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【GK's Voice 9】本気でサッカーを辞めようか…悔しさバネに飛躍した鳥栖・朴一圭

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サガン鳥栖GK朴一圭

GKヒューマンドラマ『蒼のアインツ』第1話を読む↑

 試合に一人しか出場できない。そしてピッチ上でただ一人、手でボールを扱うことが許されたポジション。それがGKだ。“孤独なポジション”で戦う彼らはどのような思い、考えを持ちながらトレーニングに打ち込み、ピッチに立っているのか――。ゲキサカではコミックDAYSで好評連載中の『蒼のアインツ』とのコラボ企画として、GKにスポットライトを当てた連載を不定期で掲載中。第9回はサガン鳥栖でプレーするGK朴一圭に幼少時代から現在までを振り返ってもらい、GKとして生きていく術を聞いた。※取材はオンラインで実施

JFLで僕はまったく通用しなかった
何も残せずに何の手応えも得られない1年


――まず、サッカーを始めたきっかけを教えて下さい。
「小学4年生のときにサッカー部に入ったのがきっかけです。自分の家はバスケ一家で僕もずっとバスケをしていたのですが、仲の良い友達が皆サッカー部を選び、『パギ(朴の愛称)、お前ももちろんサッカーやるよね』と声を掛けられました。本当はバスケがしたかったけど、そこでバスケを選んで距離を置かれるのが怖くてサッカーを選びました(笑)」

――バスケットボールに対する未練も残ったのでは?
「めちゃくちゃ残りましたよ(笑)。それまでも休み時間にグラウンドに出てボールを蹴ることはあったけど、楽しくてボールを蹴っている感覚はなく、友達がやっているからやる感じでした。逆にバスケの練習は意欲的にやっていて、家でもNBAばかり見ていた。中学校に上がるタイミングでクラブチームに通わせてもらい、中学のサッカー部に入っても選手登録できない状況になったので、バスケ部に入ろうか真剣に悩んだくらいバスケは好きでした」

――部活に入ることでサッカーの印象は変わりましたか。
「サッカーのことはよく分からなかったけど、初めて練習を見学させてもらったとき、GKの印象が強く残りました。シュート練習でGKの人がものすごく止めていて、シュートを打っている人より止めている人の方が目立っていた。それを見て、『GKをやりたい』と感じたし、ボールを蹴ることよりも手で扱えることにバスケとの共通部分を見出して、『自分にはGKが向いている』と思うようになり、自分から『GKをやりたい』と言ってGKを始めました」

――サッカーを始めた頃は「ゴールを決めたい」という気持ちも強いと思います。フィールドプレーヤーとしてプレーしたい気持ちは?
「なかったですね、まったく。ゼロに近かった。最初からGKにのめり込んでいきましたが、周りの声掛けが良かったと思います。GKに対してネガティブな声を掛ける人が少なく、シュートを止めたらすごく褒めてくれたし、指導者の方やチームメイトが『パギがGKをやってくれたおかげで試合に勝てた』という声をたくさん掛けてくれたので、マイナス面を感じることもなかった。人から褒められるのは嬉しいことです。シュートを止めてたくさん褒めてもらえることで、喜びを感じていました」

――学生の頃はどのような目標を持ってGKとしてプレーしていましたか。
「小学生のときに在日の学校の全国大会で優勝して自信がついたこともあり、小学6年生の頃には『GK1本でずっとやっていく』と決めました。やるからには上を目指したい気持ちがあったので、中学、高校、大学に進学してもブレることなく、一貫してGKというポジションと真摯に向き合えていたと思う。その時はJ1やJ2という目標を明確に持っていたわけではないけど、『サッカーでご飯を食べられるようになりたい』とは思っていました」

――高校、大学卒業時にはJクラブのセレクションを受けたようですね。
「高校卒業のタイミングで1クラブ、大学卒業のタイミングでJ2を4クラブとJFLを2、3クラブ受けましたがJクラブは全滅です。JFLも昇格したタイミングの藤枝だけ受かりましたが、先輩の伝手があったから入れたと感じていて、本当にギリギリの2月くらいに加入が決まりました」

