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入社13年目でやらかしてしまった痛恨のミス(『それ自体が奇跡』第3話)

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30歳、結婚3年目、共働き。
夫は本気のサッカーを目指し、妻は違う男に惹かれ始めた。
初めて訪れる危機を二人は乗り越えられるのか!?
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 社食でランチを食べている。わたしは制服組なので、外で食べることはない。制服組でないとしても、そうすることはないだろう。銀座は高いお店が多いから。
 入社したてのころは、よく同期と一緒に食べた。休憩時間が同じになる子と社食で待ち合わせたりもした。もう十三年め。同期そのものがほとんどいないこともあって、今は一人で食べることが多い。それが苦にならない。仲がいい販売さんの誰か、例えば宮地清美さんなんかと時間が合ったときは同席することもある。でもわざわざ誘ったりはしない。
 たまには貢と一緒になることもある。どちらもが一人のときは同席する。しなきゃおかしい。それぞれが一人で食べていたら、仲悪いのか? とかんぐられる。それは避けたい。外れてはいないだけに、避けたい。
 何にせよ、ランチは一人でいい。そのほうが落ちつく。最近は、休みの日に友だちと会うこともなくなった。歳をとったからなのか結婚したからなのか、それはよくわからない。あの店に行きたい、この店に行きたい。その手の欲も、スーッと消えた。本来甘いはずのスイーツを甘すぎなくておいしいとほめ、本来甘くないはずの野菜を甘くておいしいとほめる。そういうのはもういい。
 味の面ではわたしが僅差で勝利できそうな社食のチキントマト煮定食を食べ終え、食器を戻して、休憩所に移った。私物入れに指定されている透明なビニールバッグから歯みがきセットを取りだして、歯をみがく。
 この歯みがきとそのあとのメイク直しがあるから、お昼の休憩はあわただしい。すぐに終わってしまう。新人のころはキツかった。ほとんど教祖さまクラスのお局さまがいて、戻りが一分でも遅れることは許されなかった。一分前でもアウト、という雰囲気があった。だから五分前には売場に戻るようにしていた。で、わたしが早く戻ったその五分は、お局さま自身がつかうのだ。
 今の自分も歳下の子から見ればお局さまなのかな、と思う。休憩時間はきちんと守るが、一分単位まで意識はしない。むしろ若い子のほうが、平気で五分遅れたりする。例えば同じ売場の奈良恵梨佳は、入社二年めにして、従業員用エレベーターが遅れたんです、とナゾの言い訳をする。休憩所は四階で売場は五階なのに、する。そういうのが続くと、わたしもやんわり注意する。え~、時間を計ってたんですかぁ? と言われる。めんどくさいので、計ってたのよ、と言ってしまう。これからもガシガシ計るから、時間は守ってね。
 今日は人員に余裕があるので、午後からは売場に出る。ジャケットとパンツのコーナーだ。単品のジャケットにパンツ。スーツとちがい、自分の好みで組み合わせる類。特定の販売員を置いてないため、社員はここに立つことが多い。
 新しいものは入ってたっけ、とパンツを見る。無地もあれば柄ものもある。これはどんなジャケットと合うだろう、と考えるとき、モデルはやはり貢になる。想像しやすいのだ。実際、貢のものはいつもここで買う。
 食べもの同様、貢は服にもこだわらない。綾が選んだものはたいてい気に入るからそれでいいよ、なんて言う。買うときはここに呼ぶ。わたしがジャケットやパンツの現物を見せる。これはちょっと、と言われることはまずない。いいね、と貢は言う。あまりにもすぐ言うので、張り合いがない。わたしがそう言うと、いや、綾が選ぶものはほんとにいいからさ、と言う。そこで止めておけばいいのに、まあ、基本、変なものでなきゃ何でもいいんだけど、とも言ってしまう。
「すみません」と背後から声をかけられる。
「はい」とあわてて振り返る。
 二十代後半ぐらいの男性がすぐ前にいる。スーツ姿。色白で細身。髪はごく自然なツーブロック。
「あの、先週こちらでパンツを買った者ですけど」
