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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:可能性という名の蕾(松本山雅FC・圍謙太朗)

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松本山雅FCの守護神、圍謙太朗。(写真協力=松本山雅FC)

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 きっと諦めてしまいたくなるようなタイミングは、何度もあった。でも、そのたびに自分を信じてきたからこそ、30歳を目前に控えた今もJリーグのピッチに立ち、痺れるような経験を積み重ねている。「僕みたいに芽が出なくて、やめてしまう選手ってたくさんいると思うんですけど、出会いとか運とかタイミングとかで、どこで花が咲くかはわからないので、そういう選手たちを引き留める1つの要因になりたくて、僕が頑張らないといけないと常に考えてきました」。松本山雅FCの正守護神。可能性という名の“蕾”を大事に育ててきた圍謙太朗が、これから咲き誇らせていく花々は、その彩りをますます増やしていくに違いない。

 もともとサッカーは“つなぎ”のつもりだった。「両親がバレーボールをやっていたので、自分もバレーボールをやるつもりだったんですけど、通っていた小学校にたまたまバレーボール部がなくて、他の学校のチームに行こうとしたんです。でも、『練習に来るのはいいけど、試合は出れないよ』と言われたので、そのチームに入るのはやめて、『じゃあ体力づくりにサッカーを始めよう』と」。

 小学校3年生の終わりに地元の少年団でサッカーを始め、小学校4年生でゴールキーパーに。それも「手を使うバレーボールに近いから」だったという。だが、ある出来事が圍の負けず嫌いにスイッチを入れる。「小5の時のトレセンで、長崎市から県に選抜される時に、キーパーの中で自分だけ落とされたんです」。悔しい経験は少年の成長を加速させる。1年後。“つなぎ”のはずだったスポーツで、九州トレセンにまで選出されると、そこで人生を左右するような出会いが待っていた。

澤村公康さんがキーパーコーチで来ていたんです」。もともと育成年代の指導に定評のあった澤村の存在に、衝撃を受ける。当時は澤村が浦和レッズのアカデミーに行くことが決まっていたため、圍も浦和行きを模索したものの、家族とともに生活することが条件に含まれていたため断念。それならばと、澤村がベースを創り上げた熊本の大津高への進学を決意し、住み慣れた長崎の地を離れて、大津北中へ通うことになる。小学校6年生の時点で、圍は大きな決断を下したのだ。

 無事に入部した大津高サッカー部は、しかし圍が思い描いた理想とはかけ離れていた。「大津高校はキラキラした感じというか、綺麗なサッカーをするイメージがあって、練習もカッコいい練習着を揃えていて、それに憧れて入ったんですけど、入ってみたら……(笑)」。厳しい上下関係に、厳しいトレーニング。加えてまだ身長も170センチに満たず、声変わりもしていなかったような1年生キーパーに、居場所があるはずもない。

「立ち位置はメチャクチャ下じゃないですか。上の学年の先輩たちにはもちろん負けていましたし、そこに触れられるぐらいの感じでもなくて。学年の中でも3番手、4番手、あるいは5番手だったかもしれないです」。同学年に5人いたゴールキーパーの中でも、立ち位置は下の方。U-16日本代表に選出されていた藤嶋栄介(現・モンテディオ山形)は、1年生ながらトップチームにも声が掛かっていたが、圍にはその雰囲気すら微塵もなかった。

 苦しい時間を過ごしていた1年生も終わりに差し掛かる頃。16歳のメンタルに限界が迫っていた。「自分はプロになることをイメージしていたのに、『何をやっているんだ』という感じだったので、親に『もうやめる』って言ったんです。『もう無理だ』って」。しかし、電話口の向こうから聞こえてきた母親の言葉は、意外なものだった。

「『別にやめていいし、その後はもう知らないから、勝手に生きていけば』みたいに言われて、『ヤベー、オレ行く所ねえ』となって、『じゃあもう吹っ切れて頑張ろう』『やれる所までやろう』と気持ちが切り替わりました。それって相当心を鬼にしないと言えないはずなので、母親も電話の後で泣いていたんじゃないかなって思いますね。そこで『いいよ、いいよ』みたいに、僕の味方になってくれていたらたぶんプロになれていないので、凄く大事な出来事でした」。

