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挑戦し続ける人生を…名古屋入団内定&特別指定、慶大MF宮地元貴の思い

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 慶應義塾大のMF宮地元貴(4年=東京Vユース)はJ1、J2複数クラブからオファーを受けたなか、名古屋グランパスへの加入を決断した。挑戦を続ける人生を歩む。そんな思いがあっての決断だった。3日には特別指定選手としての登録が完了したことも発表されている。

 今季初めにも名古屋で特別指定される案が浮かんでいたが、主将であるシーズンに慶大を離れるわけにはいかず、見送った。しかし、リーグ戦の中断期間にあたる8月、慶大は天皇杯本選や総理大臣杯への出場を逃したため、しばらく公式戦がない状況に。

 須田芳正監督からも「個人として成長するいい機会だし、サッカー選手として、こんな勝負できるタイミングはそうそう来るものじゃないから」と背中を押され、8月は名古屋でプレーする決断を下した。9月以降は大学サイドと名古屋サイドでの話し合いにより、どちらでプレーするか決まるようだ。

 名古屋に決めた理由について、宮地は「名古屋は環境面が抜群に良かったし、施設もそうだし、クラブ全体の雰囲気も良かったです」と言う。「たしかに今は負けてはいますけど、チームの雰囲気は悪くなく、迎え入れてくれるような雰囲気で、一サッカー選手として成長できる環境だなと思いました」。

 また、他J1、J2クラブからはCBとしてのプレーを評価されてオファーが舞い込んだが、自身は「上のステージで勝負するならボランチでいきたい」という気持ちが強かった。それ故、名古屋がボランチとしての宮地を評価してくれていたことも決め手のひとつだった。

 今季の慶應義塾大で宮地は、CBとボランチを務めているが、名古屋ではおもにボランチとして考えられている。練習参加するなかで小倉隆史監督からは「常に首を振っておくように。ボールを持っているときも、持っていないときも、常に首を振って周りを確認して、自分のプレーにつなげるように。テンポよくボールをさばいてほしい」と声も掛けられた。指揮官の言葉を受け止め、上のステージでの活躍を誓う。

 静岡県出身の宮地は中学進学にあたり、より高いレベルでサッカーがしたいと、神奈川県内の祖母の自宅から通える範囲の湘南や横浜FM、東京Vのジュニアユースのセレクションを受けた。しかし、いずれも不合格。それならば中体連の強豪校へ進むと決め、「文武両道でやっていこう」と桐蔭学園中を受験し、首席で合格。親元を離れて祖母の家で過ごしながら、中学2年生時には主力FWとして日本一も経験した。

 高校進学を前に、宮地は“再挑戦”を決意。日本一を経験した仲間と、高校3年間も共にサッカーをしたい思いはあったが、「このカテゴリーではヴェルディの下部組織が日本一だと思っていた。そんな環境が近くにあるのに挑戦しないわけにはいかない。もっと上のレベルがある。挑戦しようとリベンジしたい気持ちが強かった。抵抗はあったけど夢に近づくためだと思った」と再び東京Vユースのセレクションを受ける。そこで出会ったのが現・東京Vの冨樫剛一監督だった。

 冨樫氏はジュニアユースのセレクションを受けていた宮地を覚えていた。ユースのセレクションを受けに来た宮地を前に、「そこまでヴェルディでやりたいと思ってくれているのは嬉しいし、ここでやりたいと思っている人と一緒にサッカーがしたい」と言葉を掛ける。晴れてセレクションに合格。学校生活は桐蔭学園高で送り、サッカーは東京Vユースで過ごす日々が始まった。

 ユースでは思うように試合へ出場できずにいたが、最終学年になるとCBとして、出場時間を伸ばしていった。そして高校3年時にはAO入試で慶應義塾大へ合格。大学生活をスタートさせた。当時の目標は「4年後に東京Vへ帰ること」だった。

 そして4年目を迎えた今夏、進路を決断する7月某日の前日。宮地が会ったのは冨樫氏だった。「お世話になった人だし、冨樫さんがいなかったら今の自分はない。練習参加もさせてもらっていたし、決める前に一度お話したいと思っていたので。最後の最後でなかなか決めきれない。自分のなかで優先順位はできていましたけど、でも最後に冨樫さんと会ってから決めようと思っていました」。

 当初はクラブハウスへ行くことを考えていたが、なかなかタイミングが合わず。食事をすることになった。冨樫氏と始めて会ったとき、12歳のあどけなさ残る少年だった宮地だが、あれから10年が経ち、精悍な顔つきとなった22歳の青年に成長していた。

 冨樫氏からは「まずヴェルディというクラブの人間として、ユース出身者だし、戻ってきて欲しいという思いがある。それと監督としては、ユースの出身者とか関係なく、一人の選手として戻ってきて欲しいし、そういう風に評価しているよ」と言葉をかけられた。

「でもどこに行っても自分次第だし、サッカー界は狭いし、またどこかで一緒にサッカーをすることはあるかもしれないし、こういう縁は大切だよね」

 水面下で宮地と東京Vはやり取りしており、宮地の元へ他クラブからオファーがきていること、東京V以外のクラブを選択する可能性が高いことを東京Vサイドは認識していた。それ故、正式オファーは出していなかった。その後に、東京Vが宮地へ正式オファーを提示する動きをみせたが、既に他クラブへの返答期限も迫っていたために立ち消えに。そして名古屋入りを決めた。

「もちろんヴェルディ愛は常にあるし、本当にお世話になった気持ちもあります。でも自分は大学に入って、新しい環境で色々な人に出会う中で、人としてもサッカー選手としても成長できたと思う。新たな環境でやっていくことで成長できると大学で強く感じたことが、名古屋を選んだ理由につながると思います。それに大卒選手は若くないので。だからこそ上のレベルでサッカー選手としてチャレンジしたい気持ちがありました」

 現在はJ1とJ2とカテゴリーが違うが、天皇杯などで古巣・東京Vと戦う可能性もある。「そのとき自分は名古屋の選手なので。そこは活躍することで、ヴェルディの人はどう思うか分からないですけど、成長した姿や活躍する姿をみせることが今自分ができる最低限の恩返しかなと思います」と表情を引き締めた。

 2016年8月、特別指定選手として名古屋でプレーする日々が始まる。「自分が入って、チームを変えて、勝たせるくらいに。特別指定とはいえど、来季名古屋に入るわけで、既にチームの一員なので。“勝ちたい”という気持ちは変わらないので、そこは傲慢にならずに、いい意味で遠慮することなく、がんがんやっていきたいです」。

 一人のサッカー選手として、Jの舞台へ臨むにあたっては「当たり前のことですけど、当たり前のことを当たり前にやる。サッカーに取り組む姿勢や情熱というもので、自分は大学に入って違いを出してきたと思うので。誰よりも声を出すとか、誰よりも身体を張るとか、そういうところですかね」とアピールポイントを口にした。

「やっぱり名古屋で中心選手になって、絶対的な存在になるのが第一ですね。あとはサッカー選手なので、大学で一度だけですけど、全日本大学選抜で日の丸を着けてプレーしたのは、すごく自分のなかで感動したし、誇りに思ったので。日本代表入りを目指してやっていきたいです」

 “新天地”で挑戦することを選んだ宮地。古巣や恩師への感謝を胸に携え、自らの足でまた新たな道を切り拓いていく。

(取材・文 片岡涼)

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