 言われてすぐに思いだす。顔に見覚えがあるのはそのためだ。お名前は、そう、天野さん。
「あ、はい。あのときはありがとうございました」
 先週、天野さんが来てくれたとき、この辺りには販売員がいなかった。声をかけられた宮地清美さんが、レジにいたわたしを呼びに来た。清美さん自身、接客中だったため、試着をしてもらっている間に駆けつけたのだ。
 事務所で仕事をしていた柴山頼子マネージャーにレジ番を頼み、わたしは急いでこのジャケットとパンツのコーナーに向かった。そしてしばらくお相手をした末にパンツを買ってもらえることになり、裾上げのための採寸をした。確か、お直し後の配送の手続きをとったはずだ。
「これ、裾上げをしてもらって、家に届いたんですけど。穿いてみたら、ちょっと」
「何かございましたか?」
「丈が短いんですよね、かなり」
 天野さんは紙袋からそのパンツを取りだした。やはり見覚えがある、細かなチェック柄のパンツだ。色はライトグレー。
「穿いてみたほうがいいですよね?」
「お願いします」
 すぐ近くの試着室に案内し、靴を脱いで入ってもらう。二つあるうちの一つ。前回と同じ右側だ。
「失礼します」と静かにカーテンを閉じる。
 マズいな、と思う。やっちゃったか、と。新人のころとちがい、ここ何年かは、やっちゃうこともなくなっていた。年二回の紳士服の大催事のときは、期間中ずっと八階催事場に立つ。そのときはもう殺人的な忙しさになる。採寸採寸また採寸。ランチのあとにまた採寸。でも一つ一つの仕事はその場でしっかりやるから、まちがえたりはしない。
 一分ほどの沈黙のあと、カーテンがなかから開けられた。
「穿きました」
「おつかれさまです」
 足もとに屈み、パンツの裾を見る。驚いた。というよりも、呆れた。明らかに短い。黒の靴下に覆われたくるぶしが出ている。通常より十センチは短いだろう。採寸ミス。もしくは裾上げミス。どちらにしても、店の責任だ。
「あぁ、ほんとですね。申し訳ありません」
 屈んだまま、視線を上げる。天野さんの顔を見る。内心こわごわと。
「やっぱりそうですよね」
「はい」
 声音に怒りは感じられない。表情も同じ。
「家で穿いてみて、あれっと思ったんですよ。腹話術の人形じゃんて」
 予想外に出てきたその言葉に、つい笑う。顔を下に向けてごまかす。腹話術の人形、まさにそれ。
「これで帽子をかぶってステッキを持ったらチャップリンですよね。逆にカッコいいと思おうともしたんですけど。さすがに無理でした」
「わたしが計りまちがえたのだと思います。本当に申し訳ありません」
「いえ、それはいいんですよ。ただ、どうするべきかわからなかったので、とりあえず見てもらおうと」
「すみません。わざわざお越しいただいて」
 こんなとき、怒りの電話をかけてくるお客さまもいる。ここまでのミスだと、むしろそれが普通かもしれない。怒りが収まらないお客さまのもとへは、役づきの社員が出向く。この場合なら、柴山さんだろう。
「それもだいじょうぶです。会社から近いんで、仕事の合間に歩いてきました。そうできるんだから、初めから自分で取りに来ればよかったですね。で、一応、レシートは持ってきたんですけど」
「ありがとうございます」
「これ、結構気に入っちゃったんですよね」
「そう、ですよね。いい柄ですもんね」
「また直してもらうことはできますか?」
「ちょっとすみません。失礼します」
 裾の内側をめくってみた。生地の余裕はない。さすがに十センチ近く戻すのは無理だろう。すでに直した箇所に折り目がついてもいる。
「これをまた直すのは難しそうなので、至急、メーカーに当たってみます。ウェストサイズは同じでだいじょうぶですか?」
「えーと、七十三でだいじょうぶです」
「ではお脱ぎいただいて」
 再びカーテンを静かに閉める。なかに声をかける。
「今のうちにお直し伝票を持って参りますね」
「はい」
「失礼ですが。お名前は、天野さまですよね?」
「そうです。よく覚えてましたね」
「わたしが採寸させていただきましたので」
 とはいえ、採寸したのは何日も前。プロパー商品だから思いだせた。催事商品なら無理だったろう。何せ、数が多すぎる。
「ではすぐに行って参ります」
 ほかのお客さまのご迷惑にならないよう急ぎ足で通路を歩き、レジカウンターに戻った。