 圍にはそれでも1つの希望があった。「以前から親には『オマエには計算して栄養も摂らせていたから、高3ぐらいには190センチを超える』と言われていて、やっぱり小さいから周囲には『筋トレしろ』とか言われていたんですけど、僕は『まだ身長が伸びるから、筋トレはやらない』と言い張っていて。当時の佐藤達朗コーチも理解がある人で、そういう部分は本当にコントロールしてくれていたので、感謝しています」。実際に高校2年生ぐらいから一気に身長は伸び始め、卒業時には190センチを超えるまでに。親の“予言”は正しかった。

 だが、今度は急激な成長に身体が追い付かない。「急に身長が伸び過ぎて、頭の感覚と実際に起きていることが全然違うような感じでしたし、臓器も成長に付いてきていなくて、原因不明の病気になったり、急に高熱が出たりしたこともありました」。3年生になっても、依然として立ち位置は3番手か4番手。全国ベスト4に入ったインターハイも、メンバーリストに彼の名前は見当たらない。

 そんな中でも、藤嶋と圍も含めたゴールキーパー陣は仲が良かったそうだ。「僕らは寮のお弁当を食べていたんですけど、栄介は自宅から通っていたので、『栄介、おかず交換しようよ』とか言って換えてもらって(笑) キーパーはドロドロだからって、部室にも3年生になるまで中に入れなかったので、自分たちでブルーシートを張って、家みたいにして5人集まっているみたいな感じでしたね」。キーパーという特殊なポジションをともにした仲間との交流は、今でも続いている。

 とはいえ、3年間でトップチームの公式戦出場はゼロ。「練習もトップチームの30人ぐらいが正規のフルピッチを使えるんですけど、それにも入れない100人ぐらいがやるような、何とかシュートを打てるスペースにゴールを4つ並べた狭い所で、3年間練習をしていました。だから、当時を知っている人からすれば、プロになるとかありえない感じだったと思います」。何とか周囲を見返したいという反骨心だけで、最後まで高校サッカーをやり切った。

 卒業後の進路は、意外な所で動き出す。恩師の澤村が主宰していたGKスクールの手伝いに参加した際、偶然出会った桃山学院大の田中慎太郎コーチが、圍の能力と人柄に惚れ込む。「慎太郎さんが試合にも出ていない選手に直接大津まで会いに来てくれて、『推薦で獲る』と言ってくれたので、『そんなに熱意を持ってくれるなら』という形で行くことになりました」。その頃は関西より関東の大学の方が圧倒的にプロを輩出していたこともあり、本人も関東への進学を希望していたものの、田中の熱意で翻意。これが結果的に彼のキャリアを大きく好転させることになるのだから、人生はわからない。

 チャンスは入学早々に舞い込んできた。1番手のゴールキーパーがリーグ開幕戦で肉離れ。2番手も第2節が終わった後の紅白戦で脱臼。第3節の前日にセットプレーの練習だけ参加した圍は、ほとんどぶっつけ本番で、公式戦のピッチへ解き放たれることとなる。相手は関西大。当時の関西学生リーグ最強のチームであり、のちのJリーガーがズラリと揃っていた。

「高校もそうですし、実は中学の時もあまり試合には出ていないので、『何年ぶりの公式戦や』みたいな(笑) だから、アップの時も緊張でガチガチになって、ボールをポロポロこぼしていたと思うんですよ。周囲に笑われていたのだけ覚えていて、慎太郎さんにも『オマエ大丈夫か?もう思い切りやればいいから』みたいな感じで言われて。試合内容なんてほとんど覚えていないです」。

 ところが、この試合になんと1-0で勝利してしまう。大学デビュー戦。しかも自身でも何年ぶりの公式戦かわからなかったような1年生ゴールキーパーの評価は、この1試合で一変する。「関大、メッチャ強かったです。僕は何もしていないですけどね。そもそも記憶がないので(笑) 運だけで乗り切った感じです」。その後の4年間。桃山学院大のゴールマウスには、圍が常に立ち続けることになる。

