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川崎Fで「内容の濃い3年間」過ごし仙台へ…DF板倉滉「一度違う場所で勝負したかった」

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ベガルタ仙台DF板倉滉

Road to TOKYO~Jリーグで戦うU-21戦士~Vol.1

 今季、下部組織から育った川崎Fを離れ、ベガルタ仙台への期限付き移籍を決断したDF板倉滉。J1リーグ開幕戦でプロ初先発、初ゴール、初フル出場を記録してチームの白星発進に大きく貢献するなど、新天地で最高のスタートを切った。負傷によって一時は離脱したものの、早期復帰を果たした21歳に移籍を決断した理由、川崎Fでの3年間、そして2年後に迫る東京五輪への思いを聞いた。

正直、不安もあった
初めての移籍


――良いスタートを切りながらも、負傷によって約1か月戦線を離脱することになりました。
「負傷に関しては反省しなければいけません。試合に出続けたい気持ちが強かったので悔しさもあったし、自分がピッチに立てない時期、チームは全体でハードワークしていて、試合内容も良かったので正直焦りはあった。ただ、同時に早く復帰してチームの力になりたいと思っていたので、(第8節の)磐田戦で復帰できて、率直にサッカーができる嬉しさを感じることができました」

――今季、仙台に期限付きで移籍加入しました。移籍を決断した理由を教えて下さい。
「僕は下部組織からずっとフロンターレで育ってきたので、最後の最後まで本当に移籍した方がいいのかどうか迷いました。ただ、仙台の丹治(祥庸)強化育成本部長や渡邉(晋)監督と話をさせて頂いたときに、自分をすごく必要としてくれているという熱意を感じたので、それは最後の一押しになったと思います。それと、周囲からは『試合に出るために行ったんじゃないか』とよく言われますが、仙台に来たからと言って絶対に試合に出られるわけではないし、しっかり競争に勝たないと試合には出られません。でも、フロンターレを離れて、一度違う場所で勝負したい気持ちもあったので移籍を決断しました」

――初めての移籍となりましたが、U-21代表の一員としてAFC U-23選手権に出場していた影響もあり、チームへの合流が遅れました。
「正直、不安はありましたよ。ピッチ上での不安もありましたが、チームメイトに会うのが一人だけ、しかも新加入なのに遅れるじゃないですか。『ちょっと嫌だな』『どんな感じになるんだろう』と思っていたけど、皆がすんなり受け入れてくれたので、すごく馴染みやすかった。最初は本当に緊張していたけど、しっかりあいさつしないといけないと思って、ガチガチになりながら『初めまして。よろしくお願いします』と一人ずつにあいさつさせてもらいましたが、皆が優しかったのですごく助かりました」

――川崎F時代のチームメイトである中野嘉大選手が在籍していたのも心強かったのでは?
「ヨシヒロくんがいたのは大きかったです。仙台に来る前から、いろいろな話を聞かせてもらって、サッカー以外にチームメイトのことも聞いていて、『皆、良い人だから大丈夫だよ』と言われていたので、一人でも一緒にやっていた先輩がいたのは良かった。あとは、年の近いガクくん(野津田岳人)やカツくん(永戸勝也)が最初に話しかけてくれたことで、すんなりチームに馴染めたと思っています」

――仙台での生活には慣れましたか? 川崎Fでは寮生活をしていたので、食事面などで大変な部分もあると思います。
「最初の頃はホテル暮らしをしていたけど、良い物件を見つけたので、今は一人暮らしです。ホテル暮らしのときは朝飯は出るし、昼飯はクラブハウスで食べて、夜は外食なので自炊はしていなくて、フロンターレのときは寮にいたので、包丁も全然使えない状態です(笑)。今まで自炊をしたことがないから、これからもまったくしなさそうだけど、一人暮らしを開始する前に家具を見に行ったとき、フライパンや包丁も見て買おうとは思いました。作るか作らないかは分からないけど、僕は形から入るタイプなので、まずは料理道具をそろえようと思っていますが、まだ料理にはチャレンジできていないですね(笑)」

――ユアテックスタジアムで行われた柏との開幕戦では、J1リーグ初スタメン、初のフル出場、初ゴールを記録しました。
「すごく良いタイミングで飛べて、ヘディングをしたときも『うまく当たった』という感触があったし、その得点で1-0で勝てたのはすごく大きかった。実は隠れながら狙っていたんですよ。後ろの選手だけど、隠れながら点を取りたい気持ちがあったし、ファン・サポーターからの期待もあったと思うので、まずは結果を数字で残せて良かった。でも、これを続けないといけない。しっかり続けることで、信頼される選手になれると思っています」

