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バルサ仲本の「うちなー蹴人紀行」

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The「BEST」

   B=Blood(血)
   E=Energy(エネルギー)
   S=Sweat(汗)
   T=Tears(涙)

 今シーズンFC琉球は、この4つの言葉をひとつにし、「BEST」を尽くして戦っている。「血をたぎらせ、エネルギッシュに、汗をかく事をいとわず、歓喜の涙を流すその時まで」。

 JFLに所属するFC琉球は、Jリーグ昇格という明確なビジョンを掲げて世に誕生した。「沖縄からJリーグチームを」。しかしこの言葉を唱えつづけて早や7年、未だ目標は達成していない。

 2003年に産声をあげたチームは、500円のTシャツに背番号をつけたユニフォームを身にまとい、県リーグ最下位の3部リーグからスタートした。当時は野田恭平(FC岐阜)、高地系治(横浜FC)、佐藤真也(ギラヴァンツ北九州)といった現在Jリーグで活躍する選手のほか、比嘉リカルド(元フットサル日本代表)、河原塚毅(現ビーチサッカー日本代表)などが在籍、到底3部チームとは思えない面子が揃っていた。

 当然ながらリーグ戦で全勝優勝、翌年には特例措置で1部に昇格した。その後、藤吉信次(ギラヴァンツ北九州コーチ)といったJ出身者のほか地元選手が新たに入団。そして与那城ジョージ氏が監督に就任した。結果、1部リーグ優勝に加え、県代表として天皇杯にも出場。3回戦で当時J2のモンテディオ山形と3対2の打ち合いを演じ敗れ散ったものの、沖縄のドリームチームに対し、多くのファン、そしてメディアが注目した。

 順調に九州リーグに進出したチームの勢いはとどまることを知らず、期待を裏切らない快進撃を見せた。リーグ戦2位(優勝はロッソ熊本)でフィニッシュすると、JFL昇格への登竜門、全国地域リーグ決勝大会に出場し優勝。とんとん拍子でJFLの扉を開いた。

 明るい光に導かれ、続く「Jリーグ」への扉を開こうとするFC琉球。しかし、ここから歯車が狂いだす。

 初年度から優勝候補に挙げられながらも結果は14位。この責任を取る形で与那城ジョージは監督を辞任し、後を追うかのように藤吉も退団。翌年、ホンダFCを優勝に導いた吉澤英生氏が監督に就任するも、前監督の求心力を失ったチームはバラバラとなりフラストレーションは溜まる一方。順位は17位と低迷し、吉澤氏は解任された。

 しかしこの結果は選手や監督だけの責任ではない。行き当たりばったりとも言えるチーム運営、そして選手への待遇の悪さ。モチベーションの低下を招く様々な要素がこの結果を生んだのだ。

 そして起こった大量解雇事件。経営陣は生え抜き4選手を含む11選手への一方的な解雇通告を行った。事実を知ったファンは失望し即、意見書を提出。しかし明確な回答を得ることはできず、創立の時からチームを支えつづけたサポーターチーム「ベンガラーズ」も多くのメンバーが離脱し、分裂してしまった。今もなお、負の遺産として根深く残る。

 その後チームはフィリップ・トルシエを総監督として招き、選手も大量15選手が入団。血を入れ替えた。チーム誕生から知っている人たちはこの現状に未だ違和感を覚えているかもしれない。年々入場者数が減少しているのは過去の成績だけではないだろう。

 ただ、かつて大量解雇という暴挙に出た経営陣は株主総会において失脚。現在は代表も変わり新会社を設立、今までにはなかったサポーターとの対話の時間を作っている。そして現場スタッフも充実し、選手へのケアも怠らない。その効果からか今シーズン、Jへの昇格は見込めないものの、現在14勝。勝ち点も46で、残り4試合を残した段階で過去最高の記録を更新しつづけている。

 かつて存在していたチームの輝きは未だ取り戻していない。しかし間違いなくチームは成長し生まれ変わろうとしている。夢は日々、現実へと近づく。

 今年「沖縄初のJリーグチームを誕生させる会」が発足。懸案事項であるJリーグ規格の競技場を県内に設置するため署名活動を行ったところ、16万人を超える民意が集まり、県に提出された。

 Jリーグ進出を果たすため、そしてチームの輝きを再び取り戻すため目を輝かせた選手達。そして応援するすべての人々は今、BESTを尽くす。「血をたぎらせ、エネルギッシュに、汗をかく事をいとわず、歓喜の涙を流すその時まで」。

[写真]JFL後期第13節 FC琉球 対 ブラウブリッツ秋田。後半44分、先制点を挙げた松田英樹(左3人目)を祝福するFC琉球の選手達


(文 バルサ仲本)

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