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ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜、W杯日韓共催…今、明かされる平成サッカー史の舞台裏

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「ドーハの悲劇」は1993(平成5)年の出来事だった

 日本サッカーのプロ化の動きは、まさに「平成」の時代とともに本格化した。1993(平成5)年にJリーグが誕生。同年秋には「ドーハの悲劇」によりW杯出場をあと一歩のところで逃すが、1996(平成8)年のアトランタ五輪でブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こし、1997(平成9)年には「ジョホールバルの歓喜」で悲願のW杯初出場を決めた。

 初のW杯出場となった1998(平成10)年のフランスW杯。翌1999(平成11)年にはU-20世界ユース選手権(現U-20W杯)で準優勝の快挙を成し遂げ、その黄金世代が2000(平成12)年のシドニー五輪でベスト8、2002(平成14)年の日韓W杯で初のベスト16進出を果たした。2011(平成23)年にはなでしこジャパンが女子W杯で初優勝。2012(平成24)年のロンドン五輪では男子が44年ぶりのベスト4進出を果たし、女子は初のメダルとなる銀メダルを獲得した。W杯には2018(平成30)年のロシアW杯まで6大会連続出場。まだアマチュアだった平成当初は夢のまた夢だったW杯に当たり前のように出場し、アジアでは勝って当然と思われるまでに日本サッカーは平成とともに成長してきた。

 そうした平成の日本サッカーを振り返り、知られざるストーリーを描いた『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』(小倉純二著、講談社刊)が4月13日に発売された。著者は第12代日本サッカー協会(JFA)会長であり、現在はJFA最高顧問の小倉純二氏(80)。1994(平成6)年から2011(平成23)年までアジアサッカー連盟(AFC)理事、2002(平成14)年から2011(平成23)年まで国際サッカー連盟(FIFA)理事、2010(平成22)年から2012(平成24)年までJFA会長を歴任し、日本サッカーのプロ化、国際化を牽引してきた。Jリーグ発足の礎を築き、2002(平成14)年W杯の日本招致(韓国との共催)を実現した立役者がその舞台裏を今、解き明かす――。

「ドーハの悲劇」を経て…
アジア予選 セントラル方式からの転換

インタビューに応じる日本サッカー協会最高顧問の小倉純二氏

“ フランス大会の最終予選をホーム・アンド・アウェー方式にすることは、すんなり決まったわけではない。
(中略)
 1次リーグ突破のめどが立ったころ、監督の加茂周さんとコーチの岡田武史に「最終予選はどういう形でやりたいか?」と尋ねた。AFCは前回の米国大会最終予選と同じく、どこか一ヵ所に集まって一気に片をつける「セントラル方式」を最優先に考えている、という情報をつかんでいた。
 加茂監督の答えは「もう中東でやるのは嫌ですね」だった。どの国に行くにしても日本からは長旅になるし、時差もある。気候条件も日本の選手に合っていないと。前年、アラブ首長国連邦(UAE)で行われたアジアカップで連覇を狙った日本はベスト8でクウェートに0-2で敗れた。その苦い記憶も多少は影響したのかもしれない。加茂監督はセントラル方式でやるのなら「東南アジアのほうが断然いい」と希望した。岡田コーチは「香港なんかどうですか?」と意見を添えた。
(中略)
 ところが、日本を発つ前にFIFA本部にいる友人からとんでもない情報がもたらされた。サウジのアルダバルというAFCコンペティション委員会の委員長が「アジアの最終予選はバーレーンでやる」と触れ回っているというのだ。私は同委員会の副委員長であり、委員長の意見を否定するのは難しい関係にあったが、さすがに黙っているわけにはいかなかった。
 怒った私は、ただちに韓国と中国の協会関係者に電話して「ともかくこれは問題だ」と訴えた。「バーレーン開催なんて、われわれに不利に決まっている」と。この闘いに勝つには東アジアだけでは数が足りない。ウズベキスタンとカザフスタンも仲間にすべく連絡を取った。「あんな暑い国で戦わされたら、おたくらも死ぬぞ」と。
 韓国と中国はすぐに同一歩調を取ることを約束してくれた。「この件はミスター・オグラに任せます」と。ウズベキスタンは私への賛同を書面にまとめてくれた。カザフスタンも味方についてこれで5票。会議の前の晩にチューリッヒに着いた私は韓国、中国、ウズベク、カザフの代表者を集め、連判状のような形式で「アジアの最終予選はAFCの本拠地があるマレーシアで」という最終案をしたためた。それを翌日の会議の前にワールドカップ組織委員会に提出したのだった。
 会議の冒頭、委員会のヘッドであるレナート・ヨハンソン委員長(当時)が「私は昨日、オグラからこういう提案をアジアの総意としてもらっている。異議はありますか」と出席者に問うた。するとサウジのアルダバルが「そんなのは総意でも何でもない」と猛然と反論した。向こうはアルダバルの下でまとまり、西アジア勢も5票だから多数決を採るとまったくの五分。完全に両すくみの状態だった。
 私とアルダバルのやり合いは延々、平行線のまま、どちらも折れる気配はみじんも見せない。埒が明かない議論に頭に来たのがヨハンソン委員長だった。
「君らはいつも『アジアは他の大陸連盟と違って皆、仲がいい』と言っているが、実際は全然違うじゃないか」とテーブルを叩かんばかりに怒った。そして「もう、おれは帰る。この議論はここで終わり。最終予選はバーレーンでもマレーシアでもなく、完全ホーム・アンド・アウェーでやってもらう。これが予選本来の形なのだ」と結論を出したのだった。”