全盛期は小学3、4年!?
その頃に自分の土台ができた


――1月のAFC U-23選手権では初戦パレスチナ戦、続く第2戦タイ戦で決勝ゴールを奪っていたので、公式戦3戦連続決勝ゴールとなりました。
「確かに(笑)。それはビックリしますよね」

――守備が本職になりますが、得点力や足元の技術、ドリブルで運べることも持ち味だと思います。
「攻撃面の持ち味は試合でも出していきたい。最終ラインやボランチの位置から、そういうチャレンジをする選手は少ないと思うし、相手も油断していることが多いので、チャンスがあれば自分でドリブルで運ぶというのは意識しています」

――昔、FWでプレーしていたことが、今のプレースタイルにつながっていますか。
「元々点を取るのが好きでサッカーをやっていたので、小学生の頃はFWでプレーしていました。フロンターレのセレクションはFWで受けていたので、FWとしてフロンターレに入ったようなものですが、小学3、4年くらいのときが、僕の全盛期です(笑)。ボールを取られる気がしなかったし、絶対に周りにパスを出さなかった。ボールを受けたら自分でドリブルしてシュートまで持っていっていたくらいなので。その後はボランチや後ろでプレーするようになったけど、自分のプレースタイルの土台はその頃にできたと思います」

――ボランチや最終ラインでのプレーが多くなり、守備の楽しみも覚えてきたのでは?
「まだ攻撃の方が好きですけどね(笑)。でも、ディフェンスに入ったら、まずは目の前の敵に絶対に仕事をさせないように意識しているし、対峙している相手には絶対に負けたくない。そういう気持ちでプレーしているので、その相手を完全に抑えたときは充実感があります」

――ポジションが変わることで、意識の変化もあると思います。
「最終ラインに入ったときは全体が見えている状態でスタートするし、後ろにGKがいると思ったら、ボールを持ったときはプレーしやすいので、しっかりと味方の動きを見逃さないように意識している。ただ、ボランチでは360度、どこからでも相手がプレッシャーをかけてきて、判断が遅くなるとボールを奪われる回数が多くなるので、そこの難しさはあります。特に左CBからボランチにポンと入ったときに見える景色が全然違うけど、そういう状況でも見える範囲を大きくしたいと思っていて、常に首を振って周りの状況を把握しようと意識している。もちろん、パスを出すだけでなく攻撃参加できるタイミングを見極めて、行けるときはしっかり狙っていきたい気持ちもあります」

――守備面ではいかがですか。
「最終ラインで相手に一発で行くと後ろにGKしかいないので怖さはあるけど、ボランチのときは後ろにディフェンスがいるので、前に強く行けます。『ここで本当につぶす』と思って一発のプレーができるし、僕の中ではそういうプレーを得意にしているので、すごくやりやすいですね。でも、そのプレーを最終ラインでもできるのがベストなので、競り合う位置や状況を判断しながら一発のプレーで相手の攻撃をはね返せるようになりたい」

内容が濃かった
川崎Fでの3年間


――川崎Fでトップチームに昇格してからの3年間は思ったように出場機会をつかめませんでした。
「正直、焦りしかなかった。試合に出て結果を残せなければクビを切られる世界だと分かっていたし、それがプロの世界だと思っていたので本当に焦りもあった。ただ、プロ1年目は公式戦で1試合も出れなかったけど、チームにはすごくうまい選手が多かった。もちろん、負けたくない気持ちは強かったけど、とにかく僕はその人たちのプレーを見ながら良いところをドンドン盗んでいこうと思って練習していた。それと、2年目にプロデビューしたときは突然チャンスが来たという感じでしたが、『いつでも試合に出れる』という気持ちで準備していたので自信を持ってプレーできた。だから、たとえ試合に出れなくても練習から真剣に取り組まなければ絶対にダメだと思っていました」

――ただ、人のプレーを見て盗んだとしても、それを試す場がなかった。
「だから、葛藤がすごくありました。自分の中で『絶対にできる』という自信があるときに試合に出してもらえなかったり、ベンチ外のときは本当に悔しかったし、何で出してくれないんだという気持ちもあった。けど、使ってもらえたら絶対にできると思っていても、そこで文句を言うのはおかしい。決めるのは監督やコーチなので、自分には何かが足りなかったんだろうし、練習からアピールしていくしかないと考えて取り組んでいました」

――プロ3年目はシーズン序盤にベンチ入りを続け、特にACLでは多くの出場機会をつかみました。
「2年目の最後の方は天皇杯やチャンピオンシップで使ってもらい、『やれる』という手応えもあったけど、2年目までは勢いでできていたことが、3年目にチャンスをもらったとき、うまくいかなくなった。それまでは、『試合に出たら思い切ってやるぞ』『ガツガツやるぞ』という感じだったけど、いろいろと考えすぎたのかもしれません。見えていたところが見えなくなり、ボールが思ったところに止まらなかったり、判断が遅くなったりして、自分でも『マズイ』と思っていても全然立て直せなかった」

