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SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史

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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:“ひらちゃん”という奇跡(平畠啓史)
by 土屋雅史

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 ここまで相思相愛の関係になるなんて、自分だって想像もしていなかった。最初は不安がなかったと言ったら嘘になる。そんな男は今、世の中で最もJリーグの魅力を伝えることのできる“ひらちゃん”として、サッカーと共に生きている。「就職雑誌とか見ても、“ひらちゃん”のなり方とか載ってないやん(笑) そういうのはちょっと嬉しい。なり方わからへんし、オレ自身がもう1回人生やり直しても、こうはなられへんと思うから、なんかその奇跡と、偶然と、必然の産物みたいな、そこはおもろいなって」。平畠啓史、つまり、“ひらちゃん”と我々の出会いは、奇跡と、偶然と、必然に満ち溢れている。

「今でこそガンバとかセレッソとか、そういうクラブのアカデミーがあるけど、自分らの時は大阪だと、高槻で一番、イコール大阪で一番だったのね。だから、当時はたぶん大阪で一番サッカーが盛んな場所だったかな」。生まれたのは大阪の高槻。サッカーが日常にある環境だったが、まずハマったのは野球だった。

「“阪急ブレーブス子供会”入ってたからね(笑) 西宮球場にも凄く行ってたし、当時は福本(豊)とか山田(久志)、長池(徳士)、加藤英司がいて。だから、オレは帽子も阪急のをずっとかぶってたよね。周りはガッツリ阪神やけど、オレは阪急やったなあ」。その志向に、今のスタンスの片鱗が垣間見える。

 そんな野球少年は小学校4年生でサッカー部に入るが、きっかけが何とも子供らしい。「ホンマにスポーツできるヤツとか、モテるヤツはみんなサッカー部に入る流れになっていたのね。オレは全然入る気なかったんやけど、『その流れに付いていかんと、完全に乗り遅れるっしょ』みたいな感じやったのよ。だから凄くアホな動機というか。でも、その理由が一番大きいと思うけどね」。

 小学生時代の背番号は“12番”で、レギュラーが1人欠けた時に出るような選手。運動会では1500m走で1位になるほど足は速かったものの、決して上手いタイプではなかったが、中学では迷わずサッカー部に入る。すると、ある体験がサッカーの面白さをより深めてくれることになる。

「同じ学年のヤツらでミニゲームが流行ってたのね。それでちょっと上手なっていくねん。ミニゲームってどのポジションをやっても関係ないやん。小学校の頃って右サイドでしかプレーしたことなかってんけど、遊びで真ん中の方でプレーし始めて、だんだんおもろなってきたのね。スルーパスとかも出せるようになったし、一気に変わっていったね」。

 この頃のポジションは、今で言う中盤のアンカー。「ボールを配るというより、相手の中盤の一番上手い選手を潰す」役割を担っていた。「そういえば」と思い出し、教えてくれたエピソードが面白い。「南千里中に葉山って上手い子がおって、夏の大会でオレはずっとマンマークしていたんやけど、突然試合中に葉山を見失ったわけ。そうしたら、のぼせて鼻血出して、ちょっとベンチで倒れとってん(笑) 密着マークすることが仕事やったから、密着する人がおらんかったら仕事がなくて、迷子になるっていうね」。

 その南千里中とは全国出場を懸けて、近畿大会の決勝で戦っている。結果は0-0からのPK戦負け。あと一歩の所で晴れ舞台を逃したが、その後に予想外の事実を知る。「NHK教育で全中の決勝は放送するでしょ。たまたまテレビを見てたら、南千里が優勝してて、『ウソやろ?』みたいな。ウチとは毎回ギリギリの戦いやったし、勝ったこともあると思うねん。でも、南千里が全国優勝するような実力があるって思ってなかったから、少しビックリしたかな」。あるいは敗れたPK戦の結果が逆だったら、平畠たちが日本一になっていたかもしれない。

