beacon

[ゼビオFリーグ]肺がんと闘いながら、現役を続ける久光が自伝発表&選手登録を完了

このエントリーをはてなブックマークに追加

 Fリーグは8日に、湘南ベルマーレ(Fリーグ)に所属するFP久光重貴が選手登録されたことを発表した。久光は、2012-13シーズン開幕前のメディカルチェックで、肺腺がんのステージⅢBであることが判明。根治は不可能と診断された。

 しかし、久光は治療を行いながらも、現役選手として日本フットサル界最高峰の舞台であるFリーグのピッチに立つことを目指している。また、小児がんの子供たちを支援するための「フットサルリボン活動」や自身の経験を元にした講演を行い、がんの啓蒙活動、早期発見の重要性、また夢を持つことの大切さを伝えている。7月1日には自伝『笑顔のパス』を発表(売り上げの一部は「フットサルリボン活動」に寄付される)するなど、多忙な日々を送っている。

 以下は、フットサルナビ7月号に掲載された久光の記事だ。久光は、本日14日から開催されるFリーグオーシャンカップ・神戸フェスタ2015でも、18日、19日にフットサルリボン活動の一環で会場を訪れている。

◆笑顔を呼ぶ笑顔

「あれ? ヒサ、今日はどうしたの?」
 湘南ベルマーレのサッカーチームが練習する馬入サッカー場を訪れると、久光重貴は実に多くの人から声を掛けられる。
 それもそのはず。久光は湘南に加入してから、肺がんが見つかるまで実に5年に渡って、この馬入ふれあい公園の管理人を務めていたのだ。湘南のサッカー選手はもちろん、チーム関係者、練習を見に訪れるファン・サポーターも彼のことを知っている。
 冒頭の声は、芝のグラウンドを管理しているグラウンドキーパーの安嶋大輔のもの。
 ロンヨンジャパンによるフットサルチームの湘南のユニフォームに袖を通した久光は、飛び切りの笑顔で答える。
「今度、自伝を出すことにしたんです。その撮影で来ました」
 それを聞いた安嶋も笑顔になり、「それならグラウンドの中に入って撮りなよ!」と、サッカーチームが練習を終えたグラウンドを解放してくれた。

 誰からも愛される久光に、肺がんが見つかったのは2012-13シーズンの開幕前だった。
 湘南のキャプテンを務めていた2010-11シーズンには骨髄炎を患い、医師からは「もう二度と歩けないかもしれない」と言い渡された。それでも、闘病生活の末に病に打ち勝ち、過酷なリハビリを経て、約1年半ぶりに奇跡的な復帰を果たした。2011-12シーズンには、リーグ戦15試合に出場して3得点を記録。かつて日本代表にも選出された久光が、そのキャリアを再び輝かせようとした矢先のことだった。

◆肺がんが見つかる

 Fリーグの選手登録をするために行うメディカルチェックで異常が見つかり、久光はチーム練習への参加が止められた。そして一人で病院を回り、数々の検査を受けることとなる。
 明確に病名を告げられない中でも、普通ではない検査の数、そして口から内視鏡を入れて肺の末端の細胞を取るという強烈な痛みを伴う検査を受けていく中で、自分の体に重大な事が起きていることには感づいていた。
 そして、サッカー日本代表がブラジルW杯出場を決めたオーストラリア戦が行われた7月4日、久光は医師から『右上葉肺腺がん』であり、完治は見込めないことを告げられた。
 がんであることを告げられても、すぐには自身の命が脅かされていると感じられなかった久光は、医師に「がんだとしても、僕はいつから練習できますかね?」と聞き返していた。そこで、「まずは生きていくための選択として、治療をしてください」と言われ、徐々に自分の病状の深刻さを認識していった。
 その中で医師からは「余命の話をしますか?」と聞かれて、それを拒んでいた。
 あれから2度目の7月4日が近付き、久光は当時を振り返る。
「あのとき、本当に余命を聞かなくて良かったと思います。当時は2年という数値が未知でした。『完治しない』と言われて治療を始めて、あとどれくらい生きられるのか、どれだけ治療が続くのか、どれだけつらい思いをするのか。そんな疑問を持ち続けてきました。でも、いま2年が経つ中で一つの区切りとして、もう一つ自信を持てるようになりました」

