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SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史

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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:大島秀夫という生き方(横浜F・マリノスJY追浜コーチ・大島秀夫)
by 土屋雅史

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 忘れない。引っ込み思案でネガティブな性格のまま、大人の世界へ飛び込んだ勇気を。忘れない。キャリアのどん底からチャンピオンチームへ這い上がった奇跡を。忘れない。満身創痍の体で最後まで仲間のために走っていた姿を。19年間のプロキャリアをまっとうし、現在は“指導者3年生”。大島秀夫という生き方は、今日もサッカーという一番大事なモノと共に少しずつ、着実に前へと進み続けている。

 新しい環境が苦手だった。「こんなこと言ったら本当にまずいんだけど、選抜に選ばれないために選考会をわざと下手にしたりとかね(笑)」。もちろんプロになりたい気持ちはあったが、それはあくまで漠然としたイメージ。サッカーは楽しむもの。そこまでの強い向上心や意欲は持ち合わせていなかったという。

 ただ、その実力が“新しい環境”を余儀なく大島に突き付けていく。大きな転機は前橋育英高3年時の5月。市の選抜すら嫌がっていた少年は、U-18日本代表に選出される。「茨城国際ユースって大会で代表に初めて行って。東京駅集合で超ソワソワしながら(笑) 東京まで電車に乗ってお母さんが付いてきてくれたんだよ」。その時、衝撃的だった同い年が2人いた。1人は小野伸二。もう1人は同じポジションの高原直泰。「もう見とれちゃう感じ。『ヤベーな。この人たちと一緒にサッカーやったら絶対足引っ張るな』というイメージ」だったが、この邂逅で自らの意識が変化し始めたことはハッキリと自覚していた。

 1998年3月21日。その年のJリーグ開幕戦。18歳の誕生日を迎えたばかりの横浜フリューゲルスのルーキーは、横浜国際総合競技場のピッチにスタメンとして送り出される。「振り返るとあのスタジアムで、5万何千人の前でいきなりというのは凄いなって思うけど、当時は『ああ、こういうもんか』って感じで、すんなり受け入れざるを得ないというか、比較対象がないから『ああ、ホテルに集合してバス乗っていくんだ』みたいなね(笑)」。

 デビュー戦は横浜マリノスとのダービー。「試合内容は憶えてないんだよね。ファーストタッチをミスしたのは憶えてる。『ああ』って言ってる間にたぶん終わっちゃったのかなあ」。無得点のまま、後半13分に同郷の服部浩紀と交替でベンチに下がる。ちなみに同じくルーキーだった遠藤保仁はフル出場。他にも楢崎正剛、山口素弘、三浦淳宏、サンパイオと凄まじい選手たちがメンバーリストに名を連ねていた一戦だった。

 フリューゲルスの悲しい結末は、あえて言うまでもないだろう。「もう本当に他人事というか、訳が分からなかった。『チーム消滅ってなんだよ。大丈夫でしょ。なくならないでしょ』『ああ、なくなるんだ』『でも、オレらは京都に連れて行ってもらえるんだ』と、もう流れのままに」。伝説の天皇杯決勝はベンチに入っていた。「あの場にいられた、あの一員でいられたのは凄く財産。(吉田)孝行さんの素晴らしいゴールで優勝してね」。そんな大島のキャリアは、ここから波乱に富んでいく。

 京都パープルサンガでの2年目も終わろうとしていた2000年の秋。1枚の紙きれで、20歳の青年は職を失った。「面談の最初に『ちょっとオマエは甘い。厳しい環境に行って危機感持ってやらないとダメだ』と言われて、少し前にどこかの強化部長が来ていたし『じゃあ、あそこのレンタルかなあ』『いろいろなレンタル先を提示されるのかなあ』と思ったら、紙に“ゼロ”って書いてあって」。

 いわゆるゼロ提示。あまりに唐突で実感が湧かなかった。「だからウィキペディアにも載ってるけど、そのすぐ後でゲーセンに行って。今の教え子たちも『ゲーセン行ったんですか?』って聞いてきやがって(笑) でも、それはホント。ヤットとかとみんなで行ってたから。確か馬を育ててたかなあ」。