 お直し伝票は、プロパーのものと催事のものとに分けている。日付順に綴じてある。さかのぼっていくと、簡単に見つかった。
 天野亮介様。日付は五日前の土曜。扱い者はわたし。田口。股下は七十センチになっている。確かにわたしの字だ。70と書かれている。お直し業者さんの見まちがいではない。わたし自身がはっきり70と書いている。入社後の研修で、そのあたりはきちんと指導されるのだ。いかにも女子といった文字を書かないように。特に数字については厳しく言われる。電話番号、住所の番地、各種カードの番号。それらの書きまちがいが致命的な事故につながることもあるから。
 前に柴山さんも言っていた。綾さんのころはもうちがうだろうけど、わたしの時代はまだ女子の丸文字が残ってたからね、直すのは大変だったわよ。努力してせっかくかわいい丸文字を書けるようになったのに、泣く泣くそれをもとに戻した。懐かしいわね。
 80と書くつもりで70と書いてしまったのだろう。わたしはそう推測する。メジャーでの計りまちがいではないはずだ。万が一そこでまちがえたとしても、そのあとお客さまに口頭で確認する。股下は八十センチでよろしいですか? 現場で応対しているのだから、その確認を省くことはない。それは断言できる。自身の股下丈を記憶しているお客さまは少ない。でも普段は八十センチ前後の人が股下七十と言われたら、それは気づくだろう。気づき、指摘してくれるだろう。
 伝票を手に、またしても急ぎ足でジャケットとパンツのコーナーへ戻る。試着室のカーテンは開いていた。すでに靴を履いた天野亮介さんが、二つ折りにしたパンツを手に立っている。
「すみません。お待たせしました」
「こっちこそ、何かすいません、お手数をかけちゃって」
「いえいえ、そんな」伝票を見せて、言う。「やはりわたしが記入ミスをしてしまったようです。おそらくは、八十を七十と。本当に申し訳ありません」
「いえ、いいですよ」
 パンツを受けとり、内側に縫いつけられたタグを見る。ウェストは確かに七十三。大手メーカーのものだ。ここならどうにか、と期待する。
「メーカーに電話をかけて、同じ商品のストックがあるか確認します。お時間はだいじょうぶですか?」
「だいじょうぶです。今日は余裕です」
「ありがとうございます。ではすぐに」
 再びレジカウンターへ戻り、メーカーさんに電話をかけた。いつもの営業さんにでなく、会社にだ。事情を手短に説明し、品番を伝えた。一秒でも急いでもらうべく、その場で待つ。さすがは大手メーカー。在庫管理は完璧だった。
「あります」とわずか二分で返事が来た。
「あぁ、よかった。すみません、急かしてしまって」
「いえ。明日、午前のうちに担当に持たせますよ」
「たすかります。ありがとうございます」
 電話を切ると、わたしは最上級の急ぎ足でジャケットとパンツのコーナーへ戻った。あれ、いない、と思ったら、天野さんは試着室から少し離れたところでほかのパンツを見ていた。そちらへ寄っていく。
「お待たせしました。よかったです。ありました」
「ほんとですか? 僕もよかったです」
「明日のお昼までにはこちらに届く予定です」
「そんなに早く。じゃあ、えーと、僕はどうしたらいいでしょう?」
「大変申し訳ないのですが、もう一度ご来店いただくことは可能ですか?」
「それはだいじょうぶですけど」
「念のため、あらためて採寸させていただきたいので」
「あぁ、なるほど。もしあれなら、届き次第、股下八十センチで直しちゃってもいいですよ。僕も、八十と言われたような記憶があるんで」
「でも、万が一またご迷惑をおかけしてしまうとあれですし」
 その可能性はゼロではない。八十だって、確かな数字とは言えないのだ。
「わかりました。明日来られるかは微妙ですけど、月曜か火曜には来ますよ」
「ありがとうございます」
「そのときは、えーと、向こうのレジのほうに行けばいいですか?」
「お願いします。天野さまでわかるようにしておきますので。わたしがいれば、もちろんわたし自身が対応させていただきますし。ではお待ちしております。お手数をおかけして、大変申し訳ありません」
「いえいえ。すっきり片づいてよかったです。じゃあ、これで」
 天野さんが去っていく。その後ろ姿を見送った。
