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SEVENDAYS FOOTBALLDAY by 土屋雅史

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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:帰るべき場所は、いつもこのグラウンドで(帝京長岡高・古沢徹監督)
by 土屋雅史

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 このグラウンドが、みんなにとっての帰るべき場所になると信じて、来る日も来る日も目の前の選手たちと向き合ってきた。「ここが自分たちのパワーの源だって思っていますし、OBにとっても『なんかここに帰ってきたらパワーをもらえるな』って場所にしたいなって。みんなに帝京長岡高校の、このグラウンドに戻ってきてほしい想いはあるので、生徒に対しての指導も『人として』『男として』という部分を省いて、サッカーだけやろうという環境にはしたくないんです」。帝京長岡高(新潟)の青年監督。古沢徹は今日も、みんなの帰るべき場所で大声を張り上げている。

 2020年1月11日。埼玉スタジアム2002。新潟県勢として初めて高校選手権で4強まで勝ち上がった帝京長岡は、連覇を狙う青森山田高(青森)と対峙。2点を先制される展開から、1点は返したものの一歩及ばず。掲げた日本一の目標は潰えたが、古沢は手応えを感じていた。「谷内田(哲平・京都)とか晴山(岬・町田)とか技術ベースが高い選手がいて、チームとしても完成度が高くて、僕らも一緒にサッカーをやっていて凄く楽しい感覚もあったので、青森山田戦も『もっともっとこの時間が続けばいいのにな』というぐらい、ウチらしさが垣間見られたゲームだったと思います」。

「本当にファイナルは近いようで遠いなと感じました。でも、あそこまで行けて、選手もスタッフもその先のイメージを明確に見られるようになったという意味で、あの試合は本当に大きかったですね」。試合後のロッカールームで古沢は、必ず来年もここに戻ってくると宣言する。悔しい記憶と、確かな収穫を携えて、2020年度のチームはスタートすることになる。

 もともと帝京長岡のスタッフ陣は、棲み分けがはっきりしている。「僕はカテゴリーに関係なく、いろいろな所に顔を出させてもらいつつ、Aチームの試合はベンチに入って谷口(哲朗)先生と西田(勝彦)コーチと一緒に協力して1試合を戦うという形で、どこかに重きを置くというよりは全体のバランスを見た上でのチームマネジメントと、選手の生徒指導の所をやらせてもらっていました」と説明する古沢は、既に覚悟を決めていた。

 新チーム立ち上げに際してのスタッフミーティングで、自らの希望を谷口総監督に伝える。「1年間通して、Aチームを担当させてください」。新年度から最高学年になる代は、自分が1年生の時から時間を掛けて指導してきたヤツらであり、思い入れも深い。固い決意を感じ取った谷口も、申し出を承諾。埼玉スタジアム2002への帰還を目指すAチームの指揮は、古沢に託された。

 ほとんどのレギュラーが卒業した上に、主軸を担うと目されていたキャプテンの川上航立 (3年=立正大進学予定)と酒匂駿太(3年=拓殖大進学予定)はケガで離脱。「パスが3本繋がらないような感じで、3対3のポゼッション練習も、“ボールの奪い合い”というよりも“ボールの失い合い”がずっと続いているような感じでしたね」。

 2月から始まった対外試合も、最初の4試合は1度も勝てず、法政大には0-10で大敗する。ようやく勝利を収めた次の試合は、4-5でまたも敗戦。「チームの良さの中央突破にスポットを当てて、とにかく中央、中央、という感じで点は獲れていたんですけど、守れないっていう形からスタートしたので、『コレ、大丈夫かな?』って(笑)」。長期的な展望でのチーム強化を見据えた矢先に、想定外の事態に見舞われる。新型コロナウイルスによる活動自粛である。

 3月からほぼ3か月間に渡って、チーム全体での練習はなし。誰もが経験したことのない状況の中、彼らはできることを少しずつ始めていった。「AチームはZoomミーティングで毎日顔を合わせて、短期的な目標、中期的な目標、長期的な目標を自分たちでプレゼンさせて、みんなで話し合わせて、ということをやりましたね」。慣れないプレゼンに悪戦苦闘しながら、選手たちは今まで知らなかった各々の抱える想いを共有していく。

 さらに積極的に取り組んだのは“検定”の勉強。「結局今までサッカーでパワーを発散していたのが、『何もない』となった時にどうしていいかわからなくなると思ったので、じゃあそのパワーをどこに向けるかという所で、『検定を受けよう!』と」。漢字検定。英語検定。数学検定。ニュース検定。2科目以上受ける者は、受験料を部費から補助する決まりも作り、みんなで勉強する時間も設けた。

