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出るだけでなく、出続ける…浦和GK鈴木彩艶「優勝を決めたピッチに自分が立てるように」【単独インタビュー】

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 多くの事を経験した2021年となった。浦和レッズGK鈴木彩艶は待望のJデビューを飾るだけでなく、一時期は名手・西川周作からポジションを奪い取った。さらにU-24日本代表の一員として東京五輪も経験。しかし、「一言で言うと、悔しいシーズンだった」という。大きな期待を寄せられる19歳GKが昨季を振り返るとともに、新シーズンへの思いを語る。

浦和は日本を代表するビッグクラブ
そこでピッチに立つ重みを感じている


――いろいろなことを経験された2021年だったと思います。振り返ってみて、どのような1年だったと感じていますか。
「まず、1年が始まる前に浦和レッズで試合に出続けるという目標を立てました。そこから、プロデビュー(21年3月2日、ルヴァン杯GL第1節湘南戦)、Jリーグデビュー(5月9日、J1第13節仙台戦)することができ、その後のリーグ戦も数試合出場できました。でも、ポジションを奪うチャンスだったにも関わらず、安定したプレーができずに再びGKの座を奪われてしまった。そこから、自分は奪い返すことができずにシーズンが終わってしまったので、一言で言うと、本当に悔しいシーズンでした」

――20年シーズンは試合出場がゼロに終わりました。昨年はデビューを飾ったことで、大きな一歩を踏み出したとも感じます。
「一昨年はずっとトップチームでプレーしていましたが、試合に出ることができずに自分の力を試合の中で確かめることはできなかった。そういう部分を考えると、まずは試合に出ることができたのは一つの大きな成長かもしれません」

――Jリーグデビューとなった仙台戦はホーム・埼玉スタジアムで迎えます。西川周作選手という、日本を代表するGKの代わりに出場することでのプレッシャーもありましたか。
「浦和レッズは、これまで多くの選手がプレーしてきたチームだし、日本を代表するビッグクラブです。自分としては西川選手の代わりに試合に出ているというより、浦和レッズの選手の一員としてピッチに立つことに、すごい重みがあると思っていて、そこに対する責任を感じていた。ジュニアから浦和レッズに入り、埼玉スタジアムのピッチでトップチームの選手たちが活躍するのを見てきたので、とても重みのあるピッチだと感じました」

――その仙台戦ではデビュー戦とは思えないくらいの落ち着きを感じました。
「緊張はしていましたが、自分の中では堂々とプレーすることを意識していました。緊張しているところを表に出すのではなく、『できるんだよ』と背筋を伸ばしてプレーすることを心掛けた。ジュニアの頃にトップチームでプレーしていた加藤順大選手(現マッチャモーレ京都山城)は常に堂々とプレーしていて、自分もそうすべきだと学びました。GKというポジションはチームに安定感をもたらすことが必要です。周りに安定感を与えるようなプレー、表情を出していく上で堂々としていることは大事だと感じています」

――リーグ戦デビューから3試合連続完封勝利を成し遂げます。無失点に抑えられた要因をどう感じますか。
「完封できた3試合を振り返ってみても、そこまでシュートが飛んできていないシーンが多く、ディフェンス陣に助けられたので、そこまで自分が何かしたという感覚はありません。ただ、無失点というのはGKにとって一番のことなので、そこに対する自信はつきました」

チャンスをつかみ取れず力不足を感じた
うまくなりたい気持ちが強くなった


――Jリーグデビューから5試合3勝2分と好スタートを切りました。しかし、第18節湘南戦ではミスから2点を失い、2-3の逆転負けを喫して試合後には涙を流しました。
「自分のミスで負けてしまった試合です。リーグ戦の一つの負けは終わった後に本当に大きなものになるので、そういった部分での悔しい思いが強かった」

――GKはミスが失点に直結する厳しいポジションだと思います。そういう経験から立ち直るために必要なことは?
「GKのミスは重大なものになり、失点につながることもありますが、1試合を通しての結果がすべてだと思うので、1回のミスで落ち込んではいられません。引きずって、『ミスをしてしまった』と考えているよりも、試合中は切り替えてプレーする必要があります。試合が終わったときにしっかりと反省し、その後に自分がどう行動するのか、どう練習していくのか、どうプレーしていくのかを考えることが大事だと思っています」

