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W杯予選激闘通信「戦士たちの思い」

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 この5月キリンカップコートジボワール戦から、代表のゴールマウスに立つ楢崎正剛。キリンカップ2戦、ワールドカップアジア3次予選2戦と、4戦連続で試合に出場している。
「試合に出ていないときも、試合に出ている今も精神的な変化はない。たとえベンチでの試合が続いても、いつでも試合に出られる準備はしていたから。確かにコンディションを調整する意味で、試合に出ている今のほうがペースが掴みやすいということはあるけれど」

 楢崎が初めて代表に選ばれたのは96年のことだ。その後も代表へ定着したが、98年W杯フランス大会は川口能活が守護神として君臨した。年齢はひとつしか変わらないし、Jリーグでの実績にはそう大差のない二人だったが、こと日の丸という意味では、96年アトランタ五輪出場の川口に分があった。フランス大会の代表での出場数は2試合にとどまっている。
 フランス大会後、監督に就任したトルシエは、多くのGKを試合に起用した。最終的には02年ワールドカップ日韓大会に出場した楢崎も、01年3月フランスに0-5と大敗したあとは約1年間にわたって代表から遠ざかっている。
「あの試合のことは、その後のJリーグでも引きずっていた。あの試合の借りは代表でしか取り戻せない。だけど、代表にも呼ばれることはなかった」
 楢崎にとって、苦しい1年間だった。
 02年秋に就任したジーコは、楢崎を守護神として据えていたが、04年6月ワールドカップ1次予選インド戦を前に楢崎が負傷すると、その後はその座を川口へ与えている。
「何度か試合出場のチャンスを与えてもらったけれど、結果を出せなかった」と当時を振り返る楢崎。結果、06年ワールドカップドイツ大会は、川口が日本代表のゴールを守っている。
 川口がA代表デビュー後、約10年以上の間、日本代表は川口と楢崎の二人のGKで戦っていることになる。
 06年秋に就任したオシム監督、そしてその後の岡田監督も川口を起用している。オシムジャパン始動後、楢崎はしばらく代表メンバーからも外れている。
「所属クラブの成績も悪かったし、選ばれないのであればしょうがないと、選ばれるように頑張るだけだと考えていたけれど、10代の選手や大学生が選ばれたときは、さすがにショックやった」と振り返る。
 07年5月、ようやくオシムジャパン入り。ベンチでの時間が長く続いたが、代表の一員として準備できることを楢崎は純粋に喜んでいるように見えた。しかし、所属する名古屋グランパスの成績低迷は、彼の気持ちを重くしていた。
「楢崎がゴールキーパーじゃなかったら、もっと失点している」と楢崎を評価する声もあるが、当の本人は納得がいかなかった。
「代表に行って、ガンバやレッズの上位の選手が、優勝争いの行方みたいな話をしていても、加わることとができひん。そりゃ悲しいよ」
 昨年末のインタビューでそう話していた楢崎。しかし今季の名古屋グランパスは確実に勝ち点を積み重ねている。

「サッカーは一人でやるスポーツじゃないし、いい成績が残せているのもチームメイトのおかげ。でもやっぱり所属チームで結果が残せている状況と、リーグで苦戦しているときとでは、代表へ合流するときの気持ちが違う」
 6月12日の練習後、ハツラツと楢崎は応えた。
 たった一つの椅子、しかもそうメンバーが変わるわけではないGKというポジション。試合出場のチャンスはわずか。自身の力を証明する機会もフィールドプレーヤーに比べると少ない。しかし、チャンスは思わぬときにやってくる。だからこそ、日々、高いモチベーションでトレーニングを消化する必要性がある。
 追う立場、追われる立場、その両方を経験している。その結果、重要なことは状況に左右されない不動の姿勢だ。
「まずは自分のこと。それがうまくいけば、チームへも貢献できる」と楢崎。
 シーソーのように変わる立場に振り回されるのではなく、常に淡々と試合へ臨むこと。それが彼の流儀だ。
「俺はいつも同じ。目の前のことに集中するだけ」と語る32歳。こめかみ辺りには数本の白髪があった。「“当たってる”っていうのは、キーパーにとって、最も失礼な言葉なんですよ」と強く言い放っていた18歳の楢崎を知る者に、陰に日向にとその立ち位置を変えてきた彼の歩みの長さをその白髪が教えてくれる。と、同時に変わらない楢崎のスタンスが頼もしく思える。
動の川口、静の楢崎と言われる代表の守護神争いも新しい局面を迎えた。最終コーナーはいつ見えてもおかしくはないが、まだまだ先に位置しているのかもしれない。

※本企画は不定期更新予定です(W杯3次予選期間中続きます)。感想をこちらまでお寄せください。

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