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[SEVENDAYS FOOTBALLDAY]:自分の中の“おまもり”(新潟明訓高・田中健二監督)

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東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 終盤に負った1点のビハインドを返せないまま、チームの敗戦を告げる試合終了のホイッスルをテクニカルエリアで聞く。2年連続であと1勝まで迫ったプレミアへの壁は越えられなかったが、戦い方を伝えた選手がそれを的確に実行し、自分も冷静に指揮を執ることは間違いなくできた。「以前はこんな舞台で戦えるなんて想像していなかった」という田中健二はチームの成長と同時に、自身の確かな成長を広島の地で改めて実感していた。

 富山一高や星稜高が相次いで冬の日本一に輝くなど、近年はメキメキと全国規模でその存在感を高めている北信越の高校サッカー。中でもプリンスリーグに5チームを送り込んでいる新潟のレベルアップは目覚ましい。昨シーズン、今シーズンとプレミアリーグ参入戦の出場権を得られる北信越の2枠はいずれも新潟のチームで占められており、2年続けてその枠を確保したのが田中率いる新潟明訓高だ。リーグ2位で臨んだ1年前の参入戦は、尚志高を3-2で下したが、横浜F・マリノスユースには0-3と完敗を喫し、プレミア参入には届かなかったものの、田中は「各地域の代表というプライドをみんなが持ってきてワンチャンスを狙って、負けて涙を流したりとか、本当に上がれるか上がれないかの部分なので、これはちょっと選手権とは違うな」という感覚を得た。ほとんど主力の入れ替わった今シーズンも、「今年は難しいなと思っていたのに、選手が日に日に伸びていくので不思議ですよね」と首を傾げて笑ったチームは堂々たるプリンスリーグ制覇を達成。北信越王者として再び参入戦の舞台に帰ってきた。

「選手権予選で負けていたので、この舞台に関しては200パーセントでやらせたかった」という覚悟で挑んだ参入戦。初戦で浜松開誠館高に1-0と勝利したチームは、その一戦で相当なダメージを受けていたため、田中も「自分の本当にやりたいサッカーとは違う部分もあるけど、去年の教訓も凄く生きて、私の経験値が上がった分だけ冷静にやれた」と振り返ったように、勝てば昇格となる阪南大高戦は少し守備ブロックを築きながら、一刺しを狙う戦い方を貫き続ける。延長戦まで視野に入れた一戦は後半30分の失点が最後まで響き、0-1でタイムアップを迎え、またも昇格には一歩及ばなかったが、「カウンターを狙っていると相手もわかっている中で、ある程度ゴール前まで行けた部分はこの1年間でなかった部分ですし、そこは選手権で負けてからずっとトライしてきたことなので、それは出たかなと思っています」と手応えを口にした田中は、「『新潟県人もやればできるんだ』と。『通用したよ』という部分は最後に生徒へ言ってあげようかなと。人生の中でこの舞台は凄く大事な経験だと思いますから」と続ける。新潟明訓の参入戦は、悔し涙と得難い経験を携えて幕を閉じた。

「以前はこんな舞台で戦えるなんて想像していなかった」と前述した言葉には理由がある。高校時代は新潟明訓サッカー部で3年間を過ごし、進学した順天堂大を卒業した田中は、教員として母校の高校へ赴任を希望したが、枠の関係もあって断られてしまう。ただ、「絶対に受からないと思っていた」新潟県の教員採用試験に合格。県立高校に勤める体育教員としての社会人生活がスタートした。最初はサッカー部員が11人に満たない年もあれば、「ボトルも水を出したら霧吹きみたいに出てくるような、本当にボロボロのヤツ」を使っていたりと、決して恵まれた環境ではなかったという。それでも、常に冷静なイメージのある今の姿とは対照的に「バカじぇねえのってくらい熱かった」と振り返る当時も、そんな状況の中で試合に何とか勝ってやろうという気持ちを常に持ち続けていた。加えて、バドミントンやバスケットボール、柔道などの顧問も任されていく内に、サッカーだけを指導していては得られないであろう目線も獲得していく。ヘディングが苦手な子には野球の練習を、ミートができない子にはゴルフの練習を採り入れたりと、常識に囚われない指導法に次々とチャレンジしていった。「自分はサッカーだけをやってきた訳ではないので、そういう所は他の指導者にはできない部分だと思いますし、引き出しは凄く増えたかなと思います」という田中。その時代を振り返って、彼は「あの経験は僕にとっての“おまもり”です」と表現してくれた。

