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四度の手術、J入り破談を乗り越え…二浪で日本文理大進学、MF藤田恭輔の4年間

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“二浪”して日本文理大へ進学したMF藤田恭輔

[12.7 全日本大学選手権(インカレ)1回戦 専修大3-2日本文理大 味スタ西]

 二十歳を前に直面したのは“悲劇”だった。日本文理大のMF藤田恭輔(4年=大分U-18)は高校3年時に故障を負い、紆余曲折の末に“二浪”して大学進学。そして最終学年で迎えた今季、副キャプテンとして日本文理大を13年ぶりの全日本大学選手権(インカレ)出場へ導いた。悔しくも初戦敗退となったが、全国舞台で爪痕を残す一戦をみせた。

 時はさかのぼること6年前、大分トリニータU-18に所属していた高校3年生時の春に右足中足骨を負傷し、手術を受けた。既にJクラブからオファーもあるなかでの故障。Jクラブへの練習参加は断念し、治療に専念した。

 しかし早期復帰を誓うなかで悲劇が襲う。患部の状態が思わしくなく、皮膚移植や骨移植など「大掛かりな手術」をする日々が続いたのだ。同級生たちが大分U-18を経て、それぞれの道へ進んでいくなか、藤田はまさかの“浪人生活”。大分が「責任を取る」とリハビリを受け入れてくれたが、1年で傷は癒えず。浪人生活はまさかの2年目へ突入。手術は実に4回目を終えていた。

「最初の1年はオファーをしてくれたJのクラブも待ってくれると言っていたんですけれど、さすがに2年となると待ちきれないぞと……」。J入りの話しが立ち消えたとき、「来ないか」と救いの手を伸ばしたのが大分U-15時代に指導を受けた監督であり、日本文理大を率いていた由利繁弘監督だった。

 負傷から復帰後、「トリニータでやっていたからこそ、トップの厳しさとかわかるし、全然感覚も戻らずに、この状況では(Jでプレーするのは)厳しいな」と感じていたMFは大学進学を決意した。

「何度も手術をして、本当に悔しくて。今まで挫折とか辞めようとか考えたことはなかったんですが、初めて挫折しかけたんです。でも仲間の応援とかもありましたし、手術ではやめたくないなと。自分の実力がだめでとかならまだしも、手術で諦めるのは嫌という意地ですね。それで続けました」

 大学1年生になったのは、同級生たちから遅れること2年。二十歳の春だった。始まった大学生活。手の届く場所にはプロ入りがあったはずが、目の前の現実は厳しいもの。待っていたのは九州1部の優勝争いではなく、残留争い。当時を振り返った藤田は「九州リーグの入れ替え戦ですよ。なんでここに来たんだろうと。最初は後悔もしました」と正直に語る。高校時代には大分を飛び出し、関東や関西の大学へ進学することも描いていただけに、もどかしさも募った。

 それでも真摯に目の前の仲間たちと向き合い、出来ることから必死に取り組んだ。チームの雰囲気に呑み込まれていくのではなく、自分から多くを発信し、組織を変えていこうと努力を重ねた。

「びっくりしましたよ、最初は。グラウンドとか環境以前に、練習内容だったり、選手のモチベーションや実力ですね……。今までトリニータでやっていて、実力がそれなりにあって。言わずしてもわかる共通意識や連動できるところがあったんですけど、全然意思疎通もできず、守備の仕方もわからない。攻撃はどうすればいいの?と。僕は司令塔という形で結構コーチングをしながら、4年間ずっとやってきて。ようやく分かってきたのかなと……」

 大学1年時は九州リーグで9位だったチームは、翌年は5位。2015年は6位につけ、今季は2位でフィニッシュ。13年ぶり三度目となるインカレ出場を果たした。藤田の4年間は結果につながり、恩師である由利監督へ最高の恩返しとなった。

 この日のインカレ1回戦。専修大に先攻される形となったが、二度追いつく粘り強さをみせた。関東の強豪校を押し込み、圧倒する時間もあった。前線のアタッカー陣が次々と動き出しては、ゴールへ迫った。そんなチームを藤田は中盤から支えた。悔しくも3失点目を喫し、2-3で敗れたものの、全国舞台で日本文理大が戦えることは十二分に示した。

「4年生最後の年で全国へいけたのは良かったです。全国で1回戦も勝ってないので、とりあえず一勝を挙げたいなと臨みました。試合のなかで自分たちの実力でやれるなと感じがありましたし、点も取れましたし、勝てるのかなという手応えもあったので、それが悔しいです。勝てると思ったからこそ悔しいです」

「4年生だけだと力不足でしたけど、後輩のCFW(児玉怜音)やCB(西村大吾)など。彼らがいたからこそ、ここに来れたかなと。本当に下に支えられたかなと思います」

 入学当時は2歳下の同級生から敬語を使われていた。それでも「4年間一緒にやっていくなかで、それは嫌だなと。僕から敬語を使わなくていいからと言いました」と声をかけた。今では「下級生からも“おっさん”といういじりもしてくれるので、逆にありがたいですね」と笑うとおりだ。

 主将として藤田とともにチームを引っ張ってきたFW中山佑樹(4年=筑紫台高)は「最初は敬語でしたけど、恭輔くんから“普通に接して”と言ってくれて。今でも恭輔くんが“おい”って言ったら、みんな“すみませんっ!”ってなりますけど(笑) でも本当にいい関係が作れているんです」と冗談交じりに胸を張る。ぎこちないスタートとなった同級生たちが、今では最高の仲間になった。

 4年間の大学サッカーを終えた藤田。今後はサッカーの舞台では一線から退く。「もう就職します。サッカーでずっと上を目指していましたけど。ずっとトリニータの元でやっていたので、自分の実力では厳しいかなと。当然J1やJ2はもう難しいかなと感じるので。社会人やJFLという選択肢もあったんですけど、それをやるなら一般就職でいいかな」と感じたからだ。

 大学進学後から2年時まではプロ入りを目指していたが、進路を決める時期である大学3年時の終わりに考えは変わった。既に内定は得ており、春からは銀行員として社会人生活をスタートさせる。社会人チームやフットサルでボールは蹴り続けるつもりだ。

 とはいえこの日、全国舞台に立ったことで、少しばかり気持ちが揺らいだ様子。「こうやって全国に来れるとは思わなかったので、まだやりたいなぁって。やっぱりやりたいかなぁって、思ってしまいますよね」と少し困った顔で笑った。

 四度の手術でサッカー選手としての未来は変わってしまった。まさに悲劇に見舞われた。それでも藤田は過去に捉われることなく、怪我を乗り越え“今”を過ごしている。常に前を向いて歩みを進める、その背中は4年間で後輩たちへ多くのものを残したはずだ。

(取材・文 片岡涼)

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