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SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史

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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:フリーター、監督になる~前編~(堀越高・佐藤実監督)
by 土屋雅史

“フリーター”という社会的立場に置かれ、バイトに明け暮れていたこともある。何もない自分が恥ずかしくて、実家に帰れなかった日々もある。それでも、諦めなかった。サッカーと一緒に生きることだけは、絶対に諦めなかった。「一生懸命に物事をやっていたら、誰かが見ていてくれて、誰かが引っ張ってくれて、とかってよく言うけど、そんなのはたぶん本当にごく1パーセントぐらいの人だと思うんですよ。だけど、やっぱり誰かが見ていてくれたのかなって。自分がやってきたことや考えてきたことに共感してくれて、いろいろな人がいろいろな部分で引っ張ってくれたんです。だから、今はやめなくて良かったなと思えます」。フリーター、監督になる。佐藤実の中にたぎる情熱の炎は今、煌々と自らの行く先を照らし始めている。

 何となくサッカーを続けたいと思っていた。ただ、堀越高で過ごした3年間で全国大会には届かず、自分がそこまでの選手でないことはわかっていた。そんな時、知り合いのつてで青梅FCというチームから声が掛かる。「就職先を斡旋してくれたんですよね。『この会社に勤務して、練習来いよ』と。そこに乗っかっていった感じでした」。1995年4月。高校を卒業した佐藤は、サラリーマンとしての人生を歩み出す。

 チームが自分を大事に扱ってくれている自覚もあった。仕事もサッカーも順調。充実した日々を過ごしていく中で、社会人2年目の秋口に中学生の指導を手伝う機会があった。もともと指導への興味は薄く、言われるがまま軽い気持ちで赴いたグラウンドで、佐藤は今までになかった感覚を味わうことになる。

「普通の部活でそんなにレベルも高くなかったんですけど、言ったことがピュアに伝わっていったり、選手の喜ぶ姿を見た時に、『ああ、こういう感覚って今までになかったな』って。自分が成長したいとは思っていたけど、自分の伝えたことによって人が成長していくってそうはないことなので、『自分に合っているのかな』って」。

 何か根拠があった訳ではない。ましてや、それで生計を立てていくなんて考えていなかった。だが、新たなチャレンジをしてみたいという気持ちの高まりに、佐藤は思い切った決断を下す。「指導者をやるんだったらそこにどっぷり浸かった方がいいと。退路を断っていこうと思ったんですよね」。1996年12月。会社を辞め、チームも退団。20歳にして、今度は指導者の道に足を踏み入れる。

 偶然にもコーチを探していた母校の堀越で指導に当たることができたが、立ち位置は“お手伝い”程度。「ただそこにいるだけというか、悩んでいるヤツがいたら話をしてあげたくらいで、何の責任もなかったので、そんなに厳しくもやっていなかったですし、彼らも僕がコーチという感覚はなかったんじゃないですかね」。実家暮らしだったこともあり、バイトをすることもなく、失業保険をもらいながら、夕方過ぎにグラウンドへと顔を出す毎日。周囲からの目もあり、少しずつ“無職”となった自分の居場所のなさを実感していく。

「1回全部環境を変えたいなと。実家も出て、まったく知らない所で、サッカーの指導者がどういうものかを知るために、もう1回ゼロから始めてみたいなと思ったんです」。とはいえ、20歳そこそこの若者に選択肢は多くない。なけなしの人脈は父親の母校。長野県松本市に校舎を構える松商学園高のサッカー部が、佐藤を受け入れてくれることになった。1998年。長野オリンピックと時を前後して、新天地での生活が始まった。

「ある意味で“留学”という感じですよね。その時の松商は全国大会にも連続して出場していましたし、そういうチームでどういうやり取りがされているかを知ってみたかったというか。だから、長丁場でやるなんてまったく思っていなかったですし、『嫌だったら東京に戻ってくればいいかな』ぐらいの感じでした(笑)」

 学校から提供されたのは、選手も住む寮の一部屋だけ。サッカーでの収入はゼロ。コンビニやガソリンスタンドの店員。トラックの運転手。ビルのメンテナンス。地図作成の調査員。放課後の16時から始まる練習の前は、ひたすらバイトに精を出す“フリーター”コーチが、その実態だった。