◆自分の目標が多くの人の目標に

 告知を受けてからしばらくは不安に押しつぶされそうになり、気力が湧かない時期が続いた。
 前を向けるようになったのは、周囲の声があったからだ。
 7月8日に31歳になった久光は、翌9日にクラブの公式ホームページを通じて自身の病状を発表した。
「発表するのが良いことなのか、悪いことなのかも分かりませんでした。でも、Fリーグに登録できない事実があり、ファン・サポーターからも『どうして登録されないの?』と聞かれることが増えていました。そこに対して、ちゃんと発表をしないといけないという気持ちから発表することにしました」
 迷った末の決断だったが、それは久光にとって大きな後押しとなる。
 リリースが出た直後から、病状を心配するメール、励ましのメールで携帯電話は鳴りやまなくなった。TwitterやFacebookといったSNSを見ても、多くの人が心配してくれていた。
「いろいろな人からメッセージをもらいましたが、前向きな温かい言葉しかなかったんです。そのおかげで前を向くことができました」
 翌10日からは最初の入院生活が始まったが、あまりにも携帯の着信が止まらなかったため、病院に入ってしばらくは電源を切らざるをえなかった。ふとテレビをつけると、Jリーグの湘南の試合が行われた。湘南サポーターが座るスタンドが映った瞬間、息をのんだ。
そこには『ヒサを待つ! 湘南ファミリー一同』という横断幕が掲げられていた。
 サッカーとフットサルは、異なる競技だ。それでも応援してくれたファン・サポーターに、そして何より湘南というクラブに在籍できたことに心から感謝した。
「何より、このベルマーレに携わる人たちが一つになって応援してくれました。そして今も、応援し続けてくれています。このクラブにいたから、そういう応援をしてもらえましたし、本当に感謝してもしきれません」
 多くの人たちから与えられた応援、さらには同じがん患者から託された想いが、久光を強くしている。
「みんなの応援もありましたし、入院してからも、たくさんのがん患者さんたちから『絶対にピッチに立ってくれ』『オレも治療を続けて病気を治して、おまえの試合を見に行く』と声をかけてもらいました。
 最初『ピッチに戻る』というのは、自分一人の目標でした。でも、僕ががんを公表して入院するなかで、僕がピッチに戻ることがいろいろな人の目標に変わっていったと思います」
 そして、多くの人と目指した目標を久光は達成する。

◆多くの人にとっての勇気の源となるために

 肺がんをホーム開幕戦で公表した久光は、そのシーズンのホーム最終戦、2013年2月9日の府中戦でピッチに立ったのだ。
 心強かったのは、先駆者の存在だと久光は言う。
 久光が肺腺がんを公表してから約2か月後、デウソン神戸の鈴村拓也が約9か月の闘病生活の末に、上咽頭がんを完治させて、Fリーグのピッチに戻っていた。鈴村は自身の復帰戦を、久光の所属する湘南戦に設定していた。
「鈴さん(鈴村拓也)が自分の目の前で復帰した姿を見せてくれたことは、すごく大きな自信につながりました。未知の世界の扉を鈴さんが開けてくれて、僕もその後ろを連いて行って、『自分もやろう』『自分もやれる』という想いを持てました。自分の目標とする姿を見せてくれた鈴さんには、すごく感謝していますし、鈴さんがいなかったら、もしかしたらこんなに前向きにいろんなことはやれていなかったと思います」
 今度は自分自身が誰かの勇気の源になりたいと久光は言う。
「治療を始めたときは、どうなっていくのか、自分でも想像がつきませんでした。
 でも、今、僕のことを知らない人が、街中を歩いている僕を見て『あの人、がんだよ』って分かるわけないと思いますし、分からないでほしいです。
 がんを患っていても、やりたいと思えば好きなことができるということを伝えていきたいんです。『病気だから』と気持ちが折れて、何もできなくなるっていうのは、やっぱりすごく寂しいこと。
 でも、肺ガンで『完治しない』と言われている人間が治療を続けながらやりたいフットサルをやっている姿を見せること、そういう人がいたと伝わることで、同じ患者さんにとっても『あんなヤツがいるんだから、オレも頑張ろうかな』と思ってもらえる存在になりたいなって思いますね」
 そう話す久光は、プレー以外にも幅広く活動をしている。
 全国各地で20回以上にわたり自身の体験を人々に伝える講演会。フットサルリボンの活動で小児がん患者を勇気づける慰問活動。さらに毎週木曜日にはフットサルを知らない人たちにフットサルを知ってもらおうと、フットサルスクールも開催している。
 なぜ、それほどまでに強く、周囲を気遣う余裕があるのか。
「いまも余裕はありませんよ」と、久光は否定する。
「余裕はないですけど、誰かのために何かをしたときに、その人から『ありがとう』という言葉をもらったり、その人が笑顔になってくれることで、また僕も笑うことができる。自分から『一緒に頑張りましょうね』と言葉をかけることで、また自分にもプラスの要素が生まれる。こういった活動をしているのは、余裕ができたわけではなくて、むしろ一人では何もできないと、この病気になって余計に感じたからです」