(『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』第四章 1998年 フランスW杯予選の舞台裏より)

―今では当たり前になったW杯アジア予選のホーム&アウェー方式ですが、1998年フランスW杯の最終予選から初めてそれまでのセントラル方式に代わって採用されました。それだけアジアのサッカーは欧州などに比べて遅れていたということなのでしょうか。
小倉 当時のアジアはお金持ちの国とそうでない国が極端に分かれていて、お金のない国にしてみればセントラル方式のほうが楽なんですね。招待してもらえますし、短期決戦で終わるので、何度も何度も遠征する必要がない。でも、本来はそうじゃない。FIFAのルールは原則としてホーム&アウェー方式ですし、欧州も南米も当然、ホーム&アウェー方式でしたが、アジアだけが違ったんですね。貧富の差が激しかったということも影響していたと思います。

―フランスW杯のアジア最終予選も当初はセントラル方式を想定していて、西アジア勢はバーレーン開催、東アジア勢はマレーシア開催を主張し、どちらも折れなかった。その結果、ホーム&アウェー方式が誕生したというのは面白いですね。
小倉 マレーシアでやりたいという日本の主張に対して、もしもサウジアラビアがオーケーと言っていたら、それで済んだ話だったんですね。もしそうなっていたらホーム&アウェー方式ではなく、セントラル方式で行われていたと思います。しかし、向こうはバーレーンを主張して、日本の主張とは差があり過ぎました。

あと一歩のところでW杯出場を逃した「ドーハの悲劇」

―日本がマレーシア開催を主張したのは、セントラル方式だった1993年のアメリカW杯最終予選の経験があったからでしょうか。中東のカタールで開催され、いわゆる「ドーハの悲劇」により、あと一歩のところでW杯出場を逃しました。
小倉 当時のオフト監督は東南アジアのこともよく知っていて、逆に東南アジアのほうが中東よりもグラウンドの状態が良くないと思っていたんですね。欧州の人間からすると、中東は地理的にも欧州に近いというのもあったのかもしれません。サッカーの環境としては東南アジアより整っていると考えていたんだろうと思います。しかし、あの暑さの中で、しかも短期間の連戦で明らかに日本選手は疲弊していきました。フランスW杯予選の途中で当時の加茂監督に「最終予選がセントラル方式になるならどこでやりたいか」と聞いたら「マレーシアでやりたい」と。それがサウジアラビアの主張とぶつかって、ヨハンソン委員長を怒らせたというのが実情です。でも、今となれば、それで良かったなと。今ではアジアのどの国もホームゲームを重要視するようになりました。日本だけでなく、中国でも韓国でもサウジアラビアでも、ホームゲームにたくさんのファンが押し寄せ、サッカーがどんどん盛り上がっていくようになった。偶然の産物とはいえ、これはアジアのサッカーにとって大きな変化でした。