 高校は創立2年目の新設校だった阿武野高へ進学。上級生も1学年しかおらず、1年生の春からレギュラーの座を掴む。今度のポジションは“スイーパー”。ディフェンスラインの最後尾が、卒業するまでの定位置だった。「やたら声は出してたね。カバーリング的な感じと、周りを動かす、励ます、みたいな(笑) 最高に良いように言えばツネさん(宮本恒靖)みたいな感じかな。足がそこそこ速かったから、『ああ、アイツかわされんな』ってカバーに行ったら、必ず取れたりしてて、そこは自分の中で単純に楽しかったかな」。

 当時のライバル校の1つが北陽高(現関西大北陽高)。ここにはのちにJリーグで監督を務める同級生が在籍していた。「高畠(勉・元川崎フロンターレ監督)は中学から知っててんけど、ウイングをやってて、あの頃はクロスって巻く感じのボールを上げる選手しかおらんかったのに、高畠って結構ストレートのボールを蹴れてたね。アウトに掛けたりとか。もちろんスピードもあったけど、それは高校行って際立ったな」。お互いに大人になった2人が、久々に再会した時の話も興味深い。

「高畠がフロンターレの監督になって、オレもスカパー!で番組とかやり出して、どっちも存在はわかっててんけど、全然会えんくて、ようやく西京極で会うねん。で、試合前に話しかけて『おお!』みたいになって。そうしたら、高槻一中から北陽に行った池本っていう上手いフォワードがおったんやけど、高畠が急に『あれやねん、“いっけん”がな』って、急に池本の話を始めたのがおもろかってん。『コイツ監督なのに、試合前にオレに“いっけん”の話をしてどうすんねん』って(笑) それはメッチャ覚えてんなあ」。

 2年の選手権予選は準決勝まで進出。最上級生になって迎えた新人戦では北陽を破るなど、着々と実力を伸ばしていった阿武野は、キャプテンを務めた平畠の3年時にインターハイで全国出場を勝ち獲る。初戦の相手は帝京高。言わずと知れた高校サッカー界の超名門だ。「帝京とやれるのはええねんけど、最初にやるのは嫌やん。1回ぐらい勝ちたいし。帝京は1個下に礒貝(洋光)、本田泰人とかでしょ。だいたいメンバーは知ってたよ。有名な選手ばっかりやったから。試合の時も『ああ、礒貝や』みたいな感じはあったけどね」

 結果は0-1。惜敗だった。「善戦というか、失点も『ああ、入ってもうた』みたいな感じの取られ方やねん。だから、最初は『帝京か』って思ったものの、意外とやれた感じはあったかな。でも、自分らが全国レベルのチームではないと思ってたし、実力がそんなにあったとは思わへんけどね」。

 最後の選手権予選は大阪の決勝で散った。「ぶっちゃけ言うと、あんまり悔しさはなかった。『これ勝ったら全国大会に行ける』とか、『正月にみんなが見る、あのテレビの中の試合に出れる』とかって、オレの中ではあんまり見えてなかったかな。正直ちょっとキャプテンをやることに対して疲れてたのね。やっぱり真面目にやらなあかんやん、立場があるから。それもあって『オレはもう高校でサッカーやめよう』みたいな感じが凄くあったから」。周囲は号泣していたが、涙はまったく出なかった。

「今でいうヤンマースタジアム長居での決勝で、終わってロッカーで最後に監督が挨拶して、3年には1人ずつ声を掛けていって、周りも“大号泣大会”やねんけど、そこって一番のクライマックスで、ええとこやん。たぶん今同じシーンになったらメッチャ泣くと思うねんけど、一切泣かへんかったな。ちょっと素直じゃなかったね。今、高校の時の自分を見たらムカつくやろな(笑) でも、今から考えても悔しくて悔しくてしょうがなかったみたいな気持ちは本当にないし、それがいいのか悪いのかわからへんけど、『あそこで全国に出てたらどうなってたんやろな』とか考えたことないな」。その客観性が何とも平畠らしい気もする。この日の長居が、真剣にプレーするという意味でのサッカーは最後になった。