 セレクションの要項は渡されたものの、申し込むのも、電車の切符を取るのも自分。その段階でやっと事態の重大さを飲み込む。「オファーがなかったらもうサッカーは終わりだから、そのへんでやっとスイッチが入ったね」。必死に挑んだ練習会。いくつかのクラブを受けた中で、横浜FCとモンテディオ山形の合格を勝ち獲る。「昔だったら横浜FCを選んでいたかもしれないけど、話を聞いて『必要とされている方でもう1回頑張ろう』って思えたのが山形だった」。再起を懸け、未知なるみちのくの地へ仕事場を求めた。

 結果から先に明かせば、山形での4年間が大島の“職業欄”にプロサッカー選手と書くことを許してくれたと言っていい。「最初はロッカールームがなかったから、部屋にパイプ椅子が置いてあって、そこで着替えてって感じだったし、もちろん洗濯も自分だったけど、『もうやるしかない』と。ここでダメだったら本当に終わりだったし、当時のモンテはJの中でも一番下って感じだったから」。

 忘れられない試合がある。2001年3月10日。モンテディオの選手として初めて戦うJ2の開幕戦。相手は奇しくもパープルサンガ。「『見返してやる』って気持ちは強かったよ。『見てろよ』って」。大島は後半27分から途中交替で西京極のピッチへ投入されると、その11分後にコーナーキックからヘディングでゴールを陥れる。フリューゲルス時代から数えて4年目。これが彼のプロ初得点だった。「ディフェンスとの駆け引きは憶えてる。1回行くフリして止まって、相手が止まった瞬間にまた出て行って、前で触って。4年だもんね。『長く掛かったなあ』って思ったなあ」。

 この頃は自らの覚悟が明確になった時期でもある。「『やっとサッカー選手になった』って感覚。試合のために練習して、調整して、試合して。そのサイクルが凄く充実していて。そこを第一に考えられるようになったかな。ゲーセンは行ってたかもしれないけど(笑)」「以前は危機感で終わっていたのを、そこに対してアクションを起こして乗り越えるようになったというか、ちゃんと自分で行動できるようになったのかな。ちょっとずつでも何個も何個も積み重ねたもので自信も付けたかなって」。こう言葉を並べた直後。「ちょっと上手い言葉が出なかった。申し訳ない」と付け足すあたりが、何とも彼らしい。

 4年間で積み上げたゴール数は53。山形での毎日はサッカー面での充実はもちろん、生活面でも多くのことを学んだ日々だった。「ある歯医者の先生にお世話になって、ゴハンを食べに行ったり、一緒にどこか行ったり、サッカーだけじゃなくて人間的な所でいろいろアドバイスもくれたし、あとは良いチームメイトに恵まれたよね。土地への愛着もメチャクチャある」。そんなJ2でも屈指のストライカーへと成長した大島に、ビッグクラブが食指を伸ばす。

「天皇杯でマリノスとやった時に、岡田(武史)さんが『いい』って言ってくれたらしくて。実はオファーをくれたのは三島さんって、オレがフリューゲルスに入った時のスカウトなの。それで、また三島さんから話が来たのもそうだし、その時は2連覇してた時で、『あのマリノスから!』ってメチャクチャ嬉しかったなあ」。モンテディオでJ1へという気持ちは強かったが、最後は自身のチャレンジしたい気持ちを貫いた。20歳でクビを言い渡されたストライカーはその4年後、J1王者の一員になるまでの劇的なステップアップを果たす。「『もし試合に出られなくても、行ったら得るものがあるよな』って。『そこにチャレンジしなくてどうするんだ』って。絶対昔だったら思わなかったけど、そういう意味では自信はあったんだろうね」

 1年目からJ1で9ゴールを叩き出した大島だったが、2007年は自らも認めるキャリアハイのシーズン。「それこそボンバー(中澤佑二)がいたり、マツさん(松田直樹)がいたり、(栗原)勇蔵がいたり、という中で練習してたけど、もう楽しかった。それは自分がやれるから」。その年のリーグ戦で記録した14ゴールは日本人選手で最多。一躍彼の名は多くのサッカーファンの知る所となっていく。

「表にはそんなに出してないけど、メチャクチャあった」と振り返るのは日本代表への想い。「だけどやっぱり(イビチャ・)オシム監督で、『基準がオレ向きではないから難しいだろうな』って。たぶん結果とかじゃないでしょ、あの人の選ぶ基準って。『オレは運動量が少ないからな』って(笑) でも、その時期だったら『全然やれるな』という想いはあったよ」。