「ジョホールバルの歓喜」
意外な開催地決定までの舞台裏

岡野雅行のゴールデンゴールで初のW杯出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」

“ 先に仕掛けてきたのはアルダバルだった。FIFAがAFCの意向を「どうする?」と問い合わせたところ、コンペティション委員長のアルダバルがまたも「場所はバーレーン」と言い出したのだった。そしてそのことを私には内緒にしていた。
 最終予選の方式を巡ってアルダバルと私が激しく対立したことを覚えていたFIFAは私に「アルダバルがこんなことを言っているが、これはオグラも了解していることなのか」と問い合わせてきた。「知らないよ! そんなこと!」と私はまたまた怒り心頭。すぐにチューリッヒに飛んでFIFAのブラッター会長に直談判に及んだ。
「第3代表決定戦の相手がサウジ、イランのどちらになるにしろ、バーレーン開催はあり得ない、移動のハンディが違いすぎる。やるなら、3ヵ国の中間に位置するマレーシアしかあり得ない!」
 するとブラッター会長は「それは、オマエの言うことがもっともだ」と認めてくれて「じゃあ、場所決めはオマエに任せるよ」とまで、その場で言ってくれた。
 私はFIFAからすぐにマレーシアサッカー協会のポールモニー専務理事に電話をかけた。こういうとき、電話でも頼める仲間がいるというのはありがたいことだ。そういう関係を普段から築いておくことが大切ともいえる。
 喜び勇んで「クアラルンプールで第3代表決定戦をやらせてくれ」と頼んだら、ポールモニーは「うーん、それは無理かもしれない」と意外なことを言う。第3代表決定戦の日付は11月16日と決まっていたが、「その日はマレーシアカップがある日だから、空いているスタジアムがない」と。クアラルンプールなら幾らでもスタジアムはあると思っていたが、マレーシア国内の日程まではこちらは把握していなかった。
 ポールモニーは「第3代表決定戦の日程を1日前か後にずらしたらどうか。それならクアラルンプールでやれるよ」と言ってくれたが、もう11月16日とアナウンスしている以上、その日付を変えられないというのがFIFAの考えだった。それで、もう一回、ポールモニーに電話して「どこか本当に空いてないか?」と尋ねたら「あそこが空いている」と推薦してくれたのがジョホールバルだった。”

(『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』第四章 1998年 フランスW杯予選の舞台裏より)

―フランスW杯予選ではアジア第3代表決定戦の開催地がマレーシアのジョホールバルに決まったのも偶然の産物でした。当時のアジア枠は3.5。アジア最終予選は5チームずつの2グループに分かれていて、日本はB組の2位で第3代表決定戦に回ることになりました。
小倉 A組はイランと競っていたサウジアラビアが1位、日本のいたB組は韓国が1位で抜けて、第3代表決定戦で対戦するのはイランと日本でした。これも偶然と言えば偶然で、僕はマレーシアのクアラルンプールでやりたいと思って一生懸命電話したけれど、その日にマレーシアカップがあってクアラルンプールのスタジアムはどこも空いていなかった。ところが、マレーシアカップで先週負けたチームのスタジアムが空いているよと。それがジョホールバルでした。イランの会長にも電話しましたが、「マレーシアに行くのは問題ない」と。むしろ「バーレーンより全然いい」とまで言ってくれました。あとになって分かったことですが、これには宗教上の問題も関係していたのかもしれません。同じイスラム教でもサウジアラビアはスンニ派が多く、イランはシーア派の国。バーレーンは数の上では少数派のスンニ派が国の実権を握っていて、イランとは決して良好な関係ではなかったらしいんですね。

―そうして決まったジョホールバルで日本は初のW杯出場を決め、「ジョホールバルの歓喜」としてサッカーファンならだれもが知っている地名になりました。
小倉 すごくいい試合で、最後はゴールデンゴールで決着したんですが、イランの選手はゴールデンゴール方式に慣れていなかったんでしょうね。試合前に説明したとは言っていましたが、選手にうまく伝わっていなかったんだと思います。岡野選手のゴールが入ったとき、イランの選手はボールを取りに行って、センターサークルに置いて試合を続けようとしていたんです。僕はスタンドで試合を見ていましたが、ビックリしてすぐに下りていって、マッチコミッショナーを探したら、彼も気づいていてピッチに向かって「もうおしまいだよ」と。イランの選手はまだ残り時間があると思っていたんだと思います。翌朝、起きてビックリしたのは、隣のホテルに泊まっていたイランチームがもう練習をやっていたことです。第3代表決定戦に敗れたイランは1週間後に大陸間プレーオフが待っていました。ホーム&アウェー方式でオーストラリアと対戦し、イランが最後の切符をつかみました。

