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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:ホームグラウンド(ワッキー)

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“ワッキー”こと脇田寧人(左)と、吉本興業の同期でもある平畠啓史との2ショット

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 一度はその扉へ、自ら静かに背を向けた。それでも漏れてくる眩い光が疎ましく、その隙間さえも完全に遮断した。だが、向こう側からかすかに聞こえてくるノックの音は、いつだって心の奥底に響き続けていた。「『やっぱオレ、サッカー好きなんだ』って。もう本当に原点だけど、『だって子供の頃からそれしかしてこなかったじゃん』って。そこで生まれ育った自分が故郷に帰るみたいな、そういう気持ちに気付かせてもらえたということだよね」。そう。“ワッキー”こと脇田寧人は、ようやく自分の“ホームグラウンド”に帰ってきたのだ。

 小さい頃からサッカーが好きだった。初めてチームに入ったのは小学校3年生。3つ上に当たり、最上級生でキャプテンを務めていた兄に憧れつつ、ボールを蹴ることにどんどんのめり込んでいく。父親が転勤族だったため、5年生へ進級する春休みに船橋から名古屋へ引っ越しても、すぐさまサッカークラブへ入るが、ここである人物との出会いが訪れる。

「兄貴は中学のサッカー部に入ったんだけど、そこでダブルエースみたいな立場の同級生が中西哲生さんで。さらに哲生さんの2個下の弟とオレが千種サッカー少年団で一緒だったの。つまり弟同士も兄貴同士も同じチームだから、中西家と脇田家ってメッチャ仲良くて、よく中西家へ遊びに行ったりもしていたなあ」。

 中学に進学するタイミングで、今度は名古屋から釧路へ。もちろんサッカー部に入部したものの、想像以上に周囲とのレベル差を痛感し、上級生からの理不尽な“しごき”も横行していたため、「なんて所に転校してきてしまったんだ…」と落ち込む日々。ただ、同じ学年には素晴らしい仲間が揃っていたこともあり、少しずつ楽しさを見出していく。

 言うまでもなく、釧路の冬は厳しい。「雪の上でも走れるスポーツの靴をみんな買うんだけど、雪が入ってこないようにハイカットになってて。それでも入ってくるからサッカーのストッキングを履いて、その上にスーパーのビニール袋を履いて、ガムテープでぐるぐる巻きにして、そこから靴を履いて、雪上サッカーをするのが冬になったら必ずやること。今の青森山田みたいに科学的な感じではないかもしれないし、ずっと試合をしているんだけど、楽しくやる感じだったね」。困難な環境を共有すればするほど、絆は深まっていく。最初は嫌で仕方なかったサッカー部が、どんどん好きになっていく。

 しかし、いよいよ最後の1年へと向かうタイミングで、残酷な現実が突き付けられた。父親の転勤である。「引っ越す当日までサッカー部の練習に出ていたんだけど、『この時間までに帰ってこないと飛行機の時間に間に合わないから』って言われてて。途中で帰らなきゃいけなくなった時に、みんなが校門の所まで送り出してくれて、ずっと手を振るみたいな。もう本当にボロボロ泣きながら家に帰ったんだよね」。今でも当時の仲間とは連絡を取っているそうだ。

 再び船橋での日々がスタートすると、名古屋と釧路での“武者修行”の甲斐あって、すぐに船橋選抜へ選出される。会場は市立船橋高のグラウンド。月に1,2回の練習会では、高校生と練習試合をする機会もあったという。そこで出会ったのが、今も仕事を共にする1つ年上の先輩、“ヒデさん”こと中川秀樹だ。

「こっちが中3で、向こうが高1。実はあの人、とにかく足が速くて。それが売りだったから。高3になってコンバートされてからはセンターバックだったけど、それまでは右サイドハーフで、縦に速い選手でさ。なんか顔がメチャメチャ細長くて、ヘチマみたいで『ああ、この人ヘチマみたいだな』っていうのと、『ヘチマ、スゲー足速えーな』っていうのが第一印象(笑)」。そんな2人が青いユニフォームを纏って、ディフェンスラインを組むようになり、のちにはコンビを結成するのだから、人生は何が起こるかわからない。

