に、山西さんの1年目を一番良い結果で終わらせたいし、オレらも最高の結果で終わりたいという気持ちがマッチした感じはありました」。

 夏の総理大臣杯には3大会ぶりに出場し、初戦で桐蔭横浜大をPK戦の末に撃破。2回戦では優勝した国士舘大に延長戦で競り負けたものの、全国の空気感を久々に味わうと、東海学生リーグも2位でフィニッシュ。インカレの出場権を獲得する。キャプテンとして臨む大学最後の大会。小松は覚悟を決めていた。

「『1位以外は全部一緒だな』って。負けて学ぶことももちろんありますけど、それは負けたチームが言う綺麗事で、勝って、勝って、常葉を日本一にして、この仲間と一緒に喜んで、しっかり後輩に置いていくものは置いていって、自分は次のステージに進もうって」。目指すのは中学と高校時代に続く3度目の日本一。この仲間と一緒に、一番高いところから見える景色を、全員で。

「こういう試合になることは想定内と言えば想定内ですけど、ここまではちょっと予想し切れていなかったです(笑)」。小松が笑いながら、そう口にする。インカレの初戦。強豪の関西大と対峙した一戦は超激闘。前半で2度のビハインドを追い付き、後半に入ると逆転に成功。しかし、そのまま勝利かと思われた後半アディショナルタイムのラストプレーで同点弾を食らう。

 3失点目の直前に交代でベンチに下がった小松がピッチ脇から見つめる中、延長前半に痛恨の失点。それでも延長後半に4-4とスコアを振り出しに戻すと、PK戦で力強く勝利を引き寄せる。「最後まで諦めない気持ちはあるけど、身体が動かなかったのが夏の国士舘戦で、そこからあと一歩、あと1センチ、あと1ミリ、みたいなところに凄くこだわってやってきたので、それがこういう結果になって良かったと思います」。試合後の取材エリアに登場したキャプテンは、いつも通りに雄弁だった。

「なんか、もう行ける気しかしなかったです。『オレたちはこういう戦いをするために来ているんだ』という雰囲気がありましたし、それぐらいの想いを持っていなかったら、立ち位置を覆せないだろって。下馬評で言ったら『絶対に負けるだろう』と思われているチームが“逆転ホームラン”を打つにはこういう展開しかないし、それでも勝つためにすべての力を注いできたので、もう楽しさしかなかったです」。

 あふれ出る言葉は、止まらない。「サッカーを向上させるためにはグラウンドだけに答えがあるわけではなくて、実はピッチ外での出来事だったり、日頃の行いだったり、そういうところに意外とヒントがあって、簡単に言えば答えのないところに、答えを求めている選手に結果は出ないんです。プライベートの行動1つとっても、そこで『こういうところがダメだったんだな』と気付ける選手は成長しますし、能力がない選手ほどそこに気付かないといけないと思うんです」。

「それは“ウサギとカメ”の話と一緒で、能力のあるヤツらはそれに気付かないから、カメにも逆転が起こせるわけで、『オレたちはカメなんだ』『休む暇はないんだ。少しでも進み続けるんだ』ということはチームに伝えてきました。ウサギがカメの気持ちを理解して、カメのようにやられたら勝ち目はないですけど、世の中を見てもそんなウサギはなかなかいないんです。だから、天才とも呼ばれるんでしょうけど、僕は絶対にカメタイプだと思いますし(笑)、それでも『ウサギに逆転して勝ってやる』という想いでやっているので、みんなにもそういうことは伝わっているのかなって」。

「僕はずっとウサギの中にいるカメでしたから。選手権も限りなくウサギに頑張ってくっついていこうとして、最後にカメが結果を出しただけなので、やっぱりウサギにはなれないんですよ。それを十分に理解しているからこそ、大学の4年間ではいろいろな意味で成長させてもらいましたし、今年はキャプテンをやらせてもらっていますけど、みんながしっかり付いてきてくれていることに感謝したいのと同時に、僕が『付いて来い』と言った時に、みんなが付いて来たくなるようにならないとダメだと思うので、今年は自分に対しても、人に対しても厳しくしてきましたし、“青森山田イズム”は間違いなく常葉にも受け継いでいるつもりなので、今年は僕の言葉がみんなに届いている手応えはあります」。

 その熱さは、高校時代とまったく変わっていない。「今日はチーム全員にとって忘れられない日になりました。だけど、僕たちは歴史を変えに来ていて、『新しい景色を見よう』と言っているので、それをチームのみんなにも味わってもらいたいなと思います」。久々に会った『炎のストライカー』は、暑苦しいぐらいに『炎のストライカー』だった。



「メッチャ悔しいですね。それだけです」。小松が少し目を赤くしながら、そう口にする。インカレの3回戦。開始9分で関西学院大に先制されると、以降は決定機も掴みながら、どうしても1点が遠い。11番にもチャンスは巡ってきたものの、ゴールは奪えず。ファイナルスコアは0-1。常葉大の進撃は、ベスト8での敗退を余儀なくされる。

