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立ち上げ時は主将…藺藤子龍、法政大日本一を学生コーチとして支える

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昨年はピッチでインカレ準優勝を経験した藺藤子龍。今年は学生コーチとして42年ぶりの日本一に輝いた

[12.22 インカレ決勝 法政大1-0駒澤大 駒場]

 42年ぶりの日本一に輝いた法政大の表彰式。人目をはばからず大泣きするジャージーを着た男の姿があった。藺藤子龍(いとう・しりゅう、4年=横浜FCユース)。彼は今季の新チーム立ち上げを、主将という立場で迎えた人物だった。

 法政大は昨年の総理大臣杯を35年ぶりに優勝。同年冬のインカレでは決勝でOBの中野雄二監督率いる流通経済大に敗れたものの、古豪復活を印象づけた。前評判が高い中で迎えた新シーズン。藺藤キャプテンのもとで、大学3冠を現実的な目標に掲げて始動した。

 藺藤は昨季のインカレ決勝でも、途中から起用されるほどの選手で、プレーヤーとしても主力級の活躍が期待されていた。しかし、気合十分で臨んでいた藺藤のひざと腰が悲鳴をあげた。ランニングメニューすら消化できない日々。4月にリーグ戦が開幕したが、応援スタンドで仲間に声援を送るだけの生活を過ごした。

 5月。そんな藺藤に声をかけたのが、長山一也監督だった。「コーチをやってみないか」――。指揮官は当初から藺藤のコーチとしての資質に目をつけていたのだという。



 監督の提案は嬉しかった。プロを目指して法大の門を叩いたが、徐々に見えてきていた現実。そのタイミングで負った怪我。試合を観戦していても、ライバルであった同期の仲間を嫉妬するのではなく、純粋に応援している自分がいることに気付いた。「アスリートとはもう違うんだなという気持ちになった」。決意はすぐに固まった。

 しかし仲間には当初、反対された。現4年生は、長山監督になって初めてスカウトされた世代。例年より少ない9人という少数精鋭だったこともあり、団結力が強かった。一人ひとりの役割分担も多くあり、9人だったからここまでやってこれたという自負がみんなにあった。ただ、藺藤の意思は固かった。仲間はその熱意に押される形で承諾。主務だったDF黒崎隼人(4年=栃木ユース)と役割を交換。藺藤は主務と学生コーチを兼任する立場になった。

 黒崎は当時を回顧する。「僕たちがサッカーを辞めさせてしまうということが辛かった。それでも彼の決心は受け止めないといけないと思った。彼の決心を聞いたことで、自分がこれから主将としての決意を固めないといけないと思ったんです」。



 5月30日の関東リーグ第7節の早稲田大戦から学生コーチとしてベンチ入り。最初は探り探りの面もあったが、遠慮することなく、3年間、気になっていたことを指摘し続けた。試合ではどんどん前に出て声を出すようになった。楽しい。やりがいは日に日に増していった。

 3冠という大目標は達成できなかったが、最後のタイトルであるインカレを優勝。母校に42年ぶりの日本一の栄冠をもたらした。「この4年生だったから…」。藺藤は涙の理由を語る。

「この4年生だったからここまで来れたのかな、と。学生コーチという立場も、この4年生じゃなかったら、やりがいを感じず、彷徨っていたんじゃないかなと思う。そういう意味でも感謝しかないです」



 卒業後は、“古巣”である横浜FCのオフィシャルパートナーで胸部のユニフォームスポンサーを務める株式会社LEOCに入社する。JFL参入を目指して立ち上がるサッカー部に関わる予定だ。ただしこの1年の経験が藺藤の夢の選択肢を広げた。「将来的にここの指導者になってみたい」。自分の可能性に手ごたえを感じた1年。大学日本一の称号が確信に変えている。 

(取材・文 児玉幸洋)
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