 実は別の高校への入学が決まりかけていたという。「中学の1個上の代のエースが東京学館浦安のサッカー部に推薦で入ったから、そのパイプがあって。オレも学館浦安のセレクションにも行って、受かるみたいな感じだったの」。そこに1本の電話が入る。声の主は言うまでもない。「布(啓一郎)先生から『僕と一緒に3年間サッカーやらないか』って。熱意を込めて爽やかに言われたからね。厳しいということは聞いていたけど、そういう空気を出さないの。まんまと騙されたってことですよ(笑)」。1988年4月。脇田少年は市立船橋高校へと入学する。

 1年生からAチームに入ったものの、懸案だったヒザの痛みが再び襲ってくる。「もともと小5の時に“オスグット”っていう、ヒザの軟骨が出てくる病気と戦うことになって、市船に入ってさらにキツい練習があって、今度は“ジャンパー膝”っていう、ヒザの皿の上の方が痛くなる症状が出てきて。ヒザはずっとオレのサッカーの“キーワード”です」。

 そんな状況でも決して誰にも負けなかったのは“走力”だ。「小学校から中学校まで、全部の学校でマラソン大会1位だったから。実は母が200メートルで、父が長距離とやり投げの選手だったの。だから、オレはなんとなくマラソン大会とか運動会とか、『すべて1番で帰ってこないと脇田家の人間じゃねえ』みたいなプレッシャーを感じてたねえ(笑)」。その経験がさらなる“悲劇”と“成長”を連れてくる。

「自分の中でストイックな部分と変な真面目さがあるから、市船に入って初めて長距離を走った時に、今までの『絶対に1番じゃなきゃ』みたいなのが残っていて、3年生も含めた中で1番になっちゃって。それで1年の夏ぐらいにどこかの遠征で、凄くスネが痛かったのを先生に言えなくて、Aチーム全員で走った長距離走を2番になった時があったの。そうしたら先生に『オマエはどんな時でも走りは1番じゃなきゃダメなんだ」ってメッチャ怒られて、『ウソでしょ…』って(笑) 『これから2年間、どんな時でも1番じゃなきゃいけないの?』って。だから、『ああ、失敗した…』ってその時に思ったよね」。

 そのことに気付いたのは2年生の夏だった。アレだけキツかった練習が、何をどれだけやってもキツいと感じなくなったのだ。「だって、全部の走りが1番なんだもん。そうじゃなきゃいけないし。だから、2年の夏合宿が終わった後は、ドラゴンボールの精神と時の部屋から出てきたみたいな(笑) もう超人的な走力だったから」。決められた距離を16秒以内に走らなくてはいけないダッシュでも、時には斜めに走りながら、2,3人の遅れた仲間の背中をラインの内側に押し込むこともあった。ヒザの痛みを抱えていたことを考えると、“超人的”という表現にも頷ける。

 少し時期が前後するが、1年生のハイライトは“国立競技場のスタンド”だ。選手権決勝。市立船橋は日本一を懸けて清水商高と対峙する。「勝負事の時に布先生がよく言うんだけど、『勝者しか歴史に名を残せない。負けたら歴史に名は刻めないぞ』と。そんな言葉を聞いて、こっちも『先輩たちを勝たせなきゃ』っていう気持ち満々で、全校生徒の応援の指揮を執る訳よ」。

 数日前の昭和天皇崩御を受け、応援は鳴り物禁止。ブラスバンド不在の中、“口ラッパ”を轟かせながらスタンドを必死に盛り上げる。ところが、先輩たちの健闘空しく、試合は0-1で清水商がモノにする。決勝ゴールを決めたのは同じ1年生の山田隆裕だった。「もうワンワン泣いた。青春ドラマのセリフみたいに『絶対ここに戻ってきて、オレらの代で勝ってやる!』って。選手権って何なんだろうね。そんな気持ちにさせるって」。この因縁は2年後まで続くことになる。