「とにかく時間の融通が利くとか、練習のグラウンドに出られるとか、土日の遠征に支障をきたさないとか、時給が高いとか安いとかじゃなくて、自分の時間が担保できるかできないかだけで探していたので、もう本当にお金も全然なかったですし、ギリギリの状態でやっていたなと思いますね」

 時期によっては、バイトをしていない日々が2、3か月続くこともあった。グラウンドに立つ時間以外は、することがない。「サッカーをやっている時だけ現実逃避できるというか、今の自分の年齢的なものとか社会的な立ち位置を忘れて、好きなことだけに携わっていると。ただ、サッカーを離れると『これで本当にいいのかなあ』『このまま本当に続けられるのかなあ』っていう想いはメチャクチャ大きかったですよね。現実がのし掛かってくる不安もあって」

 ところが、結果的に松商学園での“フリーター”コーチは8年近くも続くことになる。「そもそも『学ばせてください』という“留学”から始まっているので、結局お金がないから、『これは仕事にならないからやりません』っていうのは自分の中でなしだったんですよね。やるなら徹底的にやりたいなと。前の所を中途半端に辞めちゃったので、どうせやるならキチッとやって終わりを見てから次の所へ行くというか、東京に帰ってきて仕事を探すとか、もうサッカーを諦めて普通に就職するとか、そういう再スタートを切るにしても、ある程度の区切りが必要だろうなという想いは自分の中であったんです」

 そんな佐藤の真摯な姿勢は、周囲の人々を動かしていく。「助けてくれる人がいっぱい周りにいたんです。僕はOBでも何でもないのに、松商学園OB会の人たちが『行ってこいよ!勉強してこい!』みたいな感じでお金を援助してくれて、ドイツやブラジルにも行けたんですよね」。選手たちもレベルが高く、全国の舞台まで何度も連れていってくれた。その中にいたのが、35歳になった現在もサガン鳥栖でJリーガーとしてプレーしている高橋義希だ。

「義希も同じ寮で3年間共に生活していたので、寮でも一緒だし、グラウンドでも一緒で。勉強も僕は教えられないからテストを作ったり、鳥栖の入団会見の時はAOKIに行ってスーツを買ったのも知っていて(笑) もう『サッカーが大好きです!』を地で行くようなヤツで、練習もずっとやっているし、『食事が大事だよ』って言ったら誰よりも最後まで残ってたくさん食べちゃうような、本当に言われたことに対して100パーセントで真摯に向き合える子でしたね」

「だから、最初にJ2の試合で見た時は感動しましたよ。『こんなふうになるんだ』って。別にサイズがある訳でもないし、運動能力がスーパーな訳ではないけど、義希のプレーがまさに長野県ってこういう県だと示してくれたというか、寒い地域で環境に恵まれていなくても、真面目にコツコツ積み上げていけばやれるんだと、大好きで頑張っていけばこういうことになるんだよということを、彼が見せてくれているんです」

 素晴らしい選手たちや周囲の方々に囲まれ、“フリーター”コーチに手応えも感じていた一方で、将来に対する漠然とした不安は拭えなかった。「その頃も変な話、親戚のお葬式とか行けなかったですよね。自分の立場が恥ずかしくて『今は行けません』と。昔の友達とも交流を閉ざしていましたし、松本では何となく自分の立ち位置はあったけど、東京にはまったくなかったですから。『自分を良く見せよう』という気持ちとか、変なプライドもあったので。今から考えればどうでもいいプライドなんですけど」

 松商学園での指導も8年目を迎えた年。佐藤にあるオファーが届く。当時は北信越フットボールリーグ1部に在籍しており、将来のJリーグ入りを掲げていた長野エルザサッカークラブ(現・AC長野パルセイロ)が、コーチ就任を打診してきたのだ。しかも、クラブの関連企業に就職もできるという。いろいろな面で自身のステップアップが望める好条件に、熟考を重ねる。