 一浪して入った大学で、サッカー部に入る気はもともとなかった。草サッカーには時折興じていたものの、イベント会社でのアルバイトがどんどん楽しくなっていく。さらに大学3年時には、ある遊園地から“音響スタッフ”として契約社員の打診があり、それを受け入れる。「週に6日働いて、1日は大学行って。でも、そのまますぐに仕事行ったりしてたから、人生で一番忙しかったかもしれんな」。就職活動は一切せず、大学卒業後もそのまま遊園地で働くことに。1993年のJリーグ開幕戦は、1人暮らしのマンションで見つめていた。

「Jリーグの開幕の日は、タイムカードを押す時間まで働いてたら、生放送に間に合わへんと。だから、同僚に『悪いけど、コレ押してくれ。オレ早退するから』言うて。だけど、その早退も『バレてもいいわ。だって、日本にプロのサッカーができて、1試合目を見いひんなんておかしいでしょ』ぐらいの感じやねん。で、ダッシュでマンションに帰って、1人でもう静かに。何なら本当に正座して見る、ぐらいの勢いでね。でも、いまいちピンと来おへんというか、『ホンマにこれ現実なんか?』みたいな。もちろん国立やし、日本でやってるんやけど、ちょっとよその国のことみたいな感じはあったかもね」。

 初めてスタジアムでJリーグを見たのは、1995年の11月。万博でのガンバ大阪対清水エスパルスだった。「その時、エスパルスのサポーターの方が熱心というかまとまりがあって、『大阪ってやっぱサッカー無理なんかな』って思った。小学生の時、高槻でやる6年生のサッカーフェスティバルに、清水FCは5年生のチームで来て、ボロ勝ちしよんねん。もう『静岡ってレベルが違う』というのが子供の頃から植え付けられているわけ。その意識もあって、万博の試合を見た時に『ああ、やっぱ静岡ってサッカー凄いんやな』って。『こんなに根付いてんねや。盛んなんや』って意識がまた少しだけ強まったかも。そこがJリーグと直接の初対面よね」。

 きっかけもJリーグだった。2004年10月17日。TBSで生放送された浦和レッズ対横浜F・マリノスの中継に副音声ゲストとして呼ばれた際、「たぶん単純に畳んでるのの一番上に来てたぐらいのノリ」で『Foot!』というサッカー番組のオリジナルTシャツを着ていた平畠を、その番組のスタッフが偶然見ていたのだ。個人的な話をすると、そのスタッフの中に筆者もいたのだが、率直に言って我々が制作するようなマニアックな番組を見てくれているようなイメージは、当時の彼に一切なかったと記憶している。

 好きなチームはベティス。好きな選手はアスレティック・ビルバオのジェステ。有楽町の喫茶店で行った顔合わせの時点で、既にリーガ愛は十分に伝わってきた。実際に『Foot!』へゲスト出演した流れから、J SPORTSのサッカー番組へ登場する回数も増えていく。そして、2007年。人生で初めてとなるサッカー番組のレギュラーのオファーが、スカパー!から届く。それが『Jリーグアフターゲームショー』だ。ただ、当時はリーガの番組ならまだしも、平畠がJリーグの番組をやることに意外な印象を抱いたことは否めない。

「もちろん不安は大きいよね。知識がないから。ただ好きなだけというか。だから、『コレはこのままやとすぐバレるな』って思ったね。もちろん仕事ができることは嬉しいけど、自分がリーガ見てても、『あ、この人ホンマはあんまり見てないな』ってすぐわかるわけでしょ。それがJリーグだったら、よりお客さんが見ているし、『なんやねんコイツ』みたいな、『どうせサッカー知らんのに、って感じで思われるんねやろな』というのはあったね」。

 予想は大きく外れる。平畠のJリーグに対する真摯な姿勢は、早々にサポーターから受け入れられた。それは彼の基本的なスタンスとも無関係ではないだろう。「やり出したらすぐ面白かったよ。スタジアムに行ってるだけで楽しかったしね。別にそこで『よし、このスタジアム来たから、絶対サポーターの人と喋ろう』みたいなこと一切思ってへんし、『オレ、今スタジアム来てるで』みたいな気はさらさらなくて、『そういえばこの前、スカパー!でやってる人見たな』って人が10人ぐらいおったらええな、みたいな感じで行ってるしね。でも、何かの文句を言われることなかったし、全然嫌な思いはせえへんかったな」。

