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「東京五輪への推薦状」第20回:高速移動する越後の堅牢な“城”、内藤琉希

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 2020年東京五輪まであと4年。東京五輪男子サッカー競技への出場資格を持つ1997年生まれ以降の「東京五輪世代」において、代表未招集の注目選手たちをピックアップ

 五十公野(いじみの)公園陸上競技場。新潟県新発田市にある“城”をイメージした独特の和風造りなスタジアムである。6月4日、高校総体新潟県予選準決勝が争われたその芝生の上には、人と人が石垣となる“城”が築かれていた。

 準決勝の第1試合で本命・新潟明訓高に対峙していたのは、こちらも伝統ある北越高である。「今年の北越は守備が弱点なんだよ」なんて話を関係者から試合前に教えてもらったのだが、眼下に見える光景はそんな風評を打ち消すものだった。主役になっていたのは北越の背番号10。明訓側もその能力の高さを警戒していた内藤琉希が本来の中盤から最終ラインに移っていたことが大きかった。チームで1、2を争うという俊足を生かした高速カバーリングでスペースを潰し、コンタクトプレーでは常に相手を圧倒する。加えて最終ラインから左足の「砲台」としても機能して攻撃の起点にもなるのだから、相手にとって厄介この上ない。結局、北越の惜敗という形で幕を閉じた試合だったが、内藤の名前は脳裏に焼き付くこととなった。

 それから1か月余りを経て、再び“城”を目撃することとなった。舞台は新潟の聖地・ビッグスワン。背番号は8へと変わっていたし、ポジションもアンカーになっていたが、城の支柱としての存在感に変わりはない。内藤はU-17新潟選抜の主将として国際ユースサッカーin新潟の第3戦、すなわちU-17日本代表との一戦に挑んでいた。190cm級の大型CB山田洸太(北越)と1対1に無類の強さを見せる三河大地(開志学園JSC高)と組んで守備ブロック中央の堅牢さが、日の丸を付けた選手たちが織りなす攻撃を何度も跳ね返す。

「緊張感を楽しもうとは言っていたけれど、正直に言って守備はキツかった。もう相手が20人くらいいるのかと思った」と笑って振り返ったように、新潟の採用する4-1-4-1システムの泣きどころであるアンカーの脇、つまり内藤の左右にできるスペースを狙って殺到してくる相手に対し、「ぶっ潰してやろうと思っていた」と激しいチェックを継続。次々とボールを狩り獲って自分のゾーンを守るだけでなく、快足を飛ばしてサイド裏のカバーリングまでこなし、ピンチの芽を摘み取り続けた。加えて前半終了間際には、貴重な先制点も獲得。こぼれ球に詰めての“ごっつぁんゴール”なのだが、あの時間帯にアンカーの選手がゴール前まで突撃していた事実は、「とにかくハードワーク」と言う内藤らしさの象徴だったと言えるだろう。

 同年代の代表が相手という特別な思いも込めての試合を、内藤は最後まで“完走”。皆が疲れて集中が切れ始めた時間帯で見せていた「悪い声じゃなくて、いい声がけを意識した」というポジティブなコーチングも印象的で、大金星の立役者となった。

 この国際ユースin新潟ではクロアチアやメキシコとの試合を通じて「体で負けることはなかったし、自信を持ってやれた」と手ごたえも得て、代表についても「入りたい」と率直に思うようになった。「攻撃も守備も両方できる選手になりたい。本当にサッカーが好きなんで、三浦知良選手(横浜FC)みたいにずっとサッカーをしていたい」と将来の夢を語った男は、卒業後は関東の大学に進んでプロを目指す腹づもりだ。

 7月18日、ビッグスワン。新潟U-15時代には左SBも経験している走攻守の3拍子をそろえたオールラウンダーは日本代表相手にも崩れぬ堅い“城”の中心として機能し、夢への一歩を刻み込んだ。

執筆者紹介:川端暁彦
 サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』元編集長。2004年の『エル・ゴラッソ』創刊以前から育成年代を中心とした取材活動を行ってきた。現在はフリーランスの編集者兼ライターとして活動し、各種媒体に寄稿。著書『Jの新人』(東邦出版)。
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