 2年生になると右サイドバックのレギュラーを任される。後ろには“ヒデさん”がスイーパーとして控えていた。舞台は選手権の千葉県予選決勝。最大のライバル、習志野高に2点をリードされた時、味わったことのない感情に支配される。「『え、市船が選手権出れないの?』みたいな。ピッチに立っていて信じられなくて、現実として受け入れられなくてフワフワした感じで、試合中に泣きそうになっちゃって」。その時、ある声でようやく我に返る。

「残り10分くらいになって入ってきたキャプテンの鈴江さんが『ワキ!ワキ!しっかりしろ!』って。たぶんオレの目が泳いでたんだね。『嫌だ!負けるの嫌だ!』って。そうしたら顔を叩かれて『しっかりしろ』って言われたことを覚えてる。『ああ、鈴江さんが入ってきてくれた』って思って」。

 鈴江は常に怒られ役であり、レギュラーの座も後輩に譲っていた。そんなキャプテンが、とにかく頼もしく見えた。「ディフェンシブハーフに入って、メチャメチャ指示出して、それが的確で。ボールもロストしないし、今まで見た鈴江さんの中で一番上手くて、『ああ、やっぱりキャプテンカッコいい』って思ったもん。負けたけど、あの鈴江さんの姿は忘れられない。凄く感動したなあ」。そして、高校最後の1年間が幕を開ける。

 ヒザの痛みを何とか手なずけながら、レギュラーの座を死守しつつ、秋の国体では千葉県選抜として日本一も経験。満を持して挑んだ選手権の千葉県予選でも、決勝では渋谷幕張高のサンドロ(元市原、FC東京など)をマンマークで封じ、PK戦でも1人目のキッカーとしてゴールを決め、最後の冬の全国へ辿り着く。初戦の高松商高を2-0で下すと、2回戦の相手は清水商。2年前に先輩たちが敗れた因縁の相手であり、絶対的な優勝候補だ。

 山田、名波浩大岩剛、望月重良を筆頭に、スタメンのほとんどがのちのJリーガーというスーパーチームに対し、与えられた役割は明確だった。「ミーティングの時に『オマエ、ボールは見るな。名波だけ見てろ。絶対に離すな。それだけでいい』みたいなことを言われて」。世代屈指の司令塔として知られる名波の密着マーク。心が奮い立つ。

 執拗なマークで名波を封じ込めると、後半に入ってチームも先制。会場にジャイアントキリングの雰囲気が漂い出した後半28分。一瞬の隙を未来の日本代表を担うレフティは見逃さなかった。華麗に左足の裏でラストパスを通し、同点弾を演出する。「あの1本のパスですよ。あんな完璧な仕事を一瞬だけでもするのは、のちの日本代表の10番だよね。『ヤベっ!』と思って体を寄せた時には、もう打たれていたからなあ。だから、79分50秒は抑えたかもしれないけど、残りの10秒間だけで完璧な仕事をされたということは、結局オレは名波を抑え切れなかったってことなんだよ」。試合の決着はPK戦へ委ねられる。

「PK戦に入ってから、あまりPKを見ていなかったの。スタジアムを見回して、当時はJリーグなんてなかったし、『自分のサッカー人生の中で今この瞬間が一番華やかなんだろうな』って。『こんな大舞台で、こんなにお客さんがいる場所で、もうサッカーできないだろうな』ということを噛み締めていた、凄く。この光景を目に焼き付けようと思ってさ」。

 チームメイトに肩を叩かれ、自分の順番が来たことに気付く。サドンデスの6人目。不思議と心は落ち着いていた。「ボールをセットしてキーパーを見た時に、今までで一番無心になれたというか、『もう絶対入る』って思った。何の緊張もなかったんだよなあ。『今まで何でこんなのが入らなかったんだ。コレ、絶対キッカー有利じゃん』って気持ちになれたのよ。サッカーの神様がそう思わせてくれたのか、今までの自分の努力がそこで実ったのか、何なのかよくわからないんだけどね」。豪快にキックを叩き込むと、勝敗は7人目で決まる。2年前の雪辱は、果たせなかった。