 そして、それは彼の日常にも小さくない影響を与え始める。「どっちかと言ったらオレ、人見知りなとこも結構あるから。でもね、スタジアムに行ってるうちにリハビリじゃないんやけど(笑)、もともと人見知りな“ひらちゃん”と、みんなとワイワイ仲良くなれる“ひらちゃん”がちょうど自分の中で近寄ってくるというか。ちょうどいい感じで1個の所にまとまってくる感覚はあったかな」。

 Jリーグが自身の中に占める比重もどんどん高くなっていく。「Jリーグの番組をやる前は、自分の中で『適当なことできへんな』っていうのはあったけど、お客さんと喋れば喋るほど『ああ、この人はこんなに真剣に見てはるんやな』って伝わってくるし、そういう話を聞くと、またこっちも『絶対いい加減なことできへんな』という想いが増したよね」。

 平畠の魅力が凝縮されているものの1つに、“今日イチ”が挙げられる。文字通り「今日一番印象に残ったシーン」をピックアップする、スカパー!の番組内の1コーナーだったが、その成立過程も実に彼らしい。「アフターゲームショーで自分の出番がある時に、控室でサッカー見ながら、たまに1人でケタケタ笑ってたのね。それを聞いたスタッフが『アイツ、サッカー見てへんやんけ。バラエティーでも見てんちゃうんか』って思ったみたいやねん。それでオレの控室に入ってきたら、『いやいや、1人でサッカー見てるぞ』と(笑) で、『どうしたんすか?』って聞かれて、『今、こういうシーンがあって、おもろかったから笑ってたんですよ』って話をしたら、『え?どんなシーンですか?』って見て、『ああ、確かにそうですね』みたいなのが“今日イチ”のスタートかな」。

 周囲の支持に報われることもあると明かす。「たとえば『“今日イチ”を今度スタジアムでやってもらえませんか?』って言ってもらえたりするやん。それをやって、お客さんが盛り上がってくれたりすると、そういうことが嬉しかったりとか。夜中に家で1人ずっとサッカー見てる時って凄く地味な作業で、『これって何かの役に立つんかな?』ってなるわけやん。何なら飲みの誘いも断って。『もうこれだけ試合見てんねんから、誰か認めてくれよ』とか、そんなこと一切思ってないけど、それが時に報われたりすることがあるとやっぱり嬉しいし、『ああ、無駄にならへんねんな』みたいな実感も、やっぱり何個も何個も重なっていく体験は、自分の中で凄く大きいかな」。

 平畠には、平畠にしか見えないものがある。“今日イチ”はその最たるもので、そこにも彼の中では流儀が存在する。「誰がどう考えても『普通にミスやん』みたいなことは、そもそもやるつもりはなかったね。あとは、たとえば0対3で負けたチームの方に“今日イチ”があっても、その時はやらないとか。そういうのは一応気を遣うというか、そこで笑うことによって、ちょっと気分を悪くする人が出てくるようなことはしたくないな、という想いはあったかな」。だから、初代Jリーグチェアマンの川淵三郎に褒められた時は、本当に嬉しかったそうだ。

「サッカーって“珍プレー好プレー”ないやん。最初はやろうとしたけど、アレって川淵さんがあまりお気に召さなかったからだって聞いてるのよ。だから『オレ、たぶん怒られるんやろな』と思っててん。でも、何かで川淵さんに会った時に『見てるよ。アレ面白いね』って言ってくれはったのよ。まあ、怒られてもおもろかったけど(笑)、それは凄く嬉しかったな」。想いはちゃんと届いている。もちろんそれは川淵にだけではなく、Jリーグを愛するみんなの心にも。

 新しい本も企画が尖っている。『平畠啓史Jリーグ56クラブ巡礼』。Jリーグに加盟する56のクラブにまつわる、56人に自ら話を聞き、自らコラムを執筆するというもの。1年近い時間を掛けて、日本中を旅しながら56のストーリーを描き上げた今、改めて感じることは自らの運命に導かれた“偶然”の尊さだった。

