beacon

[アンプティW杯直前特集]陸上のパラリンピック入賞者が、それでもサッカーに戻った理由

このエントリーをはてなブックマークに追加

最終ラインで体を張った守備を期待される古城暁博(左)

 2度目のW杯を主将として迎える古城暁博は、宮古島に住んでいた5歳の頃、交通事故により、右足の膝から下を失った。

「現場で倒れていたことはうっすら覚えていますが、気づいたときは病院でした。みなさんの一般的な基準は、両足があることかもしれませんが、私にとっては義足です。ですから、足を失った絶望感とか、落ち込みというのは、実はないんです」

 小学3年生だった1993年にJリーグが開幕し、友達からも「お前も一緒にやろうぜ」と誘われてサッカーをはじめた。

「実際義足では、横の揺さぶりにも弱いし、追いつけない……。めげましたけど、たまに一泡吹かせるプレーがあって、その一瞬の快感みたいなものがあったから続けてこられました。」

 サッカーをはじめて数年経った頃、劣等感を持つような環境に自ら飛び込んだ古城を心配した親戚から、サッカーを諦めて勉強に専念することを勧められたことがある。

「『なぜ楽しむことがいけないのか』『スポーツやっちゃいけないのか』という思いが募ったので、母に『どうしてやめないといけないんだ。続けちゃいけないの?』と聞いたんです。すると母が『好きにしていいよ』と言ってくれて、サッカーを続けることができたんです」

 千葉に引っ越した後に進んだ高校で、サッカーのオフのトレーニングを目的に、陸上競技を開始。そこで思わぬ才能が開花する。1年経過した頃、100Mで当時の日本記録を樹立。2000年のシドニーパラリンピックにも出場し、本番直前に脛骨を疲労骨折したにも関わらず、8位入賞を果たした。

「陸上をはじめたからサッカーをやめるという気持ちは一切なくて、陸上の練習はサッカー部の練習が終わった後にやっていました。サッカーをはじめた頃、障がいを持っていることを特別視しない仲間に恵まれたことで、義足でもサッカーに夢中になれた。そんな仲間を生み出すサッカーから離れられなかったんです」

 日本代表の主将までのぼりつめた古城は熱い使命感を胸にしまい、決戦に向かう。

「海外の選手は、個々の体力では私たちより上。目標とするベスト4は簡単ではないかもしれないが、組織力を発揮すれば決して手に届かない場所ではないと思っています。大会後には、海外から『日本と試合をしたい』と言ってもらえる状況にしたいです」。

(取材・文 林健太郎)

●障がい者サッカー特集ページ 

TOP