「結局コロナで流れてしまったので、その期間中に検定はできなかったんですけど、そのあとで大会と大会の間に受けたりして。英検は準2級とか2級を獲ったヤツもいたんじゃないですかね」と話す古沢も、今までにないほど家族との時間を過ごしていた。「洗濯したり、夕食を作ったりして、凄くリフレッシュしつつも、『やっぱり家事って大変なんだな』って。今まで当たり前に思っていたことが、こんなに大変なんだと感じさせていただきました(笑)」。

 6月。ようやく全員揃っての練習が再開すると、古沢は選手たちの変化を敏感に感じ取る。「やっぱり『コイツらサッカーしたかったんだな』って。表情が全然違いましたし、顔つきや返事もそうですし、凄く練習が充実していて、『ああ、変わったな』という部分はありましたね。あとは自粛期間中にサッカー以外で共有する部分が増えたことで、もともと仲の良い代だったんですけど、またさらに仲良くなっていったのかなと」。

 この頃、選手たちも監督への想いを改めて強くしていた。川上が当時のことを振り返る。「自分たちの代は高1の頃からフルさんに面倒を見てもらって、最初はただ怒られているだけだと、たぶんみんな思ってたんです。でも、『フルさんは自分たちのことを考えてやってくれているんだ』というのに気付けたんですよね。だから、コロナ明けの所から学年ミーティングを重ねてきて、『あの人に付いていこう』となった時に、誰一人として『え?』みたいな感じはなくて、そうすれば間違いないと思っていました」。未曽有の事態を経て、彼らの心が今まで以上に揃う。

 インターハイの開催は中止。残された大会はプリンスリーグ北信越と選手権だけとなったことで、チームの士気は逆に上がっていったそうだ。「もう選手たちは吹っ切れて、そこに対して全力で行こうという形でした。自分は100パーセントでやっていても許さなかったので。『120パーセントでやらないなら、ピッチから出て行って下さい』と。でも、とにかく練習を頑張れるチームでしたね」。

 9月に開幕したプリンスリーグでは、4試合を戦って無失点。ある意味で帝京長岡らしくない戦いが続いたが、ここで得た自信は小さくなかった。「横綱相撲をしたら絶対に勝てないと思っていたので、本当に『ひたむきに、ひたむきに』と守備から刷り込んでいった中で、公式戦でどんどん無失点が続いたことで、本人たちの中で『もしかしたら行けるのかな』という部分があったのかなって。だから、あのプリンスリーグは大きかったですね」。立ち上げの頃には見えなかった、今年のチームの色が実戦経験の中ではっきりと見えてくる。

 だが、古沢の中にはある葛藤があった。「1、2年生の頃から厳しく接しているので、3年生になるにつれてAチームだろうがBチームだろうが、毎年はコミュニケーションを多く取って卒業していくんですけど、『今年は温情を出したら負けだな』と思ったんです」。

「谷口先生が指揮を執っていて、自分がアシスタントでやらせてもらっていたら、あるいは『3年生のコイツは頑張っているので、チームに貢献できると思います』と推薦する形もあったかもしれないですけど、同じぐらいの実力だったら下級生を使おうというスタンスで谷口先生もずっとやってきたので、その伝統は引き継がなくてはいけないですし、『自分でいろいろな決断をしなくては』と思いました。だから、逆に3年生に対しての“見定め”は、今までよりも厳しくしたかもしれません」。愛着のあるヤツらだけに、より厳しい姿勢で臨む。監督という立場の孤独も痛感していく。

 実は過去にも1年だけ、Aチームの指揮を執った年があった。2014年。選手権の県内3連覇が懸かったシーズンに、28歳の古沢は重責を任されたが、結果はインターハイ、選手権ともに県予選ベスト8での敗退を余儀なくされる。

「自分の中ではもっとやれるだろうと考えていたんですけど、監督とコーチの視点が全然違ったというか、決断力も考える所も足りなくて、自分が勝たせられなかった代として申し訳ないなと思ったんです。そこで『もっとサッカーを学ぼう』と決意して、A級ライセンスを取りに行きましたし、いろいろな人の話をもっともっとインプットしようと思い直しましたし、その1年で経験したことが、翌年から凄く生きたのは間違いありません」。