――Jクラブのセレクションを受けて、どういう部分が足りないと感じましたか。
「すべての部分が足りなかったと思う。大学卒業のタイミングで受けたJ2の4クラブには、同学年の選手が強化指定に選ばれていて、その選手と比較した結果、自分が選ばれなかった。実際にトレーニングに参加させてもらい、そこそこ足下の技術があり、そこそこシュートストップはできるけど、自分が試合に出たときにチームに還元できる明確なものがなかった。『足下が少しうまいGK』『シュートを少し止められるGK』という印象しか残せなかったと思うので、シンプルに自分の力が足りなかったと感じています」

――12年にJFLに昇格したばかりの藤枝MYFCに加入し、JFLで試合経験も積みますが、その後、階段を上がっていくイメージは持てましたか。
「正直、持てなかった。藤枝というクラブがどうこうではなく、自分の力の無さを実感しました。当時はJ3がなく、J1、J2の下にJFLがありましたが、どこか舐めているところがあったのでしょうね。J2のチームに練習参加させてもらったし、手応えを感じている部分もあったので、『これくらいはできるはずだ』と勝手に計算していましたが、JFLで僕はまったく通用しなかった。ビックリするくらい通用せず、『JFLのレベルはこんなに高いのか』『社会人の選手はこんなにうまいのか』と度肝を抜かれた。リーグ戦32試合中、16試合に出場させてもらいましたが、自分でポジションを勝ち取って試合に出ているのではなく、他のGKの調子が悪いから使ってもらえている感覚で、試合に出ても何も残せずに何の手応えも得られない1年でした」

――とても苦しいシーズンを過ごしたのですね。
「当時だけは本気でサッカーを辞めようかと思ったし、何でこんなに苦しい思いをしてまでサッカーをしているのだろうとネガティブに考えていた。試合に出ても通用しないのが分かるし、自信を持ってプレーできていない。何よりもサッカーを楽しめていなかった。僕はボールを蹴るのが好きで、シュートを止めるのが好きだったし、バックパスを受けて相手をいなすのが好きだったのに、ボールを蹴るのが嫌になり、朝起きて練習場に行くのも嫌になった。それくらい当時は追い込まれて、本気でサッカーを嫌いになりかけていました」

関東リーグのFC KOREAで1年間プレーし、14年に復帰した藤枝でJデビューを飾った

Jの公式球を見たときの感動は忘れられない
心が躍ったし、ものすごく鳥肌が立った


――翌13年シーズンには関東サッカーリーグのFC KOREAに移籍します。JFLからカテゴリーを下げる選択をした理由を教えて下さい。
「シンプルにもう一度、自分のサッカーを取り戻したかった。自分のプレーや良さは自分が一番分かっているのに、JFLでは何も出せなかった悔しさがあります。でも、『自分はもっとできるはずだ』と思っても、実際にピッチに立つとできなくなる。それで自分を見失ってしまう。だから、言い方は悪いですけど、下のカテゴリーの方が余裕を持ってプレーできると思い、そこでもう一回『力をつけ直そう』『自分を見つめ直そう』と考えてカテゴリーを下げました」

――本気でサッカーを辞めようとまで考えていたのに、なぜ、サッカーを続けようと前向きになれたのですか。
「やっぱり、悔しかった。サッカーをしている人、スポーツをしている人なら分かると思いますが、人から認められたいという気持ちは強いはずです。大学時代に認めてもらえなくてプロになれず、JFLでプレーしても誰からも認めてもらえていない感覚があり、それが本当に悔しかった。見返したいと思っても、見返す力がなく、JFLでは見返す場所もない。どうすればいいかを考えたら、カテゴリーを下げてでも、しがみついてでもサッカーを続け、『自分はやれるんだ』というところを改めて見せないといけない気持ちになりました」