「大学では大津の同級生と対戦したくてしょうがなかったです。『今のオレを見ろ』じゃないですけど、今までのイメージを全部覆してやろうと思ってやっていたので、『何でも来い』みたいな感じで、かなり“イケイケ”なメンタリティでやっていました」。190センチのイケイケなゴールキーパーを、今度は周囲も放っておかない。2年から3年に進級する春休み。全日本大学選抜に選出されると、そこにはかつてのチームメイトの姿があった。藤嶋栄介。高校時代は手の届かなかった友人である。

「連絡もかなりもらいましたし、喜んでくれる人も多かったですね。ただ、全日本の中でも栄介の方が立ち位置が上だったので、『自分はまだまだだな』と思えたことはかなりのターニングポイントでした。自分のチームだと大事にされているけど、『全国的に見ると全然まだまだだぞ』と思わされたので、『やっぱりオレはまだ這い上がらないといけない』と、もう1回自分の立ち位置とか実力を見直せたタイミングで、その後が大学時代で一番伸びたと思っていますし、全日本に選んでもらえたのは自分の人生の中でかなり大きかったですね」。

 その後も継続的に全日本大学選抜の活動に参加したことで、圍の中に明確なサイクルができ上がる。レベルの高い選抜で足りないものを自覚し、それを大学に持ち帰ってトレーニングを重ね、試合の舞台で表現して自分のものにすることで、今度は再び選抜でのプレーに還元していく。目に見える自身の成長が、さらに上を目指す意欲を増幅させた。

「高校の時に一緒に練習をやっていたグループは当時から認めてくれていましたし、そのメンバーは『やっと来たな』と、『オレらの分も頼むぞ』と言ってくれていたので、最高の状態のモチベーションで取り組めていたのは覚えています。あとは、全日本で一番手を取って、栄介に勝つことは常に頭に置いてやっていました」。

 全日本大学選抜の活動はゴールキーパーが2人だけということも多く、自然と藤嶋とともに過ごす時間も長くなる。「栄介はずっと選抜の遠征にも慣れていたので、わからないことを聞いたりしていました。お互いに壁なく何でも言えるというか、相談されてもなあなあで『いいんじゃない』じゃなくて、ダメなものはダメって言い合える仲なので、そこは今でも変わらずやれていると思います」。友人であり、ライバル。お互いがお互いを高め合っていく。

 3年時のインカレでは、初めての直接対決も経験した。「凄く風の強い試合で、後半の最後に栄介のキックがメチャクチャ伸びて、ウチのセンターバックがバックヘッドして入るという(笑)」。オウンゴールによる失点で、0-1と藤嶋の福岡大が勝利。「まさかの感じで負けました。でも、チームとしても4回生を勝たせるためとか、自分の事よりもそっちの方が強かったですね。アレは伝説の試合です。関西のチームなので、その日の夜にはみんなで笑っていましたけど(笑)」。

 2013年7月。ユニバーシアードに挑む全日本大学選抜は、ロシアのカザンに乗り込む。初戦当日。圍は抑え切れない感情の発露を、はっきりと感じていた。「チームもトップとサブが分かれていて、ずっと栄介がトップで出ていたんですけど、試合当日にキーパーの所だけが変わっていたんです。その時は本当に身体が熱くなりましたね。当日までわからなくて、本当に『最後の最後で一番手を取った』みたいな感じだったので、優勝キーパーになろうとかなり集中していました」。

 ただ、圍の中には今までと違った想いも同時に湧き上がっていた。「一番手になれた喜びはありましたけど、いざそうなってみると『何で栄介に勝ったとか、負けたとかに固執していたんだろう?』って、そこで気付かされましたね。『固執するのはそこじゃないよな』って」。一方が試合に出る時は、100パーセントでサポートする。「その時はもうチームメイトだと思ってやっていたので、『2人でチームを勝たせるぞ』という感じの方が強くなって、『栄介の分まで頑張らなきゃ』と感じていました」。

