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「ユース教授」安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」 by 安藤隆人

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“ユース教授”安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」第15回:仲村浩二監督(尚志高)
by 安藤隆人

 今年最後の名将列伝。第15回目の節目となった今回、登場していただくのは、選手権福島県代表の尚志高サッカー部を率いる仲村浩二監督。かつて習志野高のエースとして活躍し、順天堂大学時代にはバルセロナ五輪予選に出場するなど、スター選手だった。当時から「いろんな指導者の練習法や言葉をノートに取っていた」と語るように、指導者を目指していた仲村監督は、大学時代のチームメート・名波浩(現・ジュビロ磐田監督)のようにプロには進まず、指導者の道に進んだ。1997年に尚志高が女子校から男子校に移行したことで、サッカー部が設立され、それと同時に監督に就任。創部9年目で第85回全国高校サッカー選手権大会に初出場を果たすと、2011年度の第90回全国高校サッカー選手権大会でベスト4に進出。全国屈指の強豪校に仕立て上げた。温和な人柄の浩二さんこと、仲村監督に話しを聞くため、7度目の選手権を直前に控え、川崎市内の宿舎まで足を運んだ。

―今年で尚志を率いて19年目、来年は20年目の節目を迎えます。まずこの指導者人生を振り返ってみていかがですか?
「勝つまでに9年かかりました。就任当初はもっと簡単に考えていたんです。新人戦を3年目で優勝して、『あ、これはいけるな』と思っていたのですが、そんなに甘くはなかった。高校サッカーって、サッカーだけじゃダメなんですよね。人間教育があったり、本当にいろんなことをやらないといけない」

―浩二さんにとって、この9年間はどういう期間でしたか?
「来た当初は女子校から共学になって、やんちゃな生徒が多く、彼らに何とかキチンとサッカーをしてくれるようにしないといけなかった。そこは若かったし、全力でぶつかっていったのですが、やはり人間教育をしっかりとやって、選手達を独り立ちさせていかないといけない。ただサッカーのコーチとして接している自分に気付いた9年間でした」

―気付きから変わった点は有りますか?
「選手達は学校の代表であり、顔。だからこそ学校での振る舞いも凄く重要になってきます。当初、ウチは福島県内の選手だけだったのですが、富岡高校の立ち上げに伴って、県内のトレセンメンバーのほとんどが富岡高校に進むことになったんです。そこで県外の選手が入るようになったんです。県外の選手は学校の成績でウチを選ぶのではなく、『尚志でサッカーがしたい』という気持ちで来てくれるんです。意識の高い県外の選手が、その他の選手を引き上げてくれるという現象が起こったんです。県外から来た選手が学力でも学年1番をとってくれたりしたことで、学校全体のレベルを押し上げてくれたんです。それが本当に助かりましたね」

―覚悟を持ってやって来た選手が、尚志で高い意識を出し手サッカーと学校生活に打ち込む。これによっていい変化が生まれたんですね。
「学校中を巻き込んでくれましたよね。本田裕一郎先生(現・流通経済大柏高サッカー部監督、仲村監督の習志野高時代の恩師)から『試合で勝つよりも、学校で応援されるチームを作れよ』と言われていたのですが、それを実感することが出来ました」

―第85回大会で選手権初出場のあと、変化は有りましたか?
「選手権に出始めて、一番変わったのが、学校の先生方が『毎年の正月が楽しみになった』と言ってくれるんです。応援してくれる体制が出来て、もともと女子校だったので、男子の団体スポーツで全国を戦うと言う経験が無かったので、それが初めて出て、吹奏楽部とかチア部が動員されて、華やかな応援をすることに凄く喜んでくれた。今ではプリンスリーグなどでも学校でやるときはみんな応援に来てくれるようになりました。学校の先生がほぼ全員ディアドラのジャージ(サッカー部のユニフォーム、ジャージはすべてディアドラ社製)を着ているのも面白い現象ですよね(笑)」

―スクールカラーはもともとあの深いエンジ色なのですか?
「深緑がウチのスクールカラーなのですが、監督に就任した当時、福島県は郡山商業という強豪校のユニフォームが深緑だったんです。かぶるのが嫌だったので(笑)、自分の母校である習志野高校のユニフォームのエンジにして、『SHOSHI』のロゴを深緑にしたんです。