 11月。迎えた選手権県予選の準決勝。北越高戦は激闘の末にPK戦へもつれ込む。その時、古沢は6年前の代が託してくれた想いを強く感じていた。「県のベスト8で負けた代の子たちが、当時の選手権の県予選の時に、黄緑のフェルトでウチのユニフォームを作って、その中に3年生1人1人のメッセージを入れたものを持ってきてくれたんです。今回も自分が指揮を執らせてもらえたので、そのフェルトのユニフォームをずっとポケットに入れていたんですけど、北越との準決勝から手で握るようになっていました。小心者なので『オマエら、力を貸してくれ』って(笑)」。

 PK戦を制した帝京長岡は、新潟明訓高とのファイナルにも快勝を収め、全国切符を獲得。結果的に準決勝は彼らにとって、大きなターニングポイントとなった。「みんなが一生懸命頑張ってPKで勝てて、チームの1つの自信になったというか、逆に決勝戦は力が抜けてプレーしていたので、準決勝がチームにとってのターニングポイントだったのかなって。やっぱり県大会の方がプレッシャーは大きかったですね。なかなか眠れなかったです」。

 全国の舞台を目前に控えた、12月の最終調整試合。帝京長岡が地道に積み上げてきた自信は、あっさり崩壊する。青森山田に0-7と大敗。試合の結果もさることながら、古沢はあることが許せなかった。「航立はどんな試合でもやるヤツだったのに、4-0ぐらいで下を向き始めてしまって」。試合後に言い放つ。「『航立。そんなんで下を向いてるんだったら、もうキャプテンやめろ』って。とにかく航立には『もう1回気付け』という意味で、負けた瞬間のベンチで言いました」。

 学校のグラウンドに戻ってからも、晴れない気持ちを抱えていた川上は、意を決して指揮官に申し出る。「自分もちょっとモヤモヤしていて『何がダメなんだろう』とか考えていたので、フルさんに『ちょっと練習抜けさせてください』って言ったんです。自分のこのモチベーションでやったら邪魔になるかなと思って、練習を抜けました」。考えを整理した後日。古沢から選手権への決意を問われた際、サッカーノートへこう書いた。『古沢先生と一緒に死ぬ』。

 古沢は笑いながら回想する。「這い上がってくるかはある意味で賭けでしたけど、きっと這い上がってくるんだろうなと。アイツのサッカーノートには『オレと一緒に死ぬ』って書いてあったんですよ。『だったら一緒に死ぬぞ』と、『まだ死に切れてねえぞ』というメッセージをまた書いて。結果、戻ってきてくれました。戻ってきてくれなかったら大変でしたけどね(笑) アイツは凄いと思います」。

“フルさん”のメッセージを見たキャプテンは、想いをしっかりと受け取った。「そこに書かれたことが凄く響いたというか、あの人も凄い重圧と戦っているんだなと感じました」。川上のサッカーノートには、赤い字でこう記されていた。『チームの責任は誰でも背負うことはできない。時として大きな孤独と戦うことになる。その孤独とどう向き合うか。孤独をわかってくれる人はいない。“自分と戦う事”が大事。キャプテン=孤独。監督=孤独。似た様なもの』。フルさんもそうなんだ。覚悟は決まった。あとは自分と戦うだけだ。

 選手権での躍進は、今さら言うまでもないだろう。約束の埼玉スタジアム2002に戻った彼らが印象的な姿を見せたのは、山梨学院高(山梨)相手に1点のビハインドを負っていた準決勝のハーフタイム。テレビ中継の企画で、長岡から声援を送るメンバー外の3年生がビジョンに映る姿を見て、追い込まれつつあった選手たちに笑顔がよみがえる。これには古沢の粋な心遣いがあった。

「選手は“ビジョン”にアレが流れることを知らなかったですけど、僕は聞いていたので、『オレが喋るよりも、3年のヤツらの顔を見た方がコイツらも元気になるだろう』と思って、ピッチに戻る合図のブザーが鳴る前に『負けてるんだから早く行ってこい』って(笑) スタンドに応援してくれるチームメイトがいられないのが初めての経験だったので、選手の視点と、応援してくれている人の視点と、いろいろなことを試合前に考えながら、メンバーに入っていない3年生のヤツらがああやって頑張って準備してくれてきたものを、選手たちも試合が終わって見るよりは、その瞬間に何かを感じるヤツが1人でもいれば、パワーになるんだろうなって。あそこでそう促せたのは、まだ冷静だったなって感じるんですけどね(笑)」。