◆「笑顔のパス」発表

 今回、久光は自伝に『笑顔のパス』というタイトルを付けた。
 フットサルリボンの活動で、小児がんの子供たちと接する中で『笑顔は連鎖する』という一つの真理に辿り着いた。
「病院内でフットサルをすることになって、寝たきりの子供たちが一生懸命に足や体を動かしてボールを触ろうとするんです。普段は静かな子供たちが、そのときにキャッキャッキャッキャッと声を出して笑うと、それを見て親御さんたちが『この子が病院内であんなに笑うのは初めて』と笑顔になり、今度はそれを見て先生や看護師さんも『親御さんが笑顔になったのは初めて見ました』って言うんですよね。子供たちの笑顔が伝染して、みんなが笑顔になり、僕も見ていてうれしくなる。この笑顔の連鎖を大事にしたいって思うんです。
 人は、一人でいるときって、なかなか笑えないんですよね。誰かといるから、誰かと何かをするから笑える。それってパスと一緒なんです。パスは受け手がいないと出せません。
 永遠にゴールはないかもしれないけど、笑顔のパスをつないでいきたいなって思います」
 がんを患ったことで、久光は他の選手たちよりも大きな注目を集めることになった。
 その闘病生活を綴ることも大切だと認識する。
「すべてを出さないといけない。自分が薬を飲んでいるところ、点滴を打っているところ、つらそうな場面もそう。入院中に目の前の人が元気だったのに、抗がん剤を打った途端にぐったりした姿を見て、こんなにも副作用が強いんだと思ったこと。
 いろいろな事象から目を背けることもできるし、見ることもできる。
 その一方で、抗がん剤の副作用に対応する薬がたくさん出ていて、いまは昔よりもがん治療がやりやすくなっているし、実際に僕も選手としてFリーグの舞台に立てた。がんになっていたとしても、これだけいろいろなことができるんだよっていうのも、すごく伝えたいです。
『がんになったから』ってあきらめるのは簡単。でも、いま、この瞬間には二度と戻れないんだよっていうことを理解してほしい。
 いま、自分が経験していることは、周りから見たら『しんどいだろうな』『つらいだろうな』と思うかもしれない。でも、もちろん選手としても大事だけど、トータルの人生で『明日死んでも悔いがない。明日何かが起きても納得する生き方がしたい』と思うんです。そう思うと、いろいろなことをやりたい。でも、体は何個もあるわけじゃないから、目の前にあるやれることは精いっぱいやろうと思うんです」
 闘病生活に入ってから、劇的に利いていた錠剤の抗がん剤は、昨年10月から利かなくなった。15年4月から久光は、2つ目の治療方法として抗がん剤の点滴治療を行っている。
 点滴を打ったあとは、強烈な副作用に襲われて3日間近くは何もできなくなる。最少4クール、最多6クール行う点滴での抗がん剤治療を、久光は可能な限りクールの間に空ける期間を短くしている。
「僕はフットサル選手ですから。当然、治療が長引けばそれだけ体もなまってしまいます。なるべく早くピッチに戻ることを最優先に考えていますが、今は治療が優先になっているので、ボールを蹴ったり、プレーすることは全然できていません。いまできることは、歩くことと筋力トレーニングくらい。ボールを触るのは、スクールのときくらいです」
 まずはメディカルチェックをパスすること。そしてFリーグの舞台に戻ったときには、一つの目標を掲げている。
「Fリーグのすべての選手の中で、練習量では僕が一番底辺にいると思います。でも、自分が底辺にいると分かっているからこそ、一番上の選手を目指して頑張りたい。チーム内で信頼を勝ち得なければ、試合に出られないと思いますし、その信頼を勝ち取るための努力をして、その選手とピッチ上でマッチアップできることを一つ目標に頑張っていきたいと思います」
 もちろん、その選手とは「名古屋の森岡薫さん」だ。かつて久光と東京都選抜で一緒にプレーした経験もある森岡は、いまやFリーグの代名詞という存在になった。
「ずっと結果を残してきて『すごいな』と尊敬もしますし、日本で一番結果を出している選手と対戦することを一つの目標として持ちたい。
 あとは選手登録が済んで、治療が一段落して練習に参加するようになれば、1試合でも多くピッチに立つことが目標ですし、ゴールを決めること、チームが勝つために何ができるのかをやり続けていきたいです。
 できれば生で試合を見ていただいて、リアルな感情でサポーターの人と喜び合いたい。いま映像とかでもいくらでも見ることができますが、そのときに感じるもの、そのときにぶつけられるものは、その場でしか起きません。だから、ぜひアリーナに足を運んでもらいたいし、試合を生で見てほしい」
 現在の治療は8月でひと段落する予定だ。久光は10月、11月のFリーグ復帰を目指して、いま、この瞬間も精一杯に生きている。

久光の半生をつづった自伝『笑顔のパス』。巻末には、彼を競技フットサル界の道へ進むきっかけをつくってくれた歌手のナオト・インティライミ氏との対談も収録。読んだ後に、笑顔になること間違いなし、自伝『笑顔のパス』の購入はコチラ(外部サイトに飛びます)(ガイドワークス)から。

(文・河合拓)

TOP