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黄金期ジュビロ、単身ボカ移籍、最年少J得点王…沖縄SV高原直泰が語る『キャリア』の裏側

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ゲキサカのインタビューに答えた元日本代表で沖縄SV「代表兼監督兼選手」のFW高原直泰

 元日本代表FW高原直泰(38)は現在、自身が創設した『沖縄SV』(今季から九州リーグ所属)の「代表兼監督兼選手」として、サッカークラブ経営に取り組んでいる。縁もゆかりもなかった土地に移り住み、今年で3年目。ピッチ上の選手に自身の経験を伝えるだけでなく、選手の獲得、地域貢献、事業開発と多方面に全力を注ぎ続けている男の想いを聞いた。(全2回)

■18歳で磐田入団…「フリューゲルスに行く予定だった」

―九州リーグへの昇格が決まり、今年も新たな選手の獲得に尽力してきたようですが、まずはご自身のルーキー時代(1998年)から教えて下さい。率直になぜ、磐田を選んだのですか。
 磐田に決まったのはなんだろう……(笑)。正直、もともとフリューゲルス(横浜フリューゲルス/99年度限りで消滅)に行く予定だったんですよ。夏くらいの時には、ほぼほぼ決まっていました。
 でも当時ジュビロのコーチをやってた昌邦さん(山本昌邦)が、スカウトに「アイツはもうサイン(契約)したのか?」ってなって、「まだサインしてないなら……」ということで、俺とウチの両親が昌邦さんと会うことになりました。

 もともとウチの親父が昌邦さんを知っていて。たぶんウチの親父が日大三島高の教師だった時の教え子に昌邦さんがいたのかな。その関係もあり、会って話をして、ジュビロの現状とかの話をしました。そこで唯一チャンスがあるポジションがFWだったんですよね。
 ジュビロに入って、スタメンに入るくらいになれば、日本代表につながるという話もして、よりレベルが高く、日本代表までつながっているというところで、ジュビロに決めました。でも、それまではほぼほぼフリューゲルスだったという感じですね。『逆転』じゃないですけど(笑)。

―たしかに当時の磐田は中盤にはチャンスがなかったですよね。(※MF名波浩、MF藤田俊哉、MF服部年宏、MFドゥンガらが所属)
 絶対にないですよね(笑)。みんな20代前半も多かったんで。FWはちょうど自分がいたとき、ブラジル人の若いヤツ、アレッサンドロだったかな。あと奥くん(MF奥大介)が1.5列目だったんで、結構チャンスあるかなという感じでした。

■21歳でアルゼンチンへ…「真剣勝負で行った」

―その後、4年目の2001年にはアルゼンチンのボカ・ジュニアーズへ行きました。その選択は何を見据えていたんですか。
 もともとできるだけ早く海外に行きたかったんですよ。そしてちょうど21歳の時ですかね、オファーをもらって。海外で挑戦したいという気持ちがかなり強かったので、当時の社長の荒田さん(荒田忠典元社長)に無理を言って、行かせてもらいました。
 当時は1stステージ、2ndステージに分かれてたんですけど、1stステージを優勝して行きました。トランクケース1個持って(笑)。契約は1年レンタルのオプション買い取りという形でした。

―21歳でのアルゼンチン行きはインパクトが大きかったんじゃないですか。
 自分は中学生くらいからアンダー世代で海外に行かせてもらっていたんですね。でも、それはアンダーの日本代表チームの一員として日本人スタッフ・選手と一緒に行くだけ。言葉が通じる者同士で行っていただけであって、この身一つで行くのとは全然違うなと思いましたね。
「自分はもっとできるはずなのにうまくいかない」みたいなもどかしさを学んだというか、それを経験したのは結構よかったと思います。ただ、経済の崩壊というか、(インフレで)自分の契約していた給料が3倍~4倍の価値になってしまった。それでチームにいられない状況になってしまって、日本に戻ってくることになりました。
 プレーしたのは半年間だけでしたけど、お客さんじゃなく一選手としてやれたのはかなり大きかったですよね。そういう経験は半年間だけだけど、真剣勝負で行ったというのがあったからこそ、次の年につながった部分があったと思います。

■帰国した翌2002年、史上最年少23歳でJ得点王に

―アルゼンチンから帰ってきての得点ラッシュは衝撃でした。
 日韓W杯にエコノミー症候群で出られなかったという反骨心もありましたけど、アルゼンチンでの経験が自分の中で生きたからこその結果だったかなと思います。

―厳しい経験を積んだ若い選手が“覚醒”するというのは一つのセオリーだと思いますが、具体的にどのような経験が衝撃を与えたんですか。
 アルゼンチンで学んだのは、彼らにとってのサッカーがどういうものなのかということ。自分の家族、家族といっても親の家族に兄弟の家族、いろんな家族の生活が1人の選手に乗っかっている。そういう中でサッカーをしてお金を稼いで、家族全体を養っていかないといけない。そういう気持ちというか、バックボーンの強さがまず一番違うところですね。日本の選手たちとは。
 そういうものが自分にかかっている選手と、ただ単に「上を目指したい」と思っているだけの選手では、メンタル的な強さが違うかなと思います。日本が悪いということでは無くて環境の違いですかね。アルゼンチンに限らないですけど、南米の選手はそういうところが強かったなと思います。
 あと、だからこそプレー自体もボールを離さない。ただ、ボカには当時リケルメ(元アルゼンチン代表MFファン・ロマン・リケルメ)がいたんで(笑)。みんなリケルメには何でも預ける。彼なら何でもやってくれる。それが衝撃的でしたね。プレイヤーとしてのすごさっていうんですかね、それを間近で見られたのも良かったです。

■ボカでの思い出…「日本ってとんでもない異次元の国」

―そういえば昨年、アルゼンチンのマウリシオ・マクリ大統領が首相官邸に来て、安倍晋三首相が「日本人なら誰に会いたい?」と聞いたら、「高原に会いたい」と言ったというエピソードもありましたね。
 マクリさんは元ボカの会長でしたからね(笑)。

―半年間でそれだけのインパクトがあったんですね。
 どうですかね……。自分は特別なことをしていた訳ではないですけど、向こうの人にとったらすごいことみたいな感じなんですよ。この前テレビ番組の「YOUは何しに日本へ?」(テレビ東京系列)で、アルゼンチンから来たやつが「高原に会いたい」って来たんですけど、唯一俺が点を取った試合を、当時子どもだった彼がスタジアムで観ていたみたいで。

 向こうの人からしたら、日本ってとんでもない異次元の国というか、そういう認識なんですよ。何も分からないところ。そういうところから自分の国に来て、サッカーをやっていて、点を取って、それだけで「コイツすげえな」って認識があるみたいなんですよね(笑)。だからその時のインパクトが強いみたいなんですよ。自分にとってはうれしいことなんですけど(笑)。

―しかし、来たのは大統領ですからね(笑)。
 もともとマクリさんがボカの会長をしていた時に移籍したんですけど、マクリさんが「日本の選手ってのはどうなんだ」ってところから始まったらしいんですよ。日本の企業と取引をしていたらしく、企業を通じてオファーが自分のところにきたというか。
 さらに当時の監督だったビアンチ(カルロス・ビアンチ)がフランスつながりでトルシエ(日本代表のフィリップ・トルシエ元監督)に言って、「日本の選手なら高原だろう」という経緯で話が進んでいったという感じですね。いまじゃあり得ない移籍の流れです(笑)。

 4月4日更新の第2回では、沖縄SVでの活動、選手獲得の心得、若者へのメッセージについて掘り下げていく。

(インタビュー・文 竹内達也)

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