 2008年。田中に母校からオファーが届く。新潟明訓は私立校。その受諾はすなわち安定した公務員の職を捨てることとイコールになる。「あの不景気の時に公務員を辞めるようなバカは普通いないんですよ(笑)」と愉快そうに笑った彼は、周囲の大反対を押し切ってチャレンジする決断を下した。「最初の頃の自分の夢は明訓を倒すことだったんですよ。県立で全国に行くというのはよっぽどじゃないと無理なので、『国体とか県トレセンで指導できたらいいな』というくらいのビジョンしかなかったんです」という田中が踏み出した新たな一歩は、結果的に自身の人生を大きく変えることになる。

 就任4年目の2011年。田中の監督就任以降初めて、学校としては10年ぶりに出場した全国総体で新潟明訓はベスト8まで勝ち上がった。「でも、一番動揺していたのは僕ですからね。大津の平岡さんとか流経の本田さんと対戦した時も、『何でオレがここにいるんだろう?』みたいな(笑) 代表者会議でお2人に『オマエ、ユニフォームとかわかってるんだろうな』とか言われて、『ハイ…』とかそんな感じですよ(笑) 自分が一番ビビっているのに、生徒にハッタリで『やるんだぞ』みたいなことを言って」と笑顔でその時を回想する田中。「ただ興奮しながら指揮を執っていました」というこの大会は、初戦突破自体が実は新潟県勢にとって13年ぶりだった。この躍進が新潟明訓も含めた県勢各校にとって、「全国に出ることが目的だった」意識を少しずつ変容させていくきっかけになったことは間違いない。

 特に痛感しているのは「勝てば勝つほど出会いも増える」ということだ。「元々テレビで見ていた」星稜の河崎護監督や富山一の大塚一朗監督といった名将とも、プリンスリーグに主戦場を移したことで、日常的に対戦することができる。そして、昨年度はとうとう選手権で16年ぶりの全国切符を勝ち獲り、結果的に優勝した東福岡高相手に善戦する経験も得た。まだ少し不思議な感覚はあるそうだが、対戦した各校の先輩指導者たちと実際に会話を重ねていく中で「そういう先生方も苦労はされているし、最初から強かった訳ではない」ということも理解でき、サッカーだけではなく、人生そのものを学ぶ機会も格段に増えてきている。そんな刺激的な環境に身を置く中で、「今の年齢は色々な人と出会いたいと思いますけど、そのためには勝つしかないというのがスポーツなんですよね」と考えるようになった田中自身の意識も大きく変わってきている。

 阪南大高戦に敗れた直後。「去年はこんな舞台で指揮を執っていること自体、自分の中で『オレでいいのかな?』とか思っていたんですけど、それが新潟の弱さだと思ったんです。『やれるんだ』と自分で信じないと生徒たちも伸びないですし、臆病だった自分がこういう舞台を経験したことによって、今日もそうですけど強気で戦術を組めるようになったというのは大きいかなと。テレビの画面を見てああだこうだ言うのは簡単ですけど、私たち指導者もこの舞台に立たないと、この一発勝負独特の雰囲気はわからないですし、そういう所の駆け引きが冷静にできてきたのは、ちょっと自分の中でも想像を超えていますね。凄く幸せです。全国の中でもこんな経験ができる監督さんはそうそういないと思います」と語ってくれた田中は自身の成長を口にしつつ、「ずっと明訓にいたら自分はこの舞台にはいないだろうなと。絶対に県を制することもできなかったと思いますし、自分がサッカー部の顧問ではなかった時のことも含めてアプローチができているので、最初から明訓じゃなくて良かったなと思っています」と言い切った。きっと彼は自分の中の“おまもり”を年々増やしていっているに違いない。外側にあるそれは落とせばなくなってしまうが、内側にあるそれはどんな時でも自分を守ってくれるという安心感と自信を、彼にもたらし続けてくれるはずだ。

 年齢を重ねれば重ねる程、否が応でも現実が見えてくる。日々の生活に追われ、いつしか夢や希望との距離も離れてしまいがちだ。そう考えると田中が過ごしている毎日は眩しく、そして羨ましい。「大人になると意外に色々なことを知っちゃって、夢もだんだん小さくなっていっちゃったりしていくんですけど、僕は生徒と一緒にいることによって、また夢を追えるんですよ。やっぱりスポーツの良さというのはそこにあって、実は指導者が一番夢を見させてもらっているのかもしれないですね。自分1人だったらこんなモチベーションにはならないですから」。生徒と共に夢を追い続ける過程で、自分の中の“おまもり”を獲得し、また多くの人の中に “おまもり”を与えているであろう田中の指導者人生は、まだまだこれからが本番である。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務し、Jリーグ中継を担当。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」


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