 たすかった、と思う一方で、ショックでもあった。急に呼ばれて出ていったとはいえ、もう何百回、いや、何千回とやってきたパンツの採寸。しかもあの日は一度だけ。そこでミスをするとは。ちょっと気持ちが不安定なのかもしれない。貢にチーム加入の話を聞かされる前までとは、どこかがちがうのかもしれない。
 それから、裏にあるお直し業者さんの作業場へ行き、事情を話して、天野さまのパンツが持ちこまれたら最優先で仕上げてくれるようお願いした。業者さんといっても、わたしの母親世代のおばさんたちが多いので、お菓子を差し入れるのも忘れなかった。和洋折衷のお菓子。地下の食品売場で買った、モンブラン大福。それを十個。値は張ったがしかたない。自分のせいなのだから、そのくらいのことはするべきだろう。
 そして閉店間際の午後八時前。レジ締めの準備にかかっていたわたしのもとへ、麻衣子さんがやってきた。
 手塚麻衣子さん。わたしより二つ上の三十二歳。五歳児の母だ。同じく高卒で、結婚時に退職はしなかった。出産時も産休と短い育休をとっただけですぐに復帰した。その意味では、わたしが将来の手本とすべき人だ。同じ紳士服部だが、わたしは主にカジュアルウェア、麻衣子さんは主にスーツコートを見ている。
「綾さん、お直しに急ぎのお願いをしたんだって?」
「はい」
「そういうの、ちゃんと報告して」
「あぁ。すみません」
「スーツのほうでも急ぎが出るかもしれないから、かち合っても困らないように、そこは言っといてもらわないと」
「はい」
 忙しい催事期間中ならともかく、今はまったく問題ないはずだ。たぶん、事前にお願いしておく必要すらない。いきなりの、これ急ぎでお願いします、でも充分対応できるだろう。麻衣子さんもそれはわかっている。わかっているのに言ってくるのが麻衣子さんだ。
 実はわたしも、あえて言わなかった。麻衣子さんは、自分のミスを進んで明かしたくなる相手ではない。バレない可能性もあると思っていたが、やはりバレた。作業場のおばさんたちがポロリと言ってしまったのかもしれない。
「それとは別に、気をつけてね。社員がそんなだと販売員さんにも示しがつかないから」
 採寸ミスそのもののことだろう。それに関しては、謝るしかない。
「すみません」
「そういうことが続くと、わたしたちが軽く見られちゃうからさ」
 わたしたち、というその言葉を麻衣子さんはよくつかう。初めは気づかなかった。女子社員、のことだと思っていた。が、あるときふと気づいた。高卒女子社員のことなのだと。だからいつもわたしと麻衣子さんが、わたしたち、になる。わたし自身にそんな意識はなかったので、ちょっと驚いた。いや、意識がまったくないことはない。大卒と高卒では扱いもちがうし、お給料もちがう。そもそも総合職と一般職で採用の枠がちがうのだからそれはそうだろう、と思っていた。でもみんながそう思うものではないらしい。
「とにかく、これからはきちんと報告してね」
「します」と素直に言った。
 報告するとしても柴山さんにですけど、とは言わなかった。そんなことを言ってしまう女子社員もいる。奈良恵梨佳なら言うだろう。綾さんわたしほんと麻衣子さん苦手ですよぉ、といつも言ってるくらいだから。でもわたしは言わない。こんなときは、心のなかでぺろりと舌を出しておけばいいのだ。それが、この会社でわたしが学んだことの一つ。これまでいったい何度舌を出してきただろう。二十代半ばのころは、舌、フル稼働、ということもあった。
 最近はもうそんなこともなくなっていたのだが。
 三十路でのぺろりは、逆にこたえることがわかった。

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▼第1話から読む
○30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(第1話)
○ある日突然、夫が本気のサッカーを始めたとき、妻は……(第2話)
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<書籍概要>

■書名:それ自体が奇跡
■著者:小野寺史宜
■発行日:2018年1月9日(火)
■版型:四六判・272ページ
■価格:電子版 500円(税別・期間限定)、単行本 1,450円(税別)
■発行元:講談社
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