―今やエンジがスクールカラーになりつつ有りますね(笑)
「少しずつですね(笑)。一番嬉しいのが、サッカー部のスローガンとして掲げた『pride of SHOSHI』が今、学校の教育目標にも入れてもらって、パンフレットにも入るようになって、それが嬉しかったですね。尚志のプライドを持って、いろんな努力を、サッカーを通して尚志高校を全力で応援出来るような人間になろうと。その願いを込めて、スローガンを作ったので、本当に嬉しかったですね」

―いまや選手権出場7回目。2011年度には高円宮杯プレミアリーグを戦い、選手権ベスト4に進出するなど、全国屈指の強豪校になりました。
「初出場からがむしゃらにやって来たのですが、2011年の東日本大震災が大きな転機となりましたね。震災によって2週間、一切サッカーが出来なくなって、『あ、サッカーって当たり前のように普通に出来るものではないんだ』ということに気がついたんです。福島県は大きなダメージを受けて、当たり前のようにサッカーが出来なくなった。でも、その状況にもかかわらず、県外の子供達は福島県に残ってくれた。尚志でサッカーがやりたいと言ってくれた。そういう想いを抱いた選手達に、自分はいい加減な気持ちで向き合えないな、高校3年間という多感で重要な時期に、適当なことは出来ないなと、ある種の『覚悟』が僕の中に芽生えたんです」

―僕も当時、震災直後の尚志高校に行き、浩二さんや選手達と話しました。本当に混乱と不安の中で、サッカーに真剣に向き合って、覚悟を決めて全力で打ち込む彼らを見て、本当に大きな勇気をもらいました。僕もジャーナリストとしてより困難に立ち向かおうと思う覚悟をもらいました。あの時、浩二さんと話した言葉は、今でもはっきりと覚えています。
「本当にいろいろ話しましたよね。でも、あれで絆が深まったと思います。正直、当時僕はベスト4になったメンバー全員、もうサッカー部に帰ってこないと思っていました。でも全員が『尚志でサッカーがやりたいです』と言ってくれた。『え!?』と驚きましたし、そこから本気で彼らと全国制覇を目指したいと思えた。ちょうどその年になでしこジャパンがドイツW杯を制して、本当に日本国中が沸いたのを見て、『あ、サッカーはやっぱり人々を勇気づける力を持っているんだ』ということに気がついて、『じゃあ、尚志も福島の人たちを勇気や元気や希望を与えることが出きるんじゃないか』と本気で思えたんです。その時からウチの目標が『なでしこジャパンのようになろう』になったんです」

―2011年の高円宮杯プレミアリーグのホーム戦でサッカー教室を開いたり、選手権ベスト4になり、福島を盛り上げました。今もサッカー教室などの草の根活動を続けていますよね。
「順天堂大学時代の同級生である名波浩などが本当に協力してくれて、感謝をしています。サッカーファミリーが本当に助けてくれた。ベスト4に入ったときも、多くの人たちから『希望をもらった』とか、『子供が笑顔になった』とかサッカーだけでは無い、ありがたい声をもらったんです。そのときにサッカーの力の大きさを本当に感じることが出来た」

―今の3年生はまさに中学時代にベスト4を観た選手達ですよね。
「なので、全国制覇が当たり前の目標としてここに来てくれた。モチベーションが物凄く高かったですよね。今年は僕自身初めての経験があって、Aチームがプリンスリーグ東北を優勝して、Bチームが県1部リーグを優勝、Cチームも県2部リーグを優勝。1年生が戦う東北ルーキーリーグでも優勝。4つのカテゴリーすべてで優勝をしたんです。本当にみんなが躍動をしてくれた。しかもBチームは秋田商業とプリンスリーグ東北昇格決定戦を戦って、勝っているんです(しかし、Aチームがプレミアリーグ昇格決定戦で敗れたため、Bチームは来季も県リーグ1部に残ることに)。これって本当に素晴らしいことで、全カテゴリーが頑張ってくれたことは、監督として凄く嬉しい1年でした」

―快挙を成し遂げてくれた彼らの代表であるAチームは、いよいよ選手権大会に挑みます。
「合宿がイメージ通りに来ているので、彼らがどう戦ってくれるか。初戦は京都橘と言う強豪ですが、選手達は臆していませんし、逆に楽しみにしています。いい状態で彼らを試合に臨ませてあげたいですね」

―選手権直前の忙しい時期にインタビューに答えていただき、どうもありがとうございました!
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。もっともっと尚志が躍動して、福島県をさらに元気にしたいですね!」

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