「松商ではやり切ったし、ある程度は恩も返せたのかなという感じがあったのと、向こうに行った方が仕事も安定しそうだなとも思いましたし、あとはプロ化という波に乗っかっていければ、もしかしたらクラブの中で働き口があるかもしれないし、自分の将来的なビジョンも少しは見えてくるのかなと考えて、行かせてもらうことにしました」

 2005年10月。佐藤は住み慣れた松商学園の“選手寮”を後にし、長野へと居を移す。相変わらずサッカーでの収入はなかったが、お酒の配送業を営む企業に就職したことで、“フリーター”という肩書は手放すことになる。しかし、実際にクラブに入ると、想像もしなかった意外な展開が待っていた。

「今は産業能率大の監督をやっているタカさん(小湊隆延)が、当時は長野市役所に勤めながらエルザの監督をやっていたんですけど、年齢的にも役所の仕事に専念しないといけなくなってしまって…」。クラブの新監督探しも難航した結果、2006年シーズンは「とりあえず半年間だけやってくれ」とフロントから頼まれた佐藤が指揮を執ることになったのだ。

 当時29歳。チームには自分より年上の選手もいた。「その方々がチームをずっと支えてきたんですけど、僕のことをリスペクトしてくれて『言うこと聞くからやってよ』みたいな感じだったので、とにかく選手に『どういう感じでやってきたの』『どういう感じでやりたいの』とかいろいろ聞き取りしました。たぶん僕が『こうですよ』と言ったって、『何言ってるんだよ』で終わっちゃうかなと。いろいろなものを選手から引き出していかないと、チームとして公正な形にならないと思ったんですよね」

 当時の絶対的なエースとは方向性の違いから衝突してしまう。「僕も監督は初めてだったから、『自分の形を見せないといけない』『ナメられたらいけない』という想いが一方であって」。お互いが主張をぶつけ合う中で、佐藤は最後まで折れなかった。直後に退団した“エース”とは数年後にFacebookで再会。「こっちが『あの時オレはこう思ってたんだよ』って言ったら、向こうも『若くてすみませんでした』みたいな感じで、今は全然良好な関係なんですけどね」と笑って振り返るが、とにかく初体験の監督業はあっという間に時間が過ぎ去っていった。

 半年後。ようやく新たな監督が決まる。ヴァルデイル・“バドゥ”・ヴィエイラ。日本代表がワールドカップ初出場を決めた『ジョホールバルの歓喜』と呼ばれる試合で、対戦したイラン代表の指揮を執っていたブラジル人が、地域リーグのクラブにやってきた。コーチとしてチームに残ることになった佐藤にとって、これ以上ない最高の“先生”が突如として目の前に現れたのだ。

「毎日が刺激的で、いろいろなことを教えてくれましたし、指導者としてどうあるべきかとか、人としてどうあるべきかとか、ずっと人生を学ばせてくれるような感じでしたね」。圧倒的な経験を有するにもかかわらず、ソフトな人当たりで、周囲の意見にも耳を貸す。何より日本のサッカーと文化にリスペクトを持って接する姿に感銘を受ける。

 加えて、常にポジティブな声掛けをしてくれたことも、若き指導者にとっては自信になった。「僕にも凄くいろいろなことを聞いてくれたんですよね。『この選手はどうなんだ』とか『日本のサッカーの考え方はどうなんだ』とか。それに『オマエは間違っていないんだから、もっと自信を持ってやっていいんだよ』と褒めてもらえることも多くて、僕も彼に背中を押してもらったことはたくさんありました」

 特に印象深いバドゥの言葉があるという。「『日本人の選手は言ったことを本当にやろうとしてくれるから、指導者が間違った方向に進めていくと、やっぱり選手が伸びてこないし、成長しないぞ。そこは指導者側の力量だ』と。『日本には選手がいないんじゃなくて、そこをコントロールできる指導者がいないんじゃないのか』とおっしゃっていたんです」。賢者のメッセージが深く響く。

 怒涛の2006年シーズンが終了すると、いくつかの選択肢が佐藤の前にはあった。そのまま長野に残るというものと並んで、母校からもコーチとして誘われる。「ちょうど堀越が学園としてリニューアルをしていきたい、学校の中の人間でやりたいんだ、みたいなことを進めていくような段階で、その頃はまだ今ほどの母校愛もないし、仕事の1つとして考えた時に、それがたまたま堀越なら、という感じで。『とりあえず実家にも帰らなきゃいけないだろうな』『「こういうことをやってるんだ」と親にも見せておかないとまずいだろうな』というのもありました」。選ぶべき選択肢は定まった。