――東京五輪を挟んだ影響もありますが、湘南戦後は西川選手にポジションを奪われ返され、その後リーグ戦の出場はありませんでした。
「試合に出られなくなったのは自分の力不足です。チャンスはもらっていたのに、そこで自分自身がアピールできずにつかみ取れなかった。力不足を感じましたが、うまくなりたい気持ちが強くなったので、そこから練習の質をより高め、量も増えていきました」

――試合を経験することで得られるものは当然あると思いますが、西川選手や塩田仁史選手(昨季限りで引退)とのポジション争いの中で、どのような成長を感じていますか。
「昨年は西川選手と塩田選手と競いながら日々を過ごしてきましたが、2人はとても経験のある選手で、学ぶべきことも多いし、2人とのポジション争いに勝利して試合に出ることは自信にもつながります。もちろん、試合に出ることは大事ですが、ただ試合に出るだけではなく、どういう環境の中で試合に出ているかも大事だと感じています」

――下部組織出身者として、ファン・サポーターからの期待も感じていると思いますが、浦和でどういう選手になっていきたいですか。
「ジュニアのときからトップの選手を見て、浦和レッズに憧れを持ちました。今、自分が逆の立場となり、トップの試合に出て活躍して、育成年代の選手たちのお手本、目標となるような選手になりたいと思っています。あとは、浦和レッズのためにプレーをして、世界でトップクラスのファン・サポーターの皆さんに常に喜びを与えられる選手になりたいです」

パリ五輪を目指すのではなく、
A代表の選手として五輪に行く


――年代別代表では17年U-17W杯、19年U-20W杯、そして昨年の東京五輪に飛び級で招集され、第3GKの立場も経験しています。
「試合に出られない立場であっても、とにかくチームのために貢献しようと行動していたし、プレーしてきた。今後、自分が試合に出られても、出られなくても生かせる貴重な経験ができたと思う。世界大会自体、とても貴重な大会です。なかなか経験することができない中、自分は数多く経験させて頂いています。試合に出られなかったとしても、外から見て感じるものもあるし、チームの雰囲気を感じられることは学びになります。そういった意味では、次の大会では自分自身がリーダーシップを発揮しなればならないと思う」

――昨年開催予定だったU-20W杯の中止を、どのように受け止めましたか。
「もちろん、プレーしたかったです。でも、そこまでネガティブにも捉えませんでした。U-20W杯がなくなったから、すべてが終わるわけでもありません。東京五輪もあったし、最終的に目指しているところはA代表です。そこを目指していかなければいけないので、そこまでネガティブには捉えなかった」

――東京五輪のチームには、直前の合宿で初招集されると、本大会メンバー入りを果たします。事前合宿を含めると1か月以上の長い期間を過ごしました。
「試合に出られないながらも、世界で戦っている選手や日本のトップレベルで戦っている選手と練習できました。普段、対戦できない選手が多かったので、新鮮な楽しさがありました。シュートの強さや技術の高さを肌で感じられたので、そういう部分は自分の成長につながったと思います」

――期待されたチームでしたが、4位で大会を終えてメダルを逃します。試合後のチームの雰囲気を、どう感じていましたか。
「自分は直前の合宿から参加させてもらい、そこから五輪代表チームのメダルに懸ける強い思いをすごく感じていた。自分自身もどんな立場であれ、チームのために行動しようと思っていたので、メダルを獲得できずにとても悔しかった。多くの選手から『次(パリ五輪)は頼んだぞ』という言葉をもらったので、そこで先輩たちが経験した悔しさを生かしていかないといけないと感じました」

――パリ五輪世代で東京五輪に出場したのは久保建英選手と2人だけです。24年に開催されるパリ五輪への思いも強いと思います。
「多くの方から、次の大会があると言われますが、自分としてはそこを目指すのではなく、A代表を目指したい。A代表を目指し、A代表に入ることができれば、自然と五輪代表チームに入れると思う。だから、パリ五輪を目指すのではなく、A代表の選手として五輪に行くという気持ちです」

――そのためにも、まずは浦和で出場機会をつかむことが大事になりそうですね。
「昨シーズンの良い経験、そして試合に出られなかった時期の経験やミスをした悔しい経験を今シーズンの結果につなげられるようにしたい。昨シーズンは川崎フロンターレのリーグ優勝を目の前で見て悔しさを感じたし、その試合でも出場できていない自分がいました。今シーズン、また新たなチームになりますが、試合に出ることの大事さも感じているので、まずはアピールして試合に出続けたい。そして、チームが目標に掲げる優勝を達成したとき、そのピッチに自分が立っているように戦っていきたいです」


(取材・文 折戸岳彦)

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