 結果として初戦と準々決勝、PK戦で敗れた準決勝の3試合に圍が出場し、藤嶋も同じく3試合に出場。銅メダルという結果で大会は終了する。「栄介も言ってくれているんですけど、本当にライバルとして常にやってこれて、お互いに良い意味で影響し合っていると思うので、あの大会でもまた成長させてもらいました。でも、『まだまだだね』とは常に2人で言っています」。誰かに勝った負けたは、重要ではない。自分にどうベクトルを向けて、自分をどう高められるか。そのことに気付いた時、新たな視界が目の前に開けたのだ。

 2021年3月14日。松本山雅FCが誇るホームスタジアム、アルウィン。圍と藤嶋は自らが守るべきゴールの前で向かい合っていた。プロサッカー選手となって、8年目。プロサッカー選手となって、初めてJリーグのピッチで対峙する。

「前日は連絡を取っていなくて、暗黙の形で2人ともフェアにやりたいと思っていたので、そこは試合に出るかどうかは聞かずにいましたけど、週の頭には『試合に出たら頑張ろうね』って連絡はしました」。彼らに関わってきた多くの方々が、ずっと前から楽しみにしていた時間は、あっという間に90分が過ぎ去る。スコアは1-1。決着は付かなかった。

「楽しかったですね。やっぱり勝ちたかったですけど、引き分けならお互い無失点が良かったなというのが正直な気持ちです(笑) 点が入るなら勝ちたかったなって。でも、お世話になったコーチの方からは『引き分けで良かったな』って言われましたね」。

 試合後。2人はお互いのユニフォームを交換した。「『ユニフォームは替えようぜ』と言っていたんですけど、『こういう時期だから、終わって新品を交換しよう』となって、ロッカールームに行って交換しました。もうメチャクチャいい記念というか、普通じゃあり得ないタイプの交換だと思うので、宝物になるかなと思っています」。

 お互い口には出さないが、次に同じチームでプレーするのは、再び日の丸を付けたユニフォームに集う時だと決めている。やるべきことはまだまだある。そのことも2人はもちろん十分にわかっている。

 辛いことの方が圧倒的に多かった。Jリーガーになってからも、決して順風満帆にキャリアを積み重ねてきた訳ではない。だからこそ、自分の歩んできた道程には意味があると、圍は確信している。「今もそうですけど、キツいことの方が多くて。ただ、それが自分を作っていくというのは、大人になるにつれてわかってきたんですよね。だから、常に言っているし、思っているのは、僕みたいに芽が出なくて、やめてしまう選手ってたくさんいると思うんですけど、出会いとか運とかタイミングとかで、どこで花が咲くかはわからないので、そういう選手たちを引き留める1つの要因になりたくて、僕が頑張らないといけないと常に考えてきました」。

 嬉しい出会いがあった。以前、大津高の練習へ訪れた時のこと。名前も知らない後輩のゴールキーパーが、圍の姿を見て駆け寄ってきた。聞けばその選手は、トップチームの試合には出ていないという。「わざわざ挨拶しに来てくれて、『圍選手を目指してます』と言ってくれたんです。それはかなり嬉しかったですね」。

「そういう選手がたくさん出てくることが、僕が辿ってきた道に価値を付けてくれるというか、『頑張ってきて良かったな』って思える一因にもなるはずなので、まだまだですけど、僕がもっとトップレベルまで行くことで、今は苦しい立場にいる人にも、いつ芽が出るか、いつ花が咲くかわからないと感じてもらって、可能性を信じてやってもらえるように、これからも頑張りたいと思っています」。

 きっと諦めてしまいたくなるようなタイミングは、何度もあった。でも、そのたびに自分を信じてきたからこそ、30歳を目前に控えた今もJリーグのピッチに立ち、痺れるような経験を積み重ねている。松本山雅FCの正守護神。可能性という名の“蕾”を大事に育ててきた圍謙太朗が、これから咲き誇らせていく花々は、その彩りをますます増やしていくに違いない。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。株式会社ジェイ・スポーツ入社後は番組ディレクターや中継プロデューサーを務める。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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