 試合が終わった直後は倒れ込むチームメイトに声を掛けていたキャプテンも、バックスタンドで声を嗄らした応援団に挨拶を終えると、もうそれ以上は我慢できなかった。「最初は全然泣いていなかったんですけど、ベンチに4年生の同期のヤツが2人いて、ずっと声を出してくれていて、ずっとチームを支えてくれていて、アイツらは自分の感情を押し殺してサポートしてくれましたし、スタンドの仲間も浜松から自分の車とかで応援に来てくれたりして、いろいろな人の想いも感じたからこそ、やっぱり勝ちたかったので、4年間の想いが全部出てきてしまいました」。

 考えを整理しながら話していく中で、やはり口を衝いたのは仲間への感謝だった。「環境に恵まれた部分はたくさんありますけど、山西さんは『オマエがそれを引き寄せたんだ』と言ってくれたんです。FC東京の時もそうですし、青森山田の時もそうですし、僕が今まで出会ってきた指導者は、全員がまず人間性を大事にしてくれたなって。それに今年は同期に本当に助けられましたし、最後は『みんながオレをキャプテンにしてくれるんだ』という想いでプレーしていたので、みんなに日本一の景色を見せられなかったことを考えると、自分の情けなさと力不足を痛感した試合でした」。

 4年間を共に過ごした“恩師”への想いも、小松は語り落とさない。「選手の観点からも、スタッフの観点からも、一番高いところで折り合いを付けるところは2人で心掛けてきて、それをずっと1年間やり続けることができましたし、山西さんのおかげで4年間が本当に良いものになったなと思います。朝の8時ぐらいに電話を掛けてきて『小松、起きてる?』『いや、今の電話で起きました』みたいな感じから入ってチームの話をしたりとか(笑)、カフェでミーティングしたりとか、いろいろな時間を共有してきた中で、どうやって大人と自分の意見を戦わせていくのかは、大学4年間でものすごく学ばせてもらいました」。

 山西監督も“教え子”については称賛を惜しまない。「彼がいなかったらたぶん今の4年生もなかったでしょうし、このチームもなかっただろうなっていうぐらい存在感がありましたね。自分はウエルカムなんですけど、『監督、これは違うんじゃないですか?』と言ってきたり、監督がお叱りを受けるようなキャプテンで(笑)、いろいろな衝突があった中で自分も成長させてもらいましたし、チームも成長させてもらいましたね。本当にここからも楽しみだなと思っています」。この懐の深い指揮官にして、このキャプテンあり。これだけの信頼を築ける師弟関係も、そう多くはないだろう。

 多くの人が期待している“ここから”を、小松は異国の地でスタートさせる。行き先は東南アジア。シンガポールプレミアリーグに在籍している、アルビレックス新潟シンガポールへの入団を決断したのだ。

 リーグが設ける年齢制限のレギュレーションもあり、クラブとの契約は1年。ステップアップへと繋げる時間は限られている。「自分としては日本に強いこだわりはそんなになくて、『絶対日本に戻ってくるんだ』という想いよりは、『シンガポールで成功したい』と思っているんですよね。大学の先輩の山下柊哉はこのチームで1年頑張って、外国人枠なのにシンガポール国内のクラブとの契約を勝ち獲ったんです。だから、僕もここでちゃんと成功して、シンガポールでオレのことを知らない人はいないぐらいまでにはなりたいです」。

 その先に思い描いている夢は、高校時代からずっと変わっていない。「ここからは時の流れに身を任せて、そのフェーズで戴けたチャンスを頑張るだけですけど、最終的にはFC東京に入りたいです。やっぱり大好きなクラブですし、大卒で戻れれば一番良かったですけど、現状自分がそのレベルにないことはわかっています。それでもまだ連絡をくれたり、気にしてくれる人がいるので、いつになるかはわからないですけど、最終的にはあの青赤のユニフォームを着て、いろいろな人に恩返しできるのが最高ですね」。そのためには謙虚に、真摯に、今できることを、150パーセントの出力でやるだけだ。

 高校3年から、いつの間にか呼ばれ始めたニックネームは、自分でも相当気に入っている。「『炎のストライカー』はいつまででも名乗りますし、いつまででも『ファイヤー!』って言い続けますよ。それこそインカレの関大戦の前にトイレに行ったら、『あ、アイツ“ファイヤー”じゃね?』って言われて(笑)。それも含めて人に名前を覚えてもらえることは、どんな形であれ幸せなことですし、これからも小松慧という個人のブランドで生きていけるように頑張りたいと思います」。

 シンガポールでも「ファイヤー!」と絶叫している姿は、容易に想像できる。炎のストライカー、海を渡る。きっと暑苦しいほどの情熱と、すぐさま築き上げるであろう周囲の仲間との絆に彩られた小松慧のネクストステージが、獅子の国のピッチで幕を開ける。



■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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