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ドイツ挑戦のデフサッカー日本代表・林滉大の恩師が明かす「奇跡の再会」と「代表外し事件」

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泣きじゃくる林滉大を慰める中山剛監督

 ドイツ挑戦を表明したデフサッカー日本代表の林滉大を語るうえで、男子U-23日本代表・中山剛監督の存在抜きには語れない。恩師がいきさつを明かす。

「私が去年の6月にドイツやポーランドに視察に行った後、林君から『海外に行きたい』という相談がありました。日本では、デフのサッカー選手に対して『耳の聞こえない障がい者がサッカーをプレーする』と見ますが、ドイツでは日本のJ2、J3あたりに相当するクラブでプレーするデフの選手もいて、サッカー選手がたまたま耳が聞こえない、という見方です。林君はその辺の意識の違いも肌で感じて、日本に還元したいと考えていると思います」

 林は高校時代、サッカーの試合で結果を残しても障がいを理由に起用してもらえない憂き目にあい、卒業したらサッカーをやめるつもりだった。卒業を控えた2014年2月に声をかけたのが、当時日本代表を率いた中山監督。そのプロセスをたどると、いろんな偶然が重なっていた。

「2006年の7月、私が指導するクラブの中に聴覚障害を抱えた選手が入団してきて、デフサッカーのサポートをお願いされて初めて関東で開催されたデフ日本代表合宿に行きました。するとそこに、お母さんと一緒に来ていた林君がいました。お互い全く別の目的で来ていていたんです。当時小学生の林君が代表選手とボールを蹴っている姿を見て『うまいな』と印象に残っていて、名前も頭の片隅に残っていた。その後は接点がなかったんですが、2013年に私が男子の日本代表監督になり、2017年のデフリンピックに備えて候補選手を集めようとしていた2014年、林君の名前が再びあがってきた。年齢を確認すると、あの合宿で会った林君でした。もし、たまたま会っていなかったら、声をかけるところまでいったかどうかはわかりません」

 代表候補合宿での林の動きは良く、ゴールへの意欲が優れ、自信に満ちていた。

「今でこそ、日々ひたむきに努力をして周囲にも気を配れる子になりましたが、当時の人間性は今とは180度違いました。下手な選手のことを見下すような態度をとることがあったんです。たとえばチームみんなで荷物を運ぶときも、こちらが見ているときはやるけど、目を離すと自分より下手な選手に『持っておけ』とポンと渡してしまうような選手でした。林君の高校時代のつらい経験を後から聞いたのですが、人より優位に立つことによる安心感みたいなものが欲しかったのかもしれない。つらい経験によって芽生えた人に対する警戒心が、そういう態度につながっていた気がします」


 中山監督は自分からは明かさないが、別の関係者によると、林はSNSを使って監督批判をしたこともあったという。中山監督が続ける。

「とにかく他の選手に対する態度を改めてほしかったので、いろんなやり方で注意しました。でも、なかなか変わらなかった。そこで2015年10月、デフリンピックのアジア予選(台湾)の最終メンバーまで残っていましたし、背番号も『8』で決めていましたが、直前でメンバーから外して連れていきませんでした。(林は)かなりショックだったと思います。でも本当に自分で気づかないと、彼本人のためにならないと思ったんです」

 アジア予選で準優勝した後、中山監督は林と仲のいい友人や同期の代表選手などに「いつでも待っているから、と言うといてな」と話をして、林に間接的にメッセージを送っていた。しかし、林の態度は改まらなかった。大会で会うと髪の毛は黄色っぽく変わり、中山監督が近づいていくと目を逸らす態度をとった。翌2016年6月、ワールドカップ(イタリア)に招集したかったが、それもできなかった。

 転機はW杯の約半年後に行われた2016年11月の全国大会。中山監督は「この大会でも態度が変わらなかったら、2017年のデフリンピックの代表にも入れない」と心の中では決めていた。視察に行くと、坊主頭にした林が自ら挨拶に来たのだ。

「めちゃくちゃ、うれしかったです。泣きそうになりましたよ。顔つきも目つきも全然違った。これで内心、『やっと世界大会で戦える、最後のピースがはまった』と感じた。本人には『ずっと待っていたぞ』と伝えました」

中山監督の左隣が林。紆余曲折を経て絆が深まった

 日本は出場したデフリンピックの過去3大会は1度も勝ったことがなかった。4大会目となった2017年5月、改心した林は体のキレ、チームの勝利への意欲を誰よりも高めて挑み、予選リーグ初戦で、その大会準優勝に輝いたウクライナを2-1で撃破する金星に貢献。2戦目のアルゼンチンには2点リードされながら引き分けに持ち込み、3戦目のイタリア戦に、引き分けでも初めて予選リーグ突破ができる快挙がかかっていた。

「イタリア戦で林君は先制ゴールをあげ、2-0とリードしたんですが、試合終了間際に同点に追いつかれ、ロスタイムに逆転されました。彼はチャンスをたくさん作ったのに決めきれなかった責任を感じ、試合後、人目をはばからずベンチで30分ぐらい泣いていたんです。『ごめんなさい』と。だから試合に負けたのは、本当に悔しかった。でも彼がここで泣けたということに関しては、実はうれしかったんです。こう感じることができるようになったんだ、と。泣けることによってもっと成長できると」

 林の挑戦について、日本障がい者サッカー連盟の北澤豪会長はこうエールを送る。

「素晴らしいことだと思います。何事にもできるタイミング、チャンス、というものがある。それを逃さずにやるべきです。むこうでクラブが決まればもちろんですが、万が一決まらなかったとしても価値がある。誰かが前例を作らないとね。これで(障がい者でも)海外クラブに挑戦できる、というきっかけを作れますね」

 悔し涙をうれし涙に変えるために下した人生の大きな決断。サッカー大国で、無名の日本人が新しい道を作る林の「旅」がまもなくはじまる。

(取材・文 林健太郎)

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