 試合後。2つ驚いたことがあったという。「泣きながら山田が『脇田、ありがとう』って、握手を求めに来てくれたんだけど、まず『オレの名前を知ってたんだ』っていうのと、『あの山田隆裕が泣いている』というのに凄く驚いて。オレも泣いていたけど、『絶対優勝しろよ』みたいなことを言ったのを覚えてるなあ」。千葉県総合運動場。15000人が詰めかけたその試合が、高校3年間のラストゲームとなった。

 現在は『Foot!THURSDAY』で高校年代を取材するようになったが、やはり選手権には特別な思い入れがある。「高体連でサッカーをやっている子たちの血って、ずっと脈々と同じ色をしている気がするのよ。なんかわかるというか、市船の血というよりも、高体連の、選手権の血ってずっと変わらないなって。どの高校の子たちも同じ気持ちだし、たぶん指導者の方々にとっても特別なんだろうなって思うな」。

 だからこそ、高校の3年間は自分にとっても原点だと語る。「やっぱり自分の代で選手権に出られたのは、本当にありがたいよね。良い財産だし、自分の人生の中でも、必ず死ぬ時の走馬灯の中に映し出されるワンシーンだと思うな。何だったら一番長く映し出されるような気がする。長く、濃く。芸人での生活で楽しかった日々みたいなものも、たぶんそこに映し出されるんだろうけど、それよりもやっぱり高校サッカーの3年間だなあ」。本気で高校サッカーに打ち込んだ者にとって、この意見に異論はないだろう。

 ヒザは限界に達していた。専修大学に進学し、サッカー部の門を叩いたものの、練習もそこそこに名医を訪ね歩く。だが、結果はどれも同じようなもの。「治したいならサッカーをやめるしかない」という回答ばかり。そのうち、心の糸がプツリと切れてしまった。「小学校の頃からずっとヒザで悩まされているから、『まだこの痛みとずっと一緒にやるのか』と思った時に、もう無理だなと思ってしまったんだよね」。

 1年生の2月。置き手紙を残して、寮を夜逃げする。「相方は『さがさないでください』って、全部ひらがなで一言だけ書いてあったみたいなことをよく言うんだけど、実際は“詩”みたいなのを書いたっぽくて。『オレは風。オレは空。オレは誰にも止められない』みたいな。要は『これから自由にやらせてもらうぜ』ということなんだろうけど(笑)、そこで完全にプレーヤーとしてはサッカーと縁を切りました」。脇田寧人のサッカーキャリアは、こうして幕が下りた。

 時代はJリーグ開幕前後。かつては同じピッチで戦った仲間やライバルが、華やかな舞台で脚光を浴びているのを見て、言いようのない空しさを覚える。「もう悔しいし、苦し過ぎて。やっぱりサッカーが好きなんだよね。好きだから、メチャメチャJリーグが気になって、最初はもちろん見たけど、『これだとオレはまたサッカーに戻っちゃう』と思ったから、断絶したのよ。『もうJリーグも見ない』と」。人生からサッカーを追い出すことで、何とか自身を保とうともがく。やがてそんな日々にも慣れ、ひたすらバイトに明け暮れていく。

 そんなある日。近所の駐車場で男の子を見掛ける。「散歩していてパッと見たら、壁に向かってボールを蹴ってたのね。『あ、左利きだ』と思って、蹴り方がちょっとダメだったから、教えたのよ。その時に何とも言えない気持ちになったのを覚えてるなあ」。それから、男の子とその友人たちとボールを蹴り合うようになる。

