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「ユース教授」安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」 by 安藤隆人

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“ユース教授”安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」第16回:加見成司監督(聖和学園高)
by 安藤隆人

 新名将列伝、16回目は今年度の選手権で注目を集めた聖和学園高の加見成司監督。聖和学園と言えば、まず女子サッカーでその名を轟かせた。1992年、1998年、2001年度に全日本高校女子サッカー選手権大会で全国制覇を成し遂げるなど、最強女王の名を欲しいままにした。当時、聖和学園の女子サッカーは、正確なパスと高い連動性を披露し、高校女子サッカーに一石を投じる存在だった。それに魅了されたのが加見監督。かつて市原緑高から仙台大に進み、大学卒業後は、名古屋グランパスに入団し、Jリーガーに。プロ生活は1年で終ったが、そこから指導者を志し、聖和学園女子サッカー部のコーチに就任。2003年に女子校から共学化されたのをきっかけに、男子サッカー部の監督に就任した。

 今や聖和学園と言えば、徹底したドリブルと個人技をフルに発揮したテクニカルなサッカーで、注目を集める存在となっている。今年度の選手権に2年連続3回目の出場を果たすと、初戦で野洲高と“同志対決”を7-1と圧勝したことで、一気にその名を全国に轟かせた。2回戦でベスト4の青森山田高に0-5の敗戦を喫してしまったが、残したインパクトは絶大だった。今回は聖和学園男子サッカー部誕生の裏話や、いきさつなどを語ってもらった。

―新名将列伝インタビュー。よろしくお願いします
「名将と言っても、『名』ではなく、『迷』だと思うけど(笑)。よろしくお願いします」

―まず、聖和学園のサッカーと言えば、テクニカルなドリブルと頻繁なポジションチェンジ、ショートパスを駆使して切り崩していくサッカーです。こういうスタイルを目指すようになったきっかけはありますか?
「まず、僕自身の性格がベースにあって、現役時代にとある指導者から、『言われたことをやれば良い』という人に出会って、それが一番嫌だった。なので、もし自分が指導者になったら、そういう事をしないという決意が生まれたんです。出来れば選手の良いところを伸ばす、より特徴を活かした選手を育てたいと思ったんです。一人の選手が成長するにあたって、どういう指導者に出会うのかって、物凄く重要なことだなと現役時代に感じたので、指導者がその方向性をしっかりと打ち出さないといけないという考えがベースにありました。でも、最初からこのサッカーだった訳ではなく、いろんな指導者の影響を受けて、今があります」

―どのような指導者の影響があったのですか?
「まずグランパスで現役を引退してから、好きだった高校サッカーの指導者になりたかったのですが、仙台大学時代に教育実習をしていなかったんです。なので、仙台大学に復学をして、教職免許を取りに行ったんです。そのとき、実習先の高校で女子サッカーを指導したんです。でも、ボールを蹴る練習から始めるなど、正直厳しい状況だった。ちょうどそのときにたまたま聖和学園女子サッカー部の試合を見て衝撃を受けたんです。『なぜこんなにパスが繋がって、質の高いサッカーが出来るのか?』と。レベルの高さに驚いて、教員免許を取ってから、ずっと聖和学園に見学に行って、国井監督に『ぜひ学ばせてください』と志願をして、ずっと通い詰めたんです。何か月か通って、練習の度にとなりでずっと話を聞いていたら、気がついたら選手達と一緒になってボールを蹴っていた。すると、物凄く頭を使うサッカーだと実感したんです。そこでさらに感銘を受けて、引き続き通い詰めたら、いつのまにかコーチになっていたんです(笑)」

―気がついたらコーチって凄いですね(笑)
「はい(笑)。気付いたら5年半コーチをしました(笑)。コーチをして3年目くらいのときに、さらに衝撃的な出会いがあったんです。ちょうどその時、聖和学園女子サッカー部が苦しい時期で、常盤木学園が力を付けてきて、県内で常盤木に負けたんです。パスサッカーは原理原則がある中で、そこを相手に徹底してつぶされて、負けてしまった。そこでどうすべきか考えた時、知り合いがエスポルチ藤沢(神奈川県藤沢市にあるジュニア、ジュニアユースの街クラブ)の存在を紹介してくれて、縁があって、代表の広山晴士さんがチームを連れて仙台に来てくれたんです。エスポルチが練習試合で見せたサッカーが、今まで見たことの無いようなサッカーで、ドリブルで面白いように相手をかわして行く。体格は大きくないけど、ドリブルで圧倒して、ポジションにとらわれずに連動をしながら切り崩して行くサッカーに、物凄く衝撃を受けたんです。そこから自分もそのスタイルを取り入れるようになったんです。そうしたら、ショートパスにドリブルが加わったことで、一気にサッカーの幅が広がって、夏の全日本選手権(2001年度)で全国制覇することが出来たんです」

―2003年の共学化に伴って創設された男子サッカー部の監督に就任しました。このスタイルを浸透させるまでには、相当な苦労があったと思います
「最初は全然勝てませんでした。でもずっとやりたかった高校サッカーの指導が出来たので、喜びはありました。なので、ぶれること無くやり続けようと思いました」

―スタイル浸透するために大事にしていたことは何でしょうか?
「選手達にドリブルを軽視しない、セーフティーにやることがすべて良い訳ではない。その考え方を持たせることから始まりました。負けても勝っても、次に繋がらないと意味が無いと、このこだわりに粘り強くアプローチをして、ベースを作る事を徹底しました。立ち上げて2年くらいは、ほとんど勝っていない。当然、最初は1年生のみ、2年目は1、2年生のみのチームだったので、常に年上が相手で、適う訳が無かった。でも、1期生が2年から3年に上がる時、新人戦で初めて県大会に出て、ベスト8に行った。そこから県大会のベスト8以上の成績は一度も落としていません。その年のインターハイ予選、選手権予選ベスト4に食い込んで、4期生が3年生のときに初のプリンスリーグ東北1部に参戦して、3位になった。こうした歴史を重ねてきました。この過程の中で、岩島修平コーチを始め、最初は一人でやっていたのですが、多くのスタッフが支えてくれるようになり、よりこだわりを持って指導が出来るようになったと思います」

―今回の選手権を振り返ってみていかがでしたか?
「2回戦で青森山田に負けてしまいましたが、初戦の野洲戦は、あれだけのお客さんが詰めかけてくれた(※三ツ沢競技場で当日券が売り切れ、立ち見が出るほどだった)。それはこの試合にお客さんが何かを求めて来てくれたからこそ。それが勝つことよりも嬉しかった。次の青森山田との試合が、聖和学園の真価が問われるとみんな思っていたし、僕もそう思っていた。0-5の敗戦でしたが、反省すべきところはきちんと反省しながらも、あくまで聖和学園は聖和学園らしく、これからもやっていきたいと思います」

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