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“セクシーフットボール”の深層(上)~カッコいいの追求から始まった高校サッカー改革~

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野洲高監督時代の山本佳司氏。(写真は05年度選手権決勝。写真協力=高校サッカー年鑑)

 この春、滋賀県の高校サッカー界に大きな動きがあった。野洲高監督時の2005年度にチームを全国高校サッカー選手権優勝へ導いた山本佳司氏が、甲南高に教頭として赴任した。新天地で新たな教員生活をスタートさせた山本氏のコメントと教え子の証言を交えながら、今だからこそ話せる野洲高の歴史と共に、17名ものJリーガーを輩出した育成方針について語ってもらった。

【カッコいいチームへの改革】

 甲賀忍者と信楽焼で有名な甲賀市に位置する甲南高は、130年以上の歴史を持つ伝統校だ。のどかな雰囲気の最寄り駅を降りてすぐの同校に向かうと、玄関先で迎え入れてくれた山本は「俺がサッカー界から引退するみたいな雰囲気で書かんといてや。これからもサッカー界へのチャレンジは続けて行くから」と笑いながら、野洲高時代を振り返り始めた。

 監督として、水口東高をインターハイ出場へ導いた経験を持つ山本が野洲に赴任したのは、1997年の春だった。赴任する以前の野洲は専門的な指導者がおらず、県大会で1勝することを目標にしているレベル。12名の部員に対し、マネージャーが4人というアンバランスな体制でのスタートだった。中学時代にレギュラーだった選手は1人もおらず、練習に顔を出すのも2、3名しかいなかったため、彼らをグラウンドに引っ張り出す作業からスタートした。それでも、「全国大会に行きたいではなく、行くと決めていた」山本は、部の改革を進めていく。

 改革の基準は、明確だった。「基準としてカッコいいいかどうかが大事。まずは勝つチームではなく、カッコいいチームを目指した。全国に強いチームはたくさんあるが、野洲は『日本一カッコいいチーム』になろうと思った。なぜなら、カッコいいチームは魅力があるし、カッコいいチームが勝つと信じていた」。強豪校が泥臭さを前面に押し出している時代だったが、お洒落で美しいサッカースタイルの方がカッコいい。そのカッコよさとは見せかけのテクニックだけではない。

 チームがピンチの際には、身体を張ってシュートブロックすべきだ。失点したかどうかよりも、チームのための行動できたかどうかが大事で、ポジションは関係ない。FWでもピンチだと思ったなら猛ダッシュして戻って、ゴール前で壁になれば良い。CBでもチャンスと思えば、シュートまでいけば良い。カッコよさは、ルックスだけでなく生き様だ。できない選手に対して、山本は「チームのために一生懸命になれない、そんな男がカッコいいのか? 俺はそんな男にはなりたくない」と問いかけてきた。

 カッコよさにこだわったのは、スタイルだけではない。就任初年度から横断幕に掲げている「We will Rock You」の言葉は、四文字熟語が並ぶ高校サッカーの横断幕としては異色だった。ユニフォームやジャージにもこだわり、ミズノにお願いして、選手がカッコよく見える細身のフォルムを別注した。いくら衣服にこだわっても、着こなしが悪ければカッコよくは見られない。「男ならみんなカッコよくなりたいけど、最初はカッコいいの価値観が分からないから、基準を与えていく」のが山本の役割で、一流選手に触れることで感性を高め、お洒落にも気遣い、堂々と振る舞うことを要求した。

「ヨーロッパ遠征で、試合後にシャワーを浴びて、髪型をワックスで整え、ジャケットを着てレセプションパーティーに来るレアル・マドリーの高校生を見て、私の言っている意味を理解したと思った。グローバルスタンダードや世界を目指す姿勢は、サッカーはもちろん、日本人がカッコよく、誇りを持つことだ」。

(写真協力=高校サッカー年鑑)


 同時に選手に説いたのは、自立と貢献意欲の大切さだ。自立した選手を育てるために、まずは言い訳を許さない。パスが合わなかった際の不満を口に出さなくても、ふてくされた態度や仕草を見せれば雷が落ちる。上手く行かない時の矢印を自分に向けさせ、良いプレーをするための準備や技術のアップを意識させるのが狙いだった。

 貢献意欲とは、自分が持っている力を仲間やチームのために活かそうという気持ちが大事との意味を持つ。山本が求める「優しいパス」は思いやりだ。相手に強く当たられて体勢を崩しても、仲間のために良いパスを出そうといった動きに繋がってくる。受け手の発想も同じで、味方が出したパスがズレても、”仲間が繋いでくれたボールを何とかしよう”と身を投げ出してでも相手に渡さない気持ちによって、パスが繋がる。野洲のようにボールを大事にするチームには、貢献意欲は欠かせない精神だ。