――難しい時期を過ごす中、プロ3年目の5月には、U-20日本代表の一員としてU-20W杯に出場します。
「U-20W杯前にケガをしてしまいましたが、出られた試合では体もキレていたし、手応えも悪い感じはしなかった。でも、U-20代表からフロンターレに帰ってきて、試合に出れないとき、自分でも気付いていたけど練習に身が入っていなくて、試合に出らないことに対してイライラもしたし、正直、人のせいにしていた部分もあったと思う。分かってはいるけど、立て直せない時期が続いて、そういうときは監督もしっかり見ていて、ずっとベンチ外が続いた。ただ、先輩方や仲間の支えや声掛け、自分自身が『変わるしかない』という気持ちになれたので、ルヴァン杯やリーグ戦の終盤ではチャンスをもらえたと思う。今になって思うのは、フロンターレの3年間でいろいろ考えさせられたし、自分の弱さ、メンタル的な弱さも出て、プレー面でも納得いかない時期を経験した。でも、内容の濃い3年間で、いろいろなことを経験できたのは、これからのサッカー人生の糧になると信じています」

――今季は負傷離脱の期間はありましたが、リーグ戦で先発出場が多く、今までとは違うコンディション調整になっていると思います。
「毎週末にあれだけ試合に出ることはなかったですからね。もちろん、試合に出て課題を見つけ、修正しながら成長していこうと思いますが、やっぱり試合に出られることが何よりも楽しいんですよ。毎週のように試合があって、連戦でも『また試合だ』って思えるし、疲労感も感じない。負傷前までの先発出場を続けていた時期は、楽しくやれているというのが自分の中にはすごくありました」

五輪までの2年間を
どう過ごすかが大事


――U-20W杯で世界を体感したことで、意識の変化はありましたか。
「日本は全員で守って全員で攻撃をするなど組織的に戦うと、ボールを持てるし、奪うこともできます。U-20W杯でもチャンスを作れる試合が多かったけど、個人個人のところにフォーカスすると、やっぱり相手には一人で打開できる選手、一人でボールを奪える選手が多かった。相手がボールを持ったとき、皆でつないで崩すのではなく一人でドリブルで打開してくるし、1対1ではしっかりボールを奪い切ってきます。もちろん組織は大事だけど、その中で個人個人がレベルアップさせていくと違った世界が見えるのかなとW杯を通して感じました」

――1月のAFC U-21選手権は森保一監督が率いて初の公式大会となり、選手は監督が求めるものをこなすことにいっぱいいっぱいだったように感じます。
「皆、森保監督が話していることを理解しながらやっていて、そこをすごく意識していたけど、最初はもちろん合わないところもあると思いながらやっていた。もちろん、監督が話したことを意識しなければいけないし、求めていることをピッチ上で出さないといけないけど、その中で、状況に応じて一人ひとりが自分の良さを出すというのも絶対に忘れてはいけないと思う」

――昨年12月のE-1選手権ではU-21代表でチームメイトのDF初瀬亮選手が、同世代で初めてA代表に名を連ねました。
「亮が選ばれたのはもちろんうれしかったけど、同時に自分も入りたいという気持ちがさらに強くなった。それはA代表に選出されるということだけでなく、普段のJリーグでも、同世代の選手が活躍して、自分が試合に出ていなければ焦りが出てくるし、悔しさもあるので刺激になる。それに、身近な選手がA代表に選ばれるということは、自分にもチャンスがあると思わせてくれるので、良いモチベーションにつながります」

――20年の東京五輪までの2年強は短く感じますか、それとも長く感じますか。
「絶対にあっという間ですよ。本当にあっという間だと思う。僕はプロになって4年目だけど、もう4年も経ったのかと感じます。今までだったら、大学1年生と同い年、2年生と同い年、3年生と同い年と思っていたけど、もう4年生と同い年で来年には新社会人ですもんね。この4年間は本当に早く過ぎたので、これからの2年間をどう過ごすかが大事になってくると思います」

――当然、東京五輪でのメンバー入りは一つの大きな目標になると思います。
「東京で開催されることもあって注目度も高く、もちろん五輪に出たい気持ちは強いけど、僕は日頃のJリーグで試合に出続けてアピールするしかありません。アピールした先についてくるものだと思っているので、まずは仙台でしっかり頑張らないといけない。目標にしていた全試合出場は達成できなくなりましたが、1試合でも多くの試合に出場してチームに貢献したい気持ちが今は強いし、チームを勝たせられる選手になれるように必死にやっていきます」

2020年の東京五輪出場を大きな目標に仙台で日々成長していく

(取材・文 折戸岳彦)

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