――FC KOREA加入1年目にチームは関東サッカーリーグを制することになります。
「自分を取り戻せた1年になりました。カテゴリーを下げても試合に勝つ難しさは当然ありましたが、最終的に優勝できたことで勝ち癖をつけられたことは良かった。勝つために『どういう作業をしなければいけないのか』『どういうプレーを選択しないとダメなのか』ということを整理できたし、何よりもサッカーはやっぱり楽しいと感じられた。色々なことを改めて感じられた1年間でした」

――カテゴリーを下げることで、遠回りの1年という印象も持ってしまいますが、なくてはならない1年になったようですね。
「あの1年がなければ今の自分は絶対にありません。これまで過ごしてきたすべての年が重要でしたが、特に最初の2年間は今の自分の大部分を作ってくれたと思っています。藤枝では苦しい1年を過ごしたけど、あの挫折がなければ、その後の成長はなかったし、『立ち直るために何が必要か』『どうやって自信をつけていくのか』をFC KOREAで学ばせてもらった。2年間で自分のベースができたので、藤枝とFC KOREAには感謝してもしきれないと今でも感じています」

――翌14年にはJ3に入会した藤枝に復帰し、Jデビューを飾ります。
「自分がやるべきことは整理できていたし、ここからステップアップしていく気持ちしか持っていなかった。正直、JFLからJ3になったからと言って環境や注目度が大きく変わったとは肌では感じられず、Jリーグのデビューを飾ったという実感もあまりなかった。でも、藤枝の練習場でJリーグの公式球を見たときに『自分もJの舞台に来たんだな』と実感できたのを覚えています。初めて公式球を見て、『ようやく、ここまで来たんだ』と感じられて心が躍ったし、ものすごく鳥肌が立ちました。あの感動は忘れられないですね。J3ではありましたが、やっとスタートラインに立てたのだと思えました」

――2年後の16年には藤枝から琉球に移籍し、在籍3年目にはキャプテンを務めてJ3優勝を果たします。翌年からJ2に昇格することになりましたが、J1の横浜FMに完全移籍することになります。横浜FMからオファーが届いたときの率直な気持ちはいかがでしたか。
「何が起きているのか分からなかったですね。マリノスから? どういうこと? という感じだった。マリノスは(アンジェ・)ポステコグルー監督に代わり、ボールを後ろからつなぎ、ハイラインのサッカーをしていると聞いていたし、『自分ならこうプレーするかな』と思いながら試合も見ていたので、マリノスでプレーできたら面白そうだなという思いはあった。でも、まさか、そのチームからオファーが届くとは思わないですよね」

――J2昇格を目標にしてきた中で、そのカテゴリーを飛び越えることに戸惑いは?
「すぐにでもマリノスに行きたい気持ちがある一方で、戸惑う部分もありました。今までの自分は、周りから遠回りと感じられる選択をしてでも、しっかりと一段一段階段を上ってきたと思う。『ここに来て一段飛ばすのか』と自分の中で矛盾も感じていました。ただ、いろいろな人に相談しながら気持ちを整理したし、チャンスはここしかないと思えたことで気持ちが動いた。29歳になる年にオファーをもらいましたが、『マリノスからオファーをもらえるのは、このタイミングしかないんじゃないか』『もし、1年間J2でもまれて力をつけてからと考えていたら、翌年以降はオファーをもらないかもしれない』と思い、『失敗してでもJ1に挑戦しよう』と考えて移籍を決断しました」

――当時の横浜FMには飯倉大樹選手(現神戸)という絶対的な存在がいました。厳しいポジション争いが待っていると想像できたと思います。
「『飯倉さんには勝てない』というネガティブな気持ちも最初はあったけど、『もしポジションを奪えたら、もっとすごい世界が待っている』と徐々にポジティブに考えられるようになった。試合に出られる確率は低かったかもしれないけど、選手にチャンスを与えてくれる監督だと思うので、そのチャンスを自分がモノにできるかできないかでした。あと、マリノスのサッカーが自分のスタイルに間違いなく合うと思えたことも大きかったです。J3でプレーしていたときも最終ラインの背後をケアするプレーをしていたけど、『そのプレーはJ3だからできるんじゃない』『J1やJ2でもできるの?』と言われたことがあったので、J1でも絶対にやれるんだと証明したかったですね」