「やっぱりサッカーがなかったら、どの人にも会ってないと思うのよね。『もし自分がJリーグの仕事をしてなかったら、ここで会った人に誰一人会ってへんな』っていう不思議感というか、そこは改めて『Jリーグの仕事をやってて良かったな』と思う部分はあるかな。だから、今回も56人回ってんねんけど、別に大変なことは何にもなくて。なぜなら楽しんでるからやねんな。もしかしたら儲けることだけ考えたら、効率悪いこともいっぱいあるかもしれんけど、そこは考えてないというかね」。

「だから、そんな知り合いが日本中にいるのは本当に幸せよね。『スタジアムに行ったら誰かに会うなあ』とか、『ここの店に行ったらアレ食べれるなあ』って思えてるのは凄い幸せやし、サッカーがなかったらそんなことにはなってへんからね。なんかもうちょっとサッカーをだんだん超えていってるような気もせんでもないねんけど(笑)」。

 Jリーグとの出会いは“偶然”だったかもしれない。だが、彼が彼にしかできないことでJリーグと歩んでいくことは、“必然”だったと思う。だからこそ、聞いてみたかった。「今の“ひらちゃん”って、自分から見てどうですか?」。だいぶ黙考したのち、平畠はゆっくりと語り出した。

「オレは楽しいよ。でも、キャラクターとしてみんなが思ってる“ひらちゃん”を守るために、これせなあかんとかは、ちょっと自分の中でちゃうかなって。あくまでJリーグが面白くなるための“ひらちゃん”であればそれでいいとは思うけど、それよりも先に“ひらちゃん”を良くしたいとか、訳の分からん考えに至ってしまってるんであれば、『変な足かせ付いてもうてるな』とは思う。それよりも、サッカーを楽しみたいし、お客さんに喜んでもらうためのツールの“ひらちゃん”になれてたらいいかな。まあ、『もうあと5年くらいは早くやりたかったな』っていうのはあるけど(笑)」。

「でも、就職雑誌とか見ても、“ひらちゃん”のなり方とか載ってないやん(笑) そういうのはちょっと嬉しい。なり方わからへんし、オレ自身がもう1回人生やり直しても、こうはなられへんと思うから、なんかその奇跡と、偶然と、必然の産物みたいな、そこはおもろいなって」。

「その反面、今のこういう状況下で、『オレの仕事って、ある種一番いらん仕事やん』って意識もなくしたくないなっていうのはある。『やっぱり万事整って初めて仕事させてもらえるんやなあ』とも、自分の中では改めて意識する感じになったかな。好きなことを喋って、なにがしのお金を戴いたりとか、お客さんに喜んでいただいたりするようなありがたい仕事なんて、普通に考えたらありえへんわけで。だからこそ、自分がサッカーのことを喋って、『なんや、サッカーっておもんないんや』って思われたくないし、『ああ、あの人の話聞いたら、やっぱりサッカー面白いね』って思われたいしね。サッカーの邪魔をしたくないというか。そこの意識は強いかな」。

 平畠啓史は真面目な男である。言うまでもなく“ひらちゃん”も真面目な男だ。何よりもサッカーが好きで、何よりもサッカーの魅力を伝えたくて、何よりもサッカーをリスペクトしている。そして今や、彼が紡ぐ言葉を、彼が表現する作品を、サッカーを愛する多くの人が楽しみに待っている。Jリーグが平畠を変えたように、平畠もJリーグを変えつつある。その結晶は“ひらちゃん”という形で、これからも我々の日常にささやかな、それでいて鮮やかな彩りを加えてくれることだろう。

 ここまで相思相愛の関係になるなんて、自分だって想像もしていなかった。最初は不安がなかったと言ったら嘘になる。そんな男は今、世の中で最もJリーグの魅力を伝えることのできる“ひらちゃん”として、サッカーと共に生きている。きっと、ずっと前から、こうなることは決まっていた。平畠啓史、つまり、“ひらちゃん”と我々の出会いは、奇跡と、偶然と、必然に満ち溢れている。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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