 自分を包み込んでくれた長野の地に対する愛着はとにかく強いようだ。「もうメチャクチャ良い所です。ビルメンテナンスの会社の社長さんも本当に良くしてくれて、実家に帰る時に『この車乗ってけ』って貸してくれたりとか(笑)、寮が休みの時にゴハンを食べさせてくれたりとか、飲みに連れていってくれたりとか。だから、僕が引退してどこに住みたいかと言ったら松本か長野ですね。気候も良いし、四季もしっかりあるし、人は本当に良いし。苦労した分だけ、長野県に対する愛着は凄くあって、帰るならあそこだろうなとは思っています」

 そんな“第二の故郷”とも言うべき土地を離れ、10年ぶりとなる東京帰還。2007年。今度はいわゆる“プロコーチ”という立場で、堀越高サッカー部に携わることとなった。

 久々に帰ってきた母校は、変わり果てていた。「生徒がちょっと荒んでいるというか、怒られないようにとか、いかに目を盗んでサボるかみたいな所とか、このサッカーというものと本当に正面から向き合っているかと言われると、かなり不安な要素の方が強くて。結果も出ていないから『チームに対してプライドとかアイデンティティを持て』と言っても、何に対してそれを持つのかもわかっていないような状況でしたね」

 そんな現状を打破できるような指導力も足りなかったと、佐藤は当時を振り返る。「自分がどうしたらいいのかという方法もまず見えなかったし、それを誰かが教えてくれる訳でもなかったですしね。選手たちはみんな一生懸命やっていましたよ。ただ、『こうしたらこうなっていくんだろうな』という絵は正直何もなかったですね。当たり前のサッカーを当たり前に教えていたというか、それも偉そうに教えていたかなと思います。指導者ってこうだよ、選手ってこうだよ、みたいな感じで教えていましたね。あのままだったら、たぶんずっと暗闇を走っていたかもしれないし、もしかしたらもう僕はここにはいないかもしれないです」。気付けば5年近い時間が経っていたが、何かが起こりそうな兆しは見えて来なかった。

 その瞬間は唐突に訪れる。2012年3月。波崎で行われたオーシャンフィールドカップに、堀越は出場していた。「『また新しいシーズンが始まります』ぐらいの感じで、毎年恒例の『頑張ったけど負ける』『良い所まで行くけどやられる』『選手も躍動していない』と。『自分も帰ってきて5年経ったのに、何もしてないな』みたいな、そういうジレンマも感じていましたね」。代わり映えのしないシーズンの予感が、チームには漂っていた。

 大会最終日。最後の試合は練習試合だった。相手は四日市中央工高。2か月前に選手権で全国準優勝に輝いた強豪であり、誰一人として勝てるなんて思っていなかった。佐藤は選手たちにこう言い放つ。「もう四中工なんてメチャクチャ良いチームだし、オマエらに全部任せるから、自分たちでメンバー組んで、好きなようにやってみろよ」。確かな狙いがあった訳ではない。何気なく思い付き、何気なくそう言ったのだ。

「その試合に勝ったんです。もう『ボコボコにやられるんだろうな』と思って見ていたのに、選手が自分たちに任せられたことによってモチベーションが一気にグッと上がって、凄く前向きにいろいろなものを捉えて、四中工にほぼ何もさせないような完勝で、選手がメチャクチャ躍動している感じがしたんです。それで『あ、これかもしれない』と。『これでいけるんじゃないかな』と」

「だから、あの四中工との試合で、波崎のあの試合で自分が全部『ここで針振り切っちゃえ』って、『もうこれでいいんじゃない』って決めたというか。何の確信もなかったけど、ですかね」

 結果的にこの練習試合は、佐藤にとって大きなターニングポイントとなる。そして、その試合に出場していた中学3年生の選手が、現在に繋がる堀越のスタイルに強い影響を与えることになるとは、誰に予想することができただろうか。

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