ブラサカ協会元副理事長・石井宏幸さんが急死。アジア選手権準決勝に挑む日本代表は喪章をつけて出陣へ
日本ブラインドサッカー協会は3日、元日本代表の石井宏幸さんが事故で亡くなったことを発表した。享年47。2日夜、新宿駅で電車と接触して死亡した男性が石井さんだった。警視庁新宿署が当時の状況を調べている段階で、正確な事故の原因、詳細はまだわかっていない。
ブラインドサッカーは2001年9月、「視覚障がい者の文化を育てる会」を中心とした視察団が韓国に向かったことをきっかけに国内の普及がはじまり、2002年にソウルで行われた日本-韓国戦、8、9月に岐阜・高山や神戸で行われた日本、韓国、ベトナムによる「アジアフレンドリーカップ」を経て、協会が発足したが、28歳のときに病気により失明した石井さんは、その協会創立のメンバーのひとりだった。その後、同協会副理事長を2004年から約8年務め、クラブ日本一を決める「アクサ・ブレイブカップ」にあたる日本選手権を発足させるなど、ブラインドサッカーの普及に尽力した。2012年に協会を退いてからは、イベント企画及び運営や障がい者支援などを行う会社の代表取締役を務めており、視覚障がい者のホーム転落事故防止活動などにも従事していた。
石井さんとともに協会発足に尽力した松崎英吾・専務理事兼事務局長はアジア選手権のために滞在中のタイで悲報に触れた。
「協会業務にすごくエネルギッシュに向き合ってきた方です。彼なくして、今の協会はなかったと思う。日本選手権第1回の言い出しっぺで、何もないときに『旗』を立てた人でした。次の試合の見通しが立たない状況であっても、『代表活動は続けなければダメだ』といい続けていた。(石井さんが)辞める時もだいぶ引き留めたんですけど、彼は(楽器の)チェロを演奏する人で、辞められた後、チェロを学ぶためにドイツとボストンに留学しました。『ブラサカはもう任せるから、俺は音楽×視覚障害者で(新しい世界を)見せつけてやる』ぐらいの気持ちをお持ちだったんじゃないかな……」
日本のブラインドサッカーの礎をきづいた石井さんへの追悼の意を表すために、
5日にアジア選手権準決勝・中国戦に挑む日本代表は喪章をつけ、1分間の黙とうの後、試合にのぞむ。日本代表選手の多くは、この競技があったおかげで、失明の挫折から立ち直るなど、救われてきた側面がある。14年ぶりのアジア制覇が石井さんへの供養になり、恩返しにもなるはずだ。
(取材・文 林健太郎)
●ブラサカ/障がい者サッカー特集ページ
●日本障がい者サッカー連盟(JIFF)のページはこちら
ブラインドサッカーは2001年9月、「視覚障がい者の文化を育てる会」を中心とした視察団が韓国に向かったことをきっかけに国内の普及がはじまり、2002年にソウルで行われた日本-韓国戦、8、9月に岐阜・高山や神戸で行われた日本、韓国、ベトナムによる「アジアフレンドリーカップ」を経て、協会が発足したが、28歳のときに病気により失明した石井さんは、その協会創立のメンバーのひとりだった。その後、同協会副理事長を2004年から約8年務め、クラブ日本一を決める「アクサ・ブレイブカップ」にあたる日本選手権を発足させるなど、ブラインドサッカーの普及に尽力した。2012年に協会を退いてからは、イベント企画及び運営や障がい者支援などを行う会社の代表取締役を務めており、視覚障がい者のホーム転落事故防止活動などにも従事していた。
石井さんとともに協会発足に尽力した松崎英吾・専務理事兼事務局長はアジア選手権のために滞在中のタイで悲報に触れた。
「協会業務にすごくエネルギッシュに向き合ってきた方です。彼なくして、今の協会はなかったと思う。日本選手権第1回の言い出しっぺで、何もないときに『旗』を立てた人でした。次の試合の見通しが立たない状況であっても、『代表活動は続けなければダメだ』といい続けていた。(石井さんが)辞める時もだいぶ引き留めたんですけど、彼は(楽器の)チェロを演奏する人で、辞められた後、チェロを学ぶためにドイツとボストンに留学しました。『ブラサカはもう任せるから、俺は音楽×視覚障害者で(新しい世界を)見せつけてやる』ぐらいの気持ちをお持ちだったんじゃないかな……」
日本のブラインドサッカーの礎をきづいた石井さんへの追悼の意を表すために、
5日にアジア選手権準決勝・中国戦に挑む日本代表は喪章をつけ、1分間の黙とうの後、試合にのぞむ。日本代表選手の多くは、この競技があったおかげで、失明の挫折から立ち直るなど、救われてきた側面がある。14年ぶりのアジア制覇が石井さんへの供養になり、恩返しにもなるはずだ。
(取材・文 林健太郎)
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