2002年W杯招致
降って湧いた日韓共催案

2002(平成14)年の日韓W杯。ロシア戦のスターティングメンバー

“ 妥協の産物としてひねり出されたのが共催だった。
 2002年大会の開催国を決める理事会の投票は96年6月1日にチューリッヒのFIFA本部で行われるはずだった。が、その前日の5月31日に無投票で共催は決まった。30日正午まで本当に予想だにしないことだった。
(中略)
 共催はそもそもFIFAの規約のどこにもない、ある意味で超法規的措置だった。アベランジェ会長が土壇場になれば豪腕を振るい、そういう横紙破りの提案は葬り去ってくれるとの期待をわれわれは持っていた。
 そういう自信が崩れたのが30日午後2時過ぎに、日本の招致団が泊まっていたホテルにかかってきた1本の電話からだった。岡野俊一郎さんにFIFAのブラッター事務局長から電話があり、「韓国から共催に同意するレターをもらった。日本はどうする?」と聞かれたのだ。
 招致団は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。”

(『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』第五章 2002年 日韓ワールドカップ開催より)

―著書では2002年W杯招致に関しても、日韓共催がいかにして決まったか詳細に書かれています。
小倉 我々がもらっていたW杯の趣意書には「一つの国の国境の範囲内」と書いてありました。「国境の中で行われる大会」だと。当時のアベランジェ会長にも何度も確認し、「書いてありますよね」と念を押しました。FIFAからは「これを曲げることはない」とも言われていた。ところが、6選を果たしたアベランジェ会長に対する反発は欧州を中心に広がり、2002年の招致合戦もFIFA内部の権力闘争に巻き込まれていました。UEFAのヨハンソン会長を中心とする反アベランジェ陣営からすれば、アベランジェ会長という後ろ盾を得て立候補した日本に勝たせるわけにはいかないとなり、妥協の産物として共催案が降って湧いたのです。

―W杯として初めての共催でしたが、2026年はすでにアメリカ、カナダ、メキシコの3か国共催が決まっています。さらに2022年のカタールW杯も出場国数を拡大し、近隣のオマーン、クウェートなどとの共催まで検討されています。大会がこれだけの規模になると、単独で開催できる国はほとんどないと考えたほうがいいのでしょうか。
小倉 ASEAN(東南アジア諸国連合)での共催というのも可能性として挙げられていますし、韓国の文在寅大統領は昨年のロシアW杯でFIFAのインファンティノ会長に日本、中国、韓国、北朝鮮の4か国共催を提案したとも言われています。オーストラリアも単独では難しいとなれば、ニュージーランドなど周辺諸国との共催を検討するかもしれません。単独でW杯を開催できるのは中国。あるいはインドが今後さらに経済的に発展し、サッカーがクリケット以上に盛んなスポーツとなってくれば、可能性がないとは言えません。単独開催できるとすれば、その2つしかない。出場国数が32か国から48か国に増えると、試合数も64試合から80試合に増えます。ドイツやスペインなど欧州の国であっても、周りの国の協力がない限り、1か月で80試合を消化するのは難しいのではないでしょうか。

―FIFAとしてはW杯の拡大は既定路線だったのでしょうか。
小倉 今のインファンティノ会長になってからはそういう方向性ですね。FIFAに加盟している国と地域は211。そのうちの48チームと考えれば、十分に現実的な大会だと現在の執行部は考えているのでしょう。UEFAは加盟55協会で、欧州選手権(EURO)には2016年大会から24か国が出場しています。もちろん、参加国が増えることによって大会の質が下がるのではないかという議論もあります。アジアカップも2019年大会から出場国が16から24に増え、当初はそうした懸念の声もありましたが、終わってみればベトナムやタイ、キルギスの躍進、健闘が際立つ大会となりました。ですから出場国を増やすことが一概に悪いことだとは言い切れない。全体の底上げ、レベルアップにつながるという見方もできるはずです。

