beacon

サッカー人生の集大成で“ジャイキリ日本一”。東海大の名キッカーMF丸山智弘は「乗り越えてきた」経験を胸に社会人生活へ

このエントリーをはてなブックマークに追加

MF丸山智弘(4年=作陽高)

 東海大の中盤を支えたMF丸山智弘(4年=作陽高)にとって、『#atarimaeni CUP』はサッカー人生最後の大会だった。「大学でサッカーのほうは引退して、新たな道でチャレンジしようと決めていた」。そうして迎えた集大成の舞台、丸山は負傷の影響で大会序盤こそ控えに回ったが、3回戦以降は持ち味の左足キックを活かして攻撃を牽引。準決勝・決勝では自らのセットプレーが決勝ゴールの起点となり、史上初の“ジャイアントキリング日本一”を演出した。

■「まさか優勝できるとは思っていなかった」。

 それでも並々ならぬモチベーションで臨むはずの大会前、丸山はこのような結末を夢見ることさえできなかったという。

 理由は「ボールを蹴るたびに痛みが出る感じで、焦りもあった」というほどの左ひざ痛。チームは『#atarimaeni CUP』を間近に控えた昨年末、2020年シーズンの至上命題でもあった関東2部リーグ復帰がかかる昇格決定戦を戦っていたが、丸山はそのピッチに立つこともままならない状況だった。

 昇格決定戦ではチームメートの奮闘により、無事に神奈川県リーグから関東2部リーグへの昇格を決めた。しかし、スカウティングやサポートに回っていた丸山の内心は複雑だった。直後に控える『#atarimaeni CUP』への思いは「なんとか最後に怪我から復帰して引退できれば……」という切なるもの。指揮官からの勧めで静岡・三島の治療院にまで赴いて受診し、慢性的な痛みこそ奇跡的に収まったものの、大会序盤は控えの立場で迎えることになった。

 だが、チームメートはここでも丸山が活躍するための道筋をつくってくれた。東海大は初戦の鹿屋体育大戦に3-1で勝利すると、丸山は後半アディショナルタイムからピッチに立って試運転を完了。中2日で迎えた2回戦では関東1部リーグ覇者の明治大に挑み、後半28分から出場した丸山の活躍もあって、延長PK戦の末に勝ち抜けを果たした。

「トーナメントで負けたら終わりという中、みんなが1回戦、2回戦を勝ち進んでくれた。自分も大会前はなんとか最後に怪我から復帰して引退できれば……と心の中で思っていたけど、徐々にコンディションが上がってきて、勝ち進んでいくたびにもっと長くサッカーをしたいという思いが強くなった」。

 上昇気流に乗ったチームはさらに準々決勝で日本大を破り、アミノバイタル杯のリベンジを達成。セントラル開催された日程を終え、味の素フィールドで行われる準決勝進出を決めた。都道府県リーグからの全国大会参加チームとしては、1994年の国際武道大に並ぶ過去最高タイの4強入り。この時点でもすでに歴史的なジャイアントキリングだ。

 それでも東海大は、ここからさらにたくましさを見せた。その中心となったのは、準々決勝から先発に復帰していた丸山だった。チームは準決勝の順天堂大、決勝の法政大戦をいずれも1-0で制したが、決勝点の起点はともにコーナーキック。いずれも丸山の左足から繰り出されたものだった。

「どのチームよりも自分たちはセットプレーがチャンスになると思っていたし、自分のキックが良くなければ得点の可能性は低くなると考えていた」(丸山)。決勝の試合後、法政大の選手・監督は口々に「セットプレーは警戒していた」という言葉を発していたが、その準備をも上回るストロングポイントが20年ぶりの日本一を導いた。

「まさか優勝できるとは思っていなかったけど、最後の最後に日本一が取れたので悔いなくサッカー人生を終えることができた。高校生の時も2〜3年生では予選で負けて全国大会にも出られずに良い景色を見られなかったけど、大学で4年間腐らずにやり続けたことが報われた」。

