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ソムリエになる夢が幻に。世界4強を狙う弱視のフットサル日本代表主将、岩田朋之の新たな夢

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前列左から4番目の選手が岩田朋之主将(提供:日本ブラインドサッカー協会)

 弱視クラスの人がプレーするロービジョンフットサルの日本代表が5日、世界選手権が行われるトルコに到着した。日本代表の岩田朋之主将は出発前、大会の意気込みをこう明かしていた。

「今回は史上初の2勝、ベスト4を目指します。自分にとっては4回目の国際大会ですが、今までで一番自然体で臨める。これまで、世界大会は(日本国内のシーズン中ではない)5月ごろに開かれていましたが、今回は国内のリーグ戦が終わった直後でコンディションがいい。それに、トルコに来られるまでにいろんな人に寄付してもらって、ステージに立てることだけで感謝、その思いを自然にもってプレーできますから」

 今大会は7カ国が総当たりで予選リーグを行い、その順位をもとに、順位決定戦を行う。通常、開かれても年1度の世界規模の大会が、今年は5月と12月に開かれる。今大会の開催は5月の大会後に急きょ決まり、協会内の予算は5月の分しか用意されていなかった。そこで急きょ、遠征費をどう捻出するか、協会内で協議。遠征費用600万円のうち、360万円は協会内で予算化できる目途がたったが、不足する240万円が不足することがわかり、寄付を募った。

岩田は昨年、ダスキンの障がい者リーダー育成事業に参加。その縁もあり、岩田たちの寄付活動を知って「ぜひ協力させててほしい」と募金箱を用意し、社内の全フロアを回る寄付活動のチャンスを設けてくれた。岩田やほかの選手たちの精力的な募金活動の甲斐あって、単発の寄付額だけで158万円以上が集まった。

 7年前の夏、26歳だった岩田は自分の目が悪くなり、人生の視界も一気に狭まった。遺伝性の視神経萎縮であるレーベル病を発症。当時、岩田は東京・赤坂にあるミシュランガイドに掲載されるレストランで仕事を通して接客を学びながら、ソムリエを目指していた。

「(目が悪くなって)真ん中が見えなくなった。文字や人の顔が見えないんです。なので接客業は難しい、となりまして……。夢は終わったな、と」

岩田が赤のカラーコーンを見た場合の見え方

 26歳といえば社会人になって3,4年目。岩田の友人の中には、車を買うものもいれば、結婚もして家のローン組む人もいた。でも、岩田は目が悪くなったことで、やれることの幅が一気に狭まってしまった。岩田が続ける。

「あまりにもできないことが増えすぎて、生き続けるのがしんどくて。自殺しようとも考えましたよ。あとは引きこもり、飲み歩きです。(接客を学んだレストランの)お店で修行させてもらって、そこでソムリエの資格をとれれば、そこで出会った同世代の人とお店を持てる、というプランもあったんですが、それも道半ばでできなくなりましたから」

 病気の原因が遺伝の影響だとわかり、自分だけでなく、弟も発症する可能性を医師から伝えられた。すると、両親、特に母がその現実にショックを受け、自分を責めた。岩田は気を付けていても防ぎようがなかった病気によってうろたえる家族を見て、逆に「自分で何とかするしかない」と覚悟が決まった。そして、治療法を求めて訪ね歩いた福岡にいるある医師の言葉によって、岩田は家族における、さらには社会における役割をはっきりと自覚した。

「(レーベル病の)予防法も治療薬も今はない。岩田君はたとえるなら交通事故にあったような状況です。でも、弟さんはいつ病気が発症するんだろう、いつ出るんだろう、とわかりやすく言えば、お化け屋敷にいるような心境じゃないかなと思う。その中で弟さんの『目印』になれるのは、お父さんでもお母さんでもなく、お兄ちゃんである君なんだよ」

 岩田は、目が悪くなる前からサッカー日本代表のサポーターをやっており、その縁で、当時ブラインドサッカー日本代表主将だった落合啓士を紹介してもらい、ブラサカの東日本リーグを初めて見た。「さあ、帰ろうかな」と思っていたときに「弱視のサッカーをやります」という場内アナウンスを聞いて、立ち止まった。

「病院で『弱視』と言われたばかりだったので、どんな人がサッカーするんだろうと思っていて見たら、普通のサッカー、フットサルだなと」

1日、東日本リーグ初優勝につながるゴールを決めた

 レストランの仕事は退職し、2013年4月に視覚障害がある人が通う筑波技術大学に進学。そこでロービジョンフットサルをはじめた。

 パラリンピックの正式種目でもあるブラインドサッカーの場合、国内ルールとして、岩田と同じような弱視の選手、そして晴眼の選手でも、アイマスクをすれば試合に出られる。でも岩田は一貫してロービジョンフットサルの道を選んできた。そこに、岩田の信念がにじんでいる。

「自分自身も(同じ境遇にある)子供たちの希望の光になりたいと思っています。ブラインドサッカーを初めて見たときに、(選手がサイドフェンスにぶつかる激しさなどを見て)アメフトとかラグビーにも見えた。僕は仕事をして社会復帰したかったので、サッカーでけがすることができないと考えました。自分のことだけでなく、同じ境遇にある子供たちを見渡しても、弱視の子は盲学校ではなく、一般学校にいることはほとんどです。たとえば、学校の昼休みに『目が悪いからブラインドサッカーをやろうか』とはならない。ありのままの見え方でサッカーをしたい、といえる環境を増やしていきたいんです。
 ただ、僕はブラインドサッカーと距離を置いているのではなく、むしろやっている選手をリスペクトしますよ。たとえば、僕はぼんやり見えているピッチを頭でイメージしながらプレーできるんですが、彼らはイメージできるものがない中で卓越したプレーができるわけですから」

 岩田は今、日本サッカー協会に勤務し、グラスルーツ推進グループにいる。日本障がい者サッカー連盟の人たちは仕事仲間だ。自分と同じように障がいがある人が、一度は死ぬことまで考えた岩田が地獄から這い上がった生き様を見て「もう少し頑張ってみよう」と考えられるきっかけになり、生き方のひとつの『目印』になればありがたい。そして、健常者がサッカーを楽しむのと同じような気持ちで、障がい者がサッカーに自然に親しめる環境を作りたい。そのために、ロービジョンフットサルの存在を広く知らしめるために、上位を狙う。時間もエネルギーも使うが、岩田は「社会を変える」という壮大なゴールに向かって、無我夢中で走っている。

(取材・文 林健太郎)

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