 野洲の選手は、ヤンチャな子どもが少なくない。こうした山本の考えを、彼らに徹底させるのは簡単ではない。「日本の指導者の中には、サッカー以前に人間教育を重視する指導者もいるが、僕はサッカーで人が育つと思っている。人間教育を入口にするのではなく、出口に持ってくる。だから、少しぐらいのヤンチャ坊主や扱いづらい選手も排除しない。良い選手になる過程で身につけていけば良いという出口の考え方だ。牙を抜くのではなく、牙の使い方を考えさせる」。野洲でなければ潰れていたような選手も数多く、ヤンチャな選手を一人前に育てられるのも山本の包容力によるものだろう。

【野洲の礎を築いた2人のJリーガー】

 新たな基準の下で練習を続けて行くうちに、サッカーから離れていた選手が部に復帰するなど、チームとして形になっていった。翌1998年にはセゾンFCの主力だった田中大輔(元・清水)と、前田雅文(元・G大阪、現・関西大監督)が入学し、上昇気流に乗る。当時、セゾンFC出身者の主な進路は、倉貫一毅(元・甲府)や坂本紘司(元・湘南)に代表されるように静岡学園高や県内の2強だった草津東高や守山北高など。地元の野洲高に進む選手は全くいなかったが、「強いチームでプレーするのではなく、俺が行って野洲を有名にする」と入学を決めた田中に続き、チームメートも野洲の門を叩いた。

「何もない真っ白なチームで、自分たちが中学でやってきたサッカーを継続させてもらう高校に行きたかった。人生最大のチャレンジだったと思う」と話すのは前田だ。山本は「今までの子たちはサッカーをしに来ている子たちではなかったけど、この年からは周りに『なんで野洲なの?』と言われながらも、サッカーをするために野洲に来た子ばかり。チームの雰囲気が一変した」と振り返る。

 技巧派が多く集ったとはいえ、1年生ばかりのチームで、オール3年生のチームと戦うのは簡単ではない。だが、前田が「多くの指導者が扱いやすいように自分のサッカー観を押し付けがちだけど、山本先生は違った。僕たちがやりたいサッカーをノビノビとやらせてもらえた。要求は厳しかったけど、良かったプレーは良いと褒められた」と振り返る環境の下、主体的に朝練や自主練のミニゲームでテクニックを磨いた選手が、フィジカルで劣る相手を翻弄し、この年の選手権予選は早速準決勝まで進んだ。

 彼らが最終学年を迎えた山本の就任4年目の選手権予選は、前田が準々決勝で退場した影響もあり、チームは準決勝で敗退。「ショックな気持ちとチームメートに申し訳ない気持ちでいっぱいだったけど、高校での悔しさがあったから大学でも頑張れたと思う」と振り返る前田は、大学経由でJリーガーとなった。

「山本先生からは押し付け過ぎたらダメだと学んだ。解放的な部分を周囲から怒られることもあるけど、そういう選手からプレーのアイディアが湧いてくる。2005年の日本一を決めた決勝ゴールもパターンを教え込んだのではなく、選手の自由な発想から生まれたゴールだから美しかったと思う」。そう話す通り、前田の関西大学での指導者としてのベースは、野洲で過ごした3年間だ。

 勝負の年だった田中と前田の年代は悔しい結果で終わったが、県内の中学生の間で野洲は「面白いサッカーをするチーム」との認識が広まっていく。松尾元太(元・名古屋 現・大阪体育大学サッカー部監督)もその一人だ。中学生の頃は家から学校までリフティングをしながら通うサッカー少年だったが、所属する中学校は市内の大会ですら結果を残せずにいた。元々は大学進学を意識し、進学校に進もうと考えていたが、中学3年生になると「真剣にサッカーと向き合う集団の中でプレーしたい」との想いが芽生え、魅力的なサッカーを展開していた野洲への進学を決意した。憧れの先輩たちが積み上げてきた”カッコいいサッカー”によって、野洲の歴史は一気に動き始める。

全3回。「“セクシーフットボール”の深層(中)~夢を持ち続ける限り、夢は叶う~」(7月2日掲載予定)へ続く。

(写真協力=高校サッカー年鑑)


執筆者紹介:森田将義(もりた・まさよし)
1985年、京都府生まれ。路頭に迷っていたころに放送作家事務所の社長に拾われ、10代の頃から在阪テレビ局で構成作家、リサーチとして活動を始める。その後、2年間のサラリーマン生活を経て、2012年から本格的にサッカーライターへと転向。主にジュニアから大学までの育成年代を取材する。ゲキサカの他、エル・ゴラッソ、サッカーダイジェストなどに寄稿している。

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