 大学最後の大会となった『#atarimaeni CUP』で自身初の全国制覇という勲章を得て、丸山は第一線でのサッカー人生に幕を閉じた。

■「苦労を乗り越えた経験」を社会人生活に活かす

 大会終了後、『ゲキサカ』の電話インタビューに応えた丸山は、何度も感謝の言葉を口にした。大学サッカーで自らを鍛え上げてくれた後藤太郎前監督と今川正浩監督だけでなく、小中学生時代を過ごした地元のJフィールド岡山や、「小さい頃から入るのが夢だった」という作陽高の指導スタッフたちにも話が及んだ。

「小中学校で教わった監督はずっと同じで、サッカーの楽しさであったり、技術の大切さを教えてくれた。とくにいまでも武器になっている左足のプレーにはいつもアドバイスをくれて、キックをたくさん練習するようになったのも監督のおかげ。左足のキックは中学の時点で強みになっているという自信がついた」。

「作陽に入ってからもキックやパスを評価してもらって、1年でトップチームに上がったけど、身体が小さくて守備が苦手で2年生の最初はBチームだった。ただ、その直前のスペイン遠征での経験で、野村(雅之)先生やコーチの方々から『守備ができるようになったな』と言われるようになっていた。ビジャレアルやレバンテなどのチームに立ち向かったことで、自分が変われた」。

 そうした経験が、より強度が高く、高校時代までとは異なるプレースタイルの大学サッカーを戦うためにも活かされていたという。

「攻撃ではボランチが飛ばされるというか、奪ったら縦に蹴る場面が多かったので、高校までのようにボールは回ってこなかったけど、どこかで落ち着きが必要になると思っていた。相手ペースの時は落ち着きを持って、足元につなぐプレーもやっていかないと一本調子になる。高校までの経験があったおかげで、そういうシーンで持ち味を冷静に発揮できた」。

 走力を前面に押し出す東海大のサッカーは、身長169cmの丸山にとってフィジカル的な負荷も大きかったが、高校時代のスペイン遠征でつかんだ守備のスキルを生かして適応。さらに、サッカー人生を通じて磨き抜いてきた左足の技術を生かしたプレーがチームに攻撃にアクセントを加え、日本一までたどり着く重要なピースとなった。

 そんな丸山は大学卒業後、全国に拠点を持つ大手住宅総合メーカーへの入社を控えている。就職活動を行っていた当初は「地元に帰りたいという思いが強かった」と故郷・岡山の企業を中心に見ていたが、知人の勧めで大手企業の採用試験を受けることを決断。「選考はリモートで大変だったけど、サッカーの活動ができなかったので逆に集中してできた」と、見事に競争を勝ち抜いて内定を獲得した。

 『#atarimaeni CUP』で主力を担った選手は大半がプロ志望で、DF面矢行斗(J2栃木)やFW武井成豪(J3今治)らJクラブ加入が決まった選手もいる。それでも丸山は、サッカー人生を「やり切った」と捉えているという。

「正直、Jリーグでプレーしてみたかったという気持ちはあるけど、この決断に悔いはない。高校時代は選手権に出られなくて、関東のレベルの高い選手と戦いたくて関東の大学に進学してきた。関東リーグやカップ戦を通じて、やれる手応えを感じられたことが本当に良かった」。

 これまでのサッカー人生で積み上げた自信は、新たなステージにつなげていくつもりだ。

「どのステージもそうだったけど、うまくいくことはそんなになくて、いつも苦労を経験してきた。それを乗り越えてきたからこそ、大学で日本一という結果を残せた。その経験は社会人に活きてくると思う。会社では大型施設の事業部に配属される予定と聞いていて、そこではたくさんの人に良い影響を与えられるチャンスがある。貢献できるどうかは自分次第。社会人になってイチからのスタートになるので、困難や思い通りにいかないことはあると思うけど、サッカーで苦しさを乗り越えた経験を活かしていきたいです」。

※学校の協力により、『#atarimaeni CUP』の大会後に電話で取材をさせて頂きました
(取材・文 竹内達也)

TOP