 いずれにせよ、FIFAには本当の意味で世界規模の大会というのはW杯しかありません。一方でUEFAには欧州選手権もUEFAチャンピオンズリーグもあります。ナショナルチームとクラブチームでそれぞれ世界最高峰の大会があるんです。すでにFIFAは十分すぎる収入を得ていると思いますが、UEFAと比較すると、そういう側面もある。なのでW杯だけでなく、クラブW杯も2021年から拡大し、24チームが参加することを今年3月の評議会で承認しましたが、これには欧州のクラブが公然と反対しています。FIFAからすれば、まずはW杯を、というところでしょう。

FIFA会長も興奮して叫んだ
なでしこジャパンのW杯優勝

2011(平成23)年の女子W杯でなでしこジャパンが世界一に輝いた

“ 米国対なでしこの決勝戦、ブラッター会長は私を前の席に座らせた。そして「今日はいけるぞ」「日本が勝つよ」と私にささやく。ところが、試合は立ち上がりから米国ペース。すると会長は「準決勝の日本と全然違う。どうなっているんだ!」とまたまたおかんむり。ところが、25分くらいから日本のエンジンが掛かり出すと途端に機嫌が良くなり、隣にアベランジェ前会長がいてもお構いなしに「GO! GO!」と騒ぎだした。
 そんな調子だから、最後にPK戦で優勝が決まったときは「今日はオグラの日だ」と抱きつかんばかりに喜んだ。他の理事たちも「カップはオグラが渡せばいい」などと口にしては祝福してくれた。
 驚いたのは後日、米国のニューヨーク・タイムズやワシントン・ポスト1面にまで、なでしこの勝利をたたえる記事が載ったことだ。知り合いの外務省のお役人も「すごいことですよ。日本の首相が訪米しても、こんな扱いされませんよ」と連絡してくれた。
 試合の中身が素晴らしかった。米国とのファイナルも含めて、佐々木則夫監督に率いられた選手たちは、クレバーなサッカーをやり続けた。それまでの女子サッカーの標準だったパワーとスピードの世界に「巧緻性」を持ち込んだというか。前年の男子のW杯南アフリカ大会でスペインが悲願の優勝を遂げた後だったこともあり、なでしこのスタイルは「女性版スペインのようであり、バルセロナのようだ」とたたえられた。北京五輪で悔しがっていたブラッター会長は「女子サッカーに革命を起こした」とまで言ってくれた。”

(『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』第六章 2011年 女子W杯ドイツ大会なでしこ優勝より)

―日本は2050年までにもう一度W杯を開催することを目指していますが、単独ではなく、共催も考えていかないといけないんでしょうか。
小倉 考えないとダメなんだろうなと思いますね。しかし、現在のように日韓関係が冷え込んでいる状況では不可能でしょう。北朝鮮も同じです。そう簡単にはいかないし、今後相当に考えていく必要があると思います。2050年なんて遠い先のようで、あっという間に来る。なかなか男子のW杯招致は難しいかもしれませんが、女子W杯の開催は2050年までに実現できると思いますし、実現しなければいけないと思います。

―日本は2023年に行われる女子W杯の開催国に立候補していますが、日本のほか、アルゼンチン、オーストラリア、ボリビア、ブラジル、コロンビア、韓国、ニュージーランド、南アフリカと過去最多の9か国が開催意思を表明しています。開催地は来年3月に決まりますが、激戦になりそうですね。
小倉 最大のライバルは韓国でしょう。韓国の提案書は北朝鮮との共同開催の可能性にも触れています。その点がどう受け止められるか。女子W杯は第1回大会と第5回大会が中国開催で、直近の3大会は欧州と北米。そろそろアジアに戻ってきてもいいと思いますし、立候補している中で唯一、チャンピオンになったことのある国が日本なんです。

今秋にも始まるカタールW杯予選
3か国共催ならアジア枠はどうなる?