 PK戦は1人目の川上が止められると、チームメイトも歩調を合わせる形で失敗。またしてもファイナルには手が届かなかった。「何も考えられなかったですね。『終わったな』って感じで。僕は『負けて泣くのはロッカーだ』と。『ピッチに立ちたくても立てない選手たちを代表しているから、人様の前で倒れて泣くんじゃなくて、堂々とウチらしく最後まで挨拶してきなさい』と言っていたので、PKで負けた時も選手たちはいち早く並ぼうとしていましたし、最後までやり切ってくれた部分はあったのかなって。それを見て『コイツらに勝たせてあげたかったな』って思いましたね……」。堂々と振る舞った選手たちが誇らしかった。

 試合後のロッカールームのことは覚えていないという。「頭が真っ白で何を言ったか覚えていないです。1人1人の顔を見たらダメだと思って、泣いちゃうと思って、気の利いたことは言えなかったです。でも、またあの場所に選手たちを連れていかないとという使命感は大きいですし、選手権って、埼玉スタジアムって、そういうものをもらえるパワースポットなのかなとは感じていますね」。またこの場所へ戻ってくる。何度でも、何度でも。

 1年間指揮を執ってみて、古沢はスタッフと過ごす空間の心地良さを見つめ直していた。「谷口先生からアドバイスをもらいながら、ディスカッションをしつつ、西田コーチに技術面の所を、川上(健)コーチにメンタルの所やBチームの指導をやってもらったり、亀井(照太)コーチにキーパーを見てもらって、遠征になれば運転してもらったりと、僕が何かしたという感覚はなくて、みんなが一生懸命やっている中で、自分が最後に決断させてもらった感じではあるので、『本当にこのチームが好きだな』『このスタッフが凄く居心地がいいな』って。楽しかったです」。

 その上で、決断する者だけに付きまとう“影”に対する理解もより深まった「谷口先生が毎年感じていることに比べれば小さなことかもしれないですけど、自分に矢印を向けて決断する孤独は、やっぱり監督にしか、指揮を執る者にしか感じられない部分なので、今から思えばやりがいだったんだなって。投げ出そうと思えば、いつでも投げ出せたはずですけど、そこに向き合えたのは、指導者をやらせてもらっている中で、自分にとって凄く良い経験になっている部分はありますね」。

 自身も同校のOBだけあって、帝京長岡とはこうあるべきだという指針が、古沢の中には明確にある。「OBが『おお、帝京長岡はユニフォームだけじゃなくて、いつまでも変わらないな』と感じられるようでありたいなと思っているので、返事とか挨拶とか行動という部分はとにかく口酸っぱく言っていこうと。ウチはボールを大切にするんですけど、球遊びのチームではないので、礼儀とサッカーの本質をブラさないようにしながら、自分たちの良さを出して、ウチにしかできないものを作っていきたいという想いが根本にありますし、子供たちにはサッカー選手として卒業できなくても、次の分野に行った時にレギュラーとして活躍してほしいと願っています」。そのためには嫌われ役だって買って出る。いつかわかってくれる時が来ると信じて。

 川上は“恩師”への想いを隠さない。「あの人が見てくれていなかったら自分もここまでいろいろ考えられるような人間になっていないと思いますし、もちろん選手権でもベスト4まで行けなかったので、感謝の気持ちでいっぱいですね。自分が成長したらああいう人になりたいなという理想の人物像です。メチャメチャ尊敬してます」。あの日のノートは宝物として、これからも心の片隅に刻み、大事に大事に取っておく。

 これからの自分を問われた答えは、至極シンプルだった。「僕は自分が大した指導者だと思っていないので、情熱を持って指導していく所しか、たぶんストロングがないんです。だからこそもっともっと勉強しなくてはいけないですし、自分が歩みを止めないようにしないとなって。10年後も、20年後も、それこそ選手と一緒に、同じ熱量でボールを追いかけていたいなという所に尽きますね」。10年後も、20年後も、古沢はきっとこのグラウンドに立っている。選手と同じ熱量を放つ120パーセントの男は、このグラウンドに立っているはずだ。

「ここが自分たちのパワーの源だって思っていますし、OBにとっても『なんかここに帰ってきたらパワーをもらえるな』って場所にしたいなって。みんなに帝京長岡高校の、このグラウンドに戻ってきてほしい想いはあるので、生徒に対しての指導も『人として』『男として』という部分を省いて、サッカーだけやろうという環境にはしたくないんです」。帝京長岡高の青年監督。古沢徹は今日も、みんなの帰るべき場所で大声を張り上げている。


■執筆者紹介:
土屋雅史
「群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。株式会社ジェイ・スポーツ入社後は番組ディレクターや中継プロデューサーを務める。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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