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「なぜ、今なんだ?」。悪夢から立ち直り、憧れの人を追うブラサカ日本代表・田中章仁

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軽快なドリブルを見せるFP田中章仁

 ブラサカ日本代表合宿が9日までの2日間、千葉県内で行われた。守備的なポジションのFP田中章仁は、体をしつこく当てる守備で、8月の南米遠征で世界ランク1、2位のブラジル、アルゼンチンを初めて完封できた。9日の紅白戦では、ゴールまで決めた。

「3年前のリオデジャネイロ五輪の予選までは、自分は守備をしてボールを自陣から出せばそれでいい、という意識でした。でも今は試合中のポジションも流動的になり、自分が守備だけでなく、中盤の役割を果たすこともある。だからチャンスがあればシュートを打つし、右足でも左足でも少しでも正確に打てるようになりたい」

 161㎝、68kg。足が速そうな体形ではない。ゴールを決めた瞬間、本人が一番驚いたのか、拳をつきあげ、少年のように喜んだ田中を高田敏志監督はこう評する。

「あんなに頭のいい選手はいない。見えていないのに、見えている僕らより賢いんじゃないかと思うこともあります。いてほしいところにいてくれるし、彼にボールを持たせてもいろんな展開ができる。彼は少年サッカーもやったことがなくて、ブラインドサッカーの選手になってから本格的にはじめた。運動能力もこのチームでは一番低いけど、サッカーは一番うまい。『サッカーは頭だ』という僕の考えを体現してくれる選手です」

 田中はサッカー王国、静岡県出身。3歳の時、小児がんのため、右目が見えなくなった。左目は放射線治療を続け、その後、様々な病気を併発しながらも小学2年生の時には視力が0.2まで回復。サッカーの日韓ワールドカップが開催された2002年までは視力が安定し、テレビでサッカーボールを追うことができた。しかし、W杯開幕戦が行われた同年5月31日に左目を手術。その後の経過が思わしくなく、2か月後に視力を失った。社会人2年目、24歳の時だった。

「小さい頃から病気のことは頭に入っていました。だからいつも『どうやって自立しようか』と考えてきた。そのためには就職しなければいけません。コンピューターのプログラミングはできるだろうと考え、大学(静岡大学情報学部)も選びました。見えなくなったのは、大学で学んだことを生かせる仕事についた2年目の5月ですから……。いつかは見えなくなるのはわかっていましたけど、『このタイミング?』という思いのほうが強かったですね」

 当時勤めていた会社も辞めなければいけなくなった頃、盲学校の担任の先生と十数年ぶりに再会。パソコンなどの画面表示を音声化して操作するソフト「スクリーンリーダー」の存在を教えてくれた。すぐに自分で取り寄せてパソコンにCD-Romを突っ込み、インストールすると、画面上の文字を読み上げてくれた。

「これがあれば、仕事ができるかも」

 ブラインドサッカーをはじめたのは、現在勤める障がい者の雇用を行うNTTグループの特例子会社「NTTクラルティ」に再就職してしばらく経った後。頭の中で追いかけたのは、まだかすかに見えていたころに何度も観た、ジュビロ磐田の背番号7、名波浩(現、監督)だ。ずば抜けた身体能力がなくても、巧みなパスワークとポジショニングのよさで周囲のよさを引き出し、当時、黄金時代を築いた指令塔だ。

「そのパス回しとか、ロングで前方に出すボールとかとても印象に残っています。その時にフォローに入る選手の動きも印象的でした。周りの選手の場所を感じて、自分がどこにいればチームとして動けるのかということを攻守で考えながら常に動いています。当時のジュビロぐらい、面白いサッカーができるようになりたいです」

 田中が日本代表で背負うのは、名波と同じ背番号7。無我夢中で「本家」を追う田中に、ハンデを背負う悲壮感は感じられない。

(取材・文 林健太郎)

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