 ところが、翌年は“暗転”のシーズンとなる。「春先の試合でキーパーと激突して膝の骨が凄く痛くて、そこからバランスがおかしくなって、全然体の調子が良くなかったね。そして、マリノスを去るっていう。たぶん構想外。良く言えば『“ゼロ”にしてあげたら移籍しやすい』という当時の流れかな」。F・マリノスに在籍したのは、モンテディオとまったく同じ4年。キャリアを遡れば、この“4年×2”が最もサッカー選手として輝いていた時に当たるのかもしれない。

 個人的に“もしも”と思っていたことがあった。2007年12月。オシム監督の病気による退任を受けて、岡田武史が日本代表の指揮官に就任する。「もしも、あの“14ゴール”が1年遅かったら…」。あえて本人にぶつけてみると、珍しく口調が速くなった。「メッチャ思うよ。メッチャ思うし、つくづくそういうのにオレは運がないっていう。例えば今の時代だったら、海外っていう視野もあったと思うし。タイミングが悪いんだよね」。すぐに柔和な笑顔が隠したが、この一瞬に滲んだ本音は強く印象に残った。

「オレは良いプレーができた記憶があまりないから。点もあまり取れなかったし、チームのためになりたかったな。心残りはある」。アルビレックス新潟で2年半。ジェフユナイテッド千葉で半年。コンサドーレ札幌で1年。合計で4年間を過ごしたいずれの地でも、結果という意味での貢献はできなかった後悔があるが、札幌の地では望んだ“再会”を果たしている。「また河合竜二さんとサッカーができたのは嬉しかったね。竜二さんはF・マリノスの頃から仲良くて、人見知りのオレは同年代だったから話すようになって。そこは楽しかったな」。

 2013年。かつてモンテディオで指導を仰いだ柱谷幸一監督の誘いを受ける形で、大島は自身8つ目のプロクラブとなったギラヴァンツ北九州へ移籍する。そしてここでの4年間が、新たなサッカーとの関わり方を彼に芽吹かせていく。

「まだ整備されていないちっちゃいクラブだったから、“チームを良くしていくための自分”って考え方でやっていたというか、もちろんサッカーで自分が活躍してというのもあったけど、そうじゃない立ち位置の時に何ができるかって。それがベテランの1つの存在意義で、何かしら若いヤツに気付かせたり、クラブに『もうちょっとこういうことを』とか要求したり、『少しでも良いクラブになっていくための何かになってくれたらなあ』っていう感じかな」。

 置かれた役割を突き詰めていく内に、照らされてきたのは自身の未来。「言い方は悪いかもしれないけど、北九州に入ってくる子たちのレベルや意識を見ると、『もっとこうした方がいいよ』とか『こうするべきだ』と思うことがあって、それを伝えたり、アドバイスしたり。その中でそれが実際に現れる喜びもそうだし、そういうことに興味を持っていった中で『ああ、指導者になりたいな』って思うようになったのかな」。

 見えてきた“これから”に対して、見つめるべき“今”は自らのイメージとどんどん乖離していく。「北九州での2年目、3年目ぐらいからは、ちょっとずつ引退も考えたね。『ここで終わりだったらキャリアは終わりだな』と思ってたし、最後の年はケガも治らなくて、実はシーズン前からもう決めてた。『これはもう無理だな』って」。

 2016年、秋。クラブから来季の契約はない旨を伝えられた。「そこで正式に嫁さんには伝えて。上の息子は結構ふざけたヤツだから、『もう早くやめちゃえ』みたいに言ってたけど、内心は『絶対やめてほしくない』とか、『サッカー選手じゃなくなるのは寂しい』とか思ってたんじゃないかな。でも、『やめたら他のお父さんみたいに土日遊べる!』とか思ったかもしれない。実際は全然。さらに遊べなくて申し訳ないって(笑)」。

 12月9日。『大島秀夫選手 現役引退のお知らせ』がリリースされる。積み重ねた公式戦の数字は574試合111得点。タイトルには縁がなく、日の丸ともすれ違いながら、ただひたすらにボールを追い掛け続けた大島秀夫が、19年間に渡って積み上げてきた“プロサッカー選手”という誇るべき肩書に穏やかな、それでいて確かな終止符が打たれた。