――シーズン途中からレギュラーの座を奪い取るだけでなく、チームはJ1リーグ優勝を果たします。
「運を使い過ぎたなと思いましたよ(笑)。人生の運を全部使ってしまったんじゃないかというくらいだった。もちろん、自分自身も頑張ったし努力もしてきたけど、努力ではどうしようもない部分もあり、成功するためには少なからず運も必要だと感じています。その運のすべてが自分に転がってきた感覚です。苦労している時期も腐らずに頑張ってきた自分へのご褒美だと今は捉えているけど、当時は『ちょっとヤバいな』と思ったくらいです。でも、自分は優勝を決めた試合で退場してしまい、優勝の瞬間をピッチ上で迎えていません。自分の手で優勝をつかみ取ったとは思っていないし、最後までピッチに立ち続けて優勝を味わいたかった気持ちが今でもあるので、もう一度J1で優勝できるように頑張りたいし、次は最後までピッチに立っていたい」

――関東リーグから7年をかけてたどり着いたJ1の頂点です。感慨深いものもあったと思います。
「7年間…、短かったなと感じますね。Jリーグの舞台で活躍するという目標設定がしっかりしていたので、そこに向かって一歩一歩、歩んできました。もちろん、つまずくこともあったけど、目標を見失わなかったので、苦しみながらも着実に進んでこられたと思う。関東リーグでもプレーしましたが、そこでしか感じられないもの、得られないものがあったので、本当に遠回りはないと感じています」

――具体的にどういうものを得られたと感じていますか。
「下のカテゴリーでは技術だけでなく、人間性にフォーカスした指導もしてくれると思います。人としての経験が豊富になると、余裕が出てきて落ち着きが生まれ、言葉の選び方でも違いが出て、それがプレー面にも反映されます。人間性はとても大事だと思っています。ファン・サポーターの方もプレーだけを見て、応援してくれているわけではなく、パフォーマンスが悪くても応援してもらえるのは、その人の人間性も影響すると思う。もちろん、高卒や大卒からJ1やJ2の試合に出られるのは素晴らしいことですが、社会人リーグからスタートすることも同じように良いと思っていて、そこから色々な経験をしながら、プロになるという道を模索していくのは僕的には『有り』だと感じています」

横浜FM加入初年度の19年、25試合に出場してチームのJ1リーグ優勝に貢献した

前向きにならないと、やっていけない
ミスを引きずらずに果敢なプレーを


――足元の技術はどのようにして身に付けたのでしょう。
「とにかくボールを蹴るのが好きでした。ロングキックやショートパスの練習もすごく好きだったので、その積み重ねだと思うし、褒められることも大きかった。『ロングボールを蹴るのが上手だね』と言ってもらえると火がつくタイプで、『次は今以上のものを見せたい』という気持ちになるので、やっぱり褒められることは大きなプラスを生むと思う。あと、ミニゲームをたくさんしました。そこではGKをやるのではなくフィールドプレーヤーとしてプレーして、たくさんボールに触ることを意識していた。その積み重ねが自信につながったと思います」

――GKの足下のミスは失点に直結する可能性が高くなります。PA外まで飛び出してボールを処理する怖さはありませんか。
「僕は動くタイプのGKなので、前に出てボールに触ることに躊躇はなく怖さもなかった。J3の藤枝でプレーしていたときにハイプレス・ハイラインを経験しましたが、そのときはクリアを空振りして失点することが何度もありました。でも、そういうミスも大石(篤人)監督は前向きに捉えてくれたし、引きずっている暇があったら次に来たピンチを止めてくれという感じだったので、引きずることはあまりなかった。周りの環境にすごく助けられましたが、その経験も大きかったと思います」