「『お兄ちゃん、スゲー上手いじゃん』みたいに言われて、『昔ちょっとやってたんだ』みたいな(笑) 漫画でありそうなセリフを言って。でも、『市船でやってた』とか、そういうことは絶対言わなかった。言ったらいろいろなモノが崩れていっちゃいそうな気がして。『もうオレはサッカー人じゃないんだよ』というような言い方をしたかったんだね」。少しずつサッカーとの距離は空き、やがてそんな日々にも慣れ、自分の中の“1番”は違うものに変わっていった。

 転機は2016年にやってくる。ある縁から『Foot!』というサッカー番組のコメンテーターに指名される。「本当にサッカー番組をやりたかったんだけど、いきなり“超コア”な所にポーンと放り込まれたから、まあカルチャーショックだよね。その時のオレはプレミアばっかり見ていて、以前から知っていたスタッフに『毎節Jリーグ3試合、ブンデス3試合くらい見れますか?』って言われた時に、『コイツ何言ってんだよ』って。『そんなに見れる訳ねえだろ』ってぶっちゃけ思ったぐらいだったから。最初はキツかったなあ」。

 それでも徐々に試合を見るのが楽しくなると、控え室での会話も弾んでいく。「お気に入りの選手とかが見つかると本当に楽しくなってきて、それを共演していた下田(恒幸)さんに『この選手メッチャ良くないですか?』とか聞いたら、『いいよ、いいよ』とかって。そんなのを話したりするのもどんどん楽しくなってきてさ」。以前とは違った角度でサッカーにのめり込んでいく自分に気付く。

 2017年には吉本興業の同期に当たる、“平ちゃん”こと平畠啓史とJリーグに特化した曜日の『Foot!』を任される。今ではルーティンとなった、『J1のシーズン全306試合視聴』を開始したのもこの年である。その陰には自分の中で定めた、確かな決意があった。「もちろんウソもつけないし、浅いものだと『Foot!』はやっていけないって。本物じゃないとだめだと思って、平ちゃんとスタッフとかみんなのトークにとにかく参加したいって想いもあり、『全試合見る!』と決めてやってみたんだけど、まあそこから本当にハマったねえ、Jリーグに。もうJリーグを見ている時が幸せだし、落ち着くというか、もちろんお笑いの仕事がメインだし、やっていかないといけないんだけど、自分の必ずやる行動として、ど真ん中にあるのがもう『Jリーグを見る』ということだよね」。

 最近では新たな思いも芽生え始めているようだ。「自分のJリーグに対する恩返しは、やっぱり一応ちょっとだけど名の通った人間として、外向けに発信して、もっとJリーグのファンを増やすとか、Jリーグの環境をもっと良くしてもらうとか、子供たちがもっとJリーグに憧れるとか、もっとそのコミュニティを広くしていって、Jリーグを日本のスポーツのもっとど真ん中に持っていけるように役立ちたいなとは思う。そういう気持ちが最近ちょっと芽生えてきたのはあるかな」。

 結局、好きなのだ。たまらなく、サッカーが好きなのだ。「1回自分で無理やりサッカーと断絶した訳だけど、『やっぱオレ、サッカー好きなんだ』って。もう本当に原点だけど、『だって子供の頃からそれしかしてこなかったじゃん』って。そこで生まれ育った自分が故郷に帰るみたいな、そういう気持ちに気付かせてもらえたということだよね」。

 以前、FC東京でコーチを務める長澤徹が話していたことが印象深い。「何かを成す人って無邪気なんだよ。読んで字のごとく“邪気”がない。原さん(原博実)とか、キジェ(チョウ・キジェ)とか、健太さん(長谷川健太)とか、みんな良い意味で無邪気だもん」。個人的な感想で恐縮だが、ワッキーほどサッカーに対して純粋に、無邪気に向き合っている人を、なかなか他に挙げることは難しい。真摯に、全力でサッカーと向き合う姿勢の象徴が、J1全試合視聴であり、それが周囲の認める所となってきたことは、何より嬉しいことでもある。

 無邪気な彼が、これからサッカーの世界で何を成していくのかが楽しみでならない。そう。“ワッキー”こと脇田寧人は、ようやく自分の“ホームグラウンド”に帰ってきたのだ。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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