「やり切った感じがあるから、そんなに“もぬけの殻”って感じにはならなかったかな。もう年俸が現わすように、ガーッて上がって、ガーッて下がっていったから、自然と受け入れられた。現実な話として家族を養わなきゃいけないし、自然とそういう流れだなって。たぶん現役が長かったからそう思えたし、その準備も数年前からできていたから。でも、指導者になって1年目はグラウンドに立ちながら、急に胸がキュンとすることとかあって。『ああ…』って。それは年に何回かあった。『もうあの舞台に立てないんだ』とか『もうあの感覚を味わえないんだ』とかね。そういうのって急に来るんだよ。グラウンドにいると切なくなる時もあったね」。

 引退した翌年。大島にはJリーグ功労選手賞が贈られた。「オレより周りの方が喜んでた。ギラヴァンツとモンテとF・マリノスと連名で推薦してくれたらしくて、それは凄くありがたかった」。決して派手なキャリアではないが、彼の19年間がきっちり形として評価された気がして、本当に嬉しかったことを思い出す。ちなみに、このエピソードには後日談が付く。「功労選手賞をもらったけど、その次の年からできた制度だと功労金が300万出るって聞いた時に『えっ!』って。『オレの時まで出なかったのかよ!』って(笑) 運がないんだよね。タイミングが悪いんだよ」。その話が何とも彼らしく、ついつい笑ってしまったことも個人的には大事な思い出だ。

 何度か前述したように、大島は既に指導者としてのセカンドキャリアを歩み出している。日産自動車追浜総合グラウンドが今の“ホームグラウンド”。中学生とサッカーに向き合う日々は、この4月で3年目を迎える。まだ寒さの残る春先の追浜に彼を訪ねた。少し遠めからグラウンドを眺めると、独特の歩き方ですぐに居場所がわかる。それほど言葉数は多くないが、必要なことを的確に、わかりやすく子供たちへ伝えていく。そんな姿を見ている内に、改めてもう大島が“プロサッカー選手”ではなくなったことを実感した。

「最初の頃より、指導も自分の中ではちょっとずつ整理できているかなとは思う。でも、10年やっている人も20年やっている人も、たぶんコレで完成形というのはないだろうし、サッカーも変わればいる人も変わるし、毎日が、毎年が勉強というか、そういう気持ちでやっていかないといけないなあってつくづく思うかな」。

 この日のトレーニングは新2年生の担当。13歳の眼差しは真剣で、まっすぐだ。それゆえに指導者が負う責任も決して小さくない。「やっぱり自分の言葉が直接返ってくるというか、サッカーに対しても普段のことに対しても、自分が整理できていないとそのまま現れるから、凄くそういうのは責任を感じるかな。この純粋な、かわいいヤツらだからこそ、ちゃんと成長させてあげないといけないなって」。

 思い出したかのように、大島がこう呟く。「たまに夢を見るんだ。自分が現役の時の。『アレ、復帰した?』って(笑) たまにね」。聞いてみたくなった。「ゴールとか決めてるの?」。小さく笑って首を振る。「しない。全然活躍しない(笑) そこはなぜか動けないオレだってわかってるの。『オレ、なぜか現役だな』って。『でも、ゴールは無理だな』って(笑) 潜在的に残ってるんだろうね。あの頃の感覚が」。どこまでも彼らしいエピソードだと思う。ただ、そんな彼だからこそ、きっと今まで周囲の仲間から多くの愛情とサポートを受けてきたのだろう。そして、これからも彼の周囲には常に愛情とサポートを注いでくれる仲間がいるであろうことも、何の疑いもなく確信している。

「サッカーって何なんだろうね」。あえてザックリと問い掛けてみる。「何だろうなあ。難しい。サッカーの中って何でも詰まってるからね。喜怒哀楽とか。選手だったら自分で掴み取ったものの充実感もあったし、何より一番はサッカーだからかわからないけど、いろいろな人との繋がりが一番大きいというか、嬉しいというか、大事かなあ」。その言葉を照れ隠しで覆いかぶせるように、こう付け足した。「ちょっと答えにならなかったなあ。まとまらなかったねえ(笑)」。やっぱりオーシはオーシだった。

 忘れない。引っ込み思案でネガティブな性格のまま、大人の世界へ飛び込んだ勇気を。忘れない。キャリアのどん底からチャンピオンチームへ這い上がった奇跡を。忘れない。満身創痍の体で最後まで仲間のために走っていた姿を。19年間のプロキャリアをまっとうし、現在は“指導者3年生”。大島秀夫という生き方は、今日もサッカーという一番大事なモノと共に少しずつ、着実に前へと進み続けている。


■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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