――元々、ミスは引きずらないタイプでしたか。
「前向きにならないと、やっていけないと感じています。仮に前半5分でミスから失点したら、残り時間は85分もあります。引きずったまま自信なくプレーをして2点、3点、4点、5点と失点を重ねて負けるのと、ミスした後のプレーで止めるところは止め、つなぐところはつなぎ、果敢に飛び出してゴールを守って0-1で負けるのはどっちがいいのか考えたとき、絶対に後者の方がいいと思う。引きずらずに前を向いた方が、その後のプレーにプラスに働くのは間違いありません」

――改めて、GKの醍醐味や魅力を教えて下さい。
「チームが苦しいときや絶体絶命のピンチを迎えたときにチームを救うセーブ、流れを変えられるセーブができることです。0-0という緊迫した状況で、試合がどちらに転ぶか分からないシチュエーションで決定的なシュートを止めると、本当に流れが変わります。見ている人にも、あの場面のシュートストップがあったから勝てた試合だったと分かると思う。そういうセーブができることがGKの魅力で、すごくやりがいを感じられます」

――充実感を得られる試合内容や試合展開はどういうものでしょう。
「シュートが1本も飛んでこない試合です。シュートを打たせないということは、アンテナを張り続け、敵と味方がどの位置にいるのか、どこが危険なのかをすべて察知して、逆算しながらコーチングしないといけない。常に頭を働かせている状態なので、90分を終えるとどっと疲れが出ると思うけど、自分は声を出すタイプなので、そういう形でシュートをゼロに抑えることが理想的です。試合をするからには勝たなければいけません。失点をしなければ負けはなく、シュートを打たれなければ失点はしません。GKがシュートを止めることは大事だけど、目立たないのが一番だと思っているので、シュートをゼロに抑えて1-0で勝利することが一番充実感を得られると感じます」

――今後どのようなGKになっていきたいか理想像を教えて下さい。
「僕は180センチと決して身長が高いGKではありません。今後、年を重ねていっても、身長が低くてもこれだけできると、プレーで見せていきたい思いがあります。身長の高い選手よりも判断を良くし、しっかりと足を運ぶ。努力でいくらでもカバーできることを証明し、前向きな姿勢を見せ続けられるGKを目指していきたいですね。数字に対してのこだわりはありませんが、一日一日の練習で燃え尽きることができる選手になりたい。その一日一日の積み重ねが、試合での良いパフォーマンスや大きな数字につながっていくと思うので、先を見るのではなく、足元を見てプレーを続けていきます」

――最後にGKとしてプレーする若者へのメッセージをお願いします。
「一日一日の練習を大事にしてほしいし、全力で取り組んでほしいと思います。試合になると応援もあり、対戦相手もいて、勝ちたいという欲も出てくるので、自然とモチベーションは上がるけど、練習ではそうはいきません。モチベーションの浮き沈みもあるし、感情をコントロールできないこともあると思う。たとえ難しい状況だとしても、ピッチに立ったら常に120パーセントを出さないといけないし、『今日の自分よりも明日の自分の方が良くなる』という気持ちを持ってプレーしなければ成長はありません。限られた時間を大切にし、1分1秒を無駄にせずに全力でプレーしてほしいと思っています」

【『蒼のアインツ』とは…】
コミックDAYSで好評連載中。プロ3年目、20歳のGK・神谷蒼は、万年下位のクラブを3位に躍進させる活躍が認められて、日本代表に初選出された。その後、さらなる成長を求め、ドイツ2部のチームに海外移籍。だが、合流早々、足に大怪我を負い、出遅れてしまった上に、新監督から事実上の戦力外通告を突きつけられてしまう。蒼はドイツで輝くことができるのか――。『1/11 じゅういちぶんのいち』の中村尚儁が贈る、GKサッカーヒューマンドラマ、キックオフ!


(取材・文 折戸岳彦)

↑GKヒューマンドラマ『蒼のアインツ』第1話を読む↑

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