森保ジャパンの世代交代を象徴するMF堂安律、MF南野拓実、MF中島翔哉の“三銃士”

“ 日本代表が勝つために、ピッチの外で貢献できたことの一つに年齢詐称との闘いがある。アンダーエージの世界大会にFIFAもUEFAも力を入れているのに、日本はなかなか出場できない。なぜ? 日本の弱さに原因もあったが、端的に相手の年齢詐称にやられるケースもあった。
 アンダーエージのアジア選手権は各国の選手団が一つのホテルに呉越同舟で泊まる。そうすると16歳以下、19歳以下の大会なのに、どうみても「おっさん」にしか見えない選手がいる。
 日本の監督や選手から「ホテルでご飯を食べていたら中東の選手に子供が何人も写っている写真を見せられた」と報告を受けたりした。ある大会で泣いて訴える選手に当時、U-16代表の監督だった田嶋幸三(現JFA会長)は「生きていく上で世の中には不条理なことがたくさんある。ここは我慢しろ」と諭すしかなかったそうだ。
 さすがにこれは看過できない。それでアジアサッカー連盟(AFC)の中で議論を重ねていたところ、マレーシアの裁判所がレントゲン検査で成人かどうかを判断しているという話を聞かされた。最初はその線で行こうとしたが、FIFAに持ち込んだら健常者にレントゲン検査をするのは米国や欧州が絶対に納得しないと却下された。そこから選手の骨年齢をMRIで測定し、年齢詐称を見抜く検査を導入するようにした。今ではアンダーエージのFIFAのあらゆる大会に採用されている。「宗教的にそのような検査は受けられない」と反対する国もあったが、ゲームの公正さを保つためだと押し切った。アンダーエージの大会で日本がアジアの壁を越えられるようになったのは、この検査導入の後である。”

(『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』第八章 黒いワールドカップ FIFAスキャンダルより)

―2022年のカタールW杯の出場国数は6月にも決まり、今年の秋にはアジア予選が始まると見られています。
小倉 もしも出場国が48か国に増え、試合数が64から80に拡大すれば、おそらく増えた分の16試合はカタール以外の国でやることになるでしょう。それがオマーン、クウェートなのかは分かりませんが、仮にアジアからの出場枠を「8.5」もらえたとして、3か国に開催国枠として出場権が与えられたらアジアの枠は「5.5」になる。共催が3か国ではなく、4か国、5か国だったら? ロシアW杯のアジア枠は「4.5」でしたが、そうなった場合、予選突破が楽になるどころか、より厳しくなります。

―アジアカップを見ても、アジア全体の成長は見逃せません。森保ジャパンにとってアジア予選は決して簡単な戦いにはならなそうですね。
小倉 東南アジアも中東もレベルが上がっています。でも、森保ジャパンを見ていると、若くて新しい選手が出てきたのは日本にとって非常にいいことだと思います。欧州でプレーする若い選手も増えましたし、Jリーグでもどんどん若い選手が育ってきています。その成果が森保ジャパンにつながっていけば、面白いチームが出来上がるのではないかと期待しています。先日のボリビア戦にしても、後半途中から中島翔哉選手、堂安律選手、南野拓実選手の3人が出てきて流れが変わりましたよね。旧態依然としたサッカーではなく、どんどん新しい選手が出てきて、どんどん新しいサッカーができるようになれば、日本はもっともっと成長して強くなれると思います。トルシエ監督のときも1999年のU-20世界ユース選手権で準優勝して、当時の若い選手たちがその後もシドニー五輪、日韓W杯で主力を担いました。森保監督はトルシエ監督以来の兼任監督ですから、同じようなことが起こるかもしれませんね。今年のU-20W杯、来年の東京五輪で活躍した選手がその後のA代表で中心となっていく。「令和」の時代にはそんな日本代表を見ていきたいですね。

(取材・構成 西山紘平)

<書籍概要>
■書名:「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた
■著者:小倉純二
■発行日:2019年4月13日(土)
■判型:新書版・288ページ
■価格:920円(税別)
■発行元:講談社
■購入はこちら
▼目次
まえがき 平成とサッカー
第一章 平成の大事業 プロリーグを作る
第二章 平成前史「昭和サッカー」覚え書き
第三章 1993年 Jリーグ開幕とドーハの悲劇
第四章 1998年 仏W杯予選の舞台裏
第五章 2002年 日韓ワールドカップ開催
第六章 2011年 女子W杯ドイツ大会なでしこ優勝
第七章 社会インフラとしてのサッカー
第八章 黒いワールドカップ FIFAスキャンダル
第九章 平成サッカー人からの遺言状
あとがき
年表 日本サッカー平成時代の歩み

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