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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:“100人目”という通過点(前橋育英高・山田耕介監督)

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前橋育英高を率いる山田耕介監督。キャップはおなじみのトレードマークだ

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 就任当初はすぐに故郷の長崎へ帰ろうと思っていた。縁もゆかりもない群馬に高校教師として赴任し、不良少年たちの中に放り込まれ、サッカーの指導どころではない日々に辟易としていたのだから。だが、その人が前橋育英高サッカー部の監督として過ごした時間は、この3月でちょうど40年を迎える。

「こんなに長くなるなんて思ってないよ。最初はすぐやめようと思っていたんだから。だいぶ長くなり過ぎましたね(笑)」。いつも通りの穏やかな口調でそう話す“山田先生”が、からっ風の吹きすさぶ上州の地から、プロの世界に送り込んだ教え子の数は、とうとう今年で100人を超えることになる。

 きっかけは、数年前からよく聞かれていた質問だった。「何年か前からいろいろな人に『プロ選手って何人ぐらい出たの?』って聞かれて、『80人ぐらいかねえ』なんて言っていたんだけど、正式にちゃんとわかっていなかったんですよ。でも、今回の大学4年生が数名プロになりそうだということで、ちょっと調べてみようと思ったんです」。

 山田先生は過去の名簿を引っ張り出し、甦ってくる思い出とともに1人1人の名前を書き出していく。「そうしたらちょうど90何人もいて、『ええっ?』となって、正式に調べようという話になったんですよね」。改めてOBの卒業後の進路を調べ、プロサッカー選手になった教え子を数えていくと、なんと98人にも上っていた。

 この春に同校を卒業し、V・ファーレン長崎でプロの道へと足を踏み入れる“98人目”、笠柳翼の入団記者会見時に、『前橋育英歴代プロサッカー選手』と銘打たれた資料が報道陣に配布される。懐かしい名前の並ぶリストを見ながら、「自分も『全員言え』と言われても、たぶん言えないです(笑)。やっぱり歴史がありますよね」と笑った山田先生だが、もちろんその歴史が一朝一夕で築かれたものでないことは、言うまでもない。

 先日、惜しまれながら逝去された小嶺忠敏監督の指導を仰ぎ、島原商高時代にはキャプテンとしてインターハイで九州勢初の日本一に。法政大でも主力としてプレーしており、社会人チームからの誘いも受けていた中で、教員採用の話があった前橋育英に社会科教諭として赴任することになる。

 1982年4月。期待に胸を躍らせる新任監督の目の前に広がっていたのは、想像していたものとまったく違う光景だった。サッカー部の部室には、吸い殻のたまった灰皿が。リーゼント頭に“ボンタン”を履いた部員たちを見て、来る場所を間違えてしまったと後悔の念が押し寄せる。

 ただ、真面目で血気盛んでもあった山田先生は、体当たりで部員たちと向き合い始める。マラソン、相撲、柔道、そして全員とドリブルの1対1。様々な勝負を繰り返し、彼らと時間を過ごしていくうちに、少しずつあることに気付いていく。

「格好はやんちゃなんですけど、意外と中身は勤勉なヤツが多かったんです。まず、嘘は言わないんですよ。悪いことをすればすぐにバレちゃうというか、『オマエ、ちょっと煙が出てるぞ』『はい、吸いました!』みたいなね(笑)。素直に言うんですよ。やんちゃはやんちゃなんだけど、弱い者いじめはしないし、男気があるようなヤツがいっぱいいましたね。筋が通っているんです」。

「“不良少年”と“非行少年”は全然違います。不良少年はやんちゃだけれども、人を助けたりするんですよ。『何かあったらオレがなんとかしてやる』みたいな。一番良くないのは、先生の前ではいい子ぶって、嘘を言って、ごまかして、何とか乗り切ろうとするヤツです。裏を返すと、僕の根本は不良少年と過ごしたあそこにあるんですよね」。山田先生はいつの間にか、前橋育英サッカー部に強い愛着を抱くようになっていた。

 『前橋育英歴代プロサッカー選手』リストの一番上。1人目のプロサッカー選手として記載されているのは、フランスワールドカップにも出場し、現在は名古屋グランパスでGMとして辣腕を振るう山口素弘だ。

「素弘は僕が20代中盤くらいの頃の選手ですから、相当いじめられたと思いますよ。『走らなきゃダメだ!』って。でも、日本を代表する選手になるとは、予想もしていなかったですね」と当時を振り返る山田先生だが、ある特徴が印象に残っているという。

「人を生かすプレーは物凄く上手でしたね。自分もまだ走れたので、一緒に紅白戦をやると、本当にやりやすかったです。優しいボールが出てきてね。それは実感していました。周りが生きてくるんですよ」。就任5年目。前橋育英が初めて高校選手権で全国大会に出場した時の主将でもある山口は、開会式で選手宣誓も行っている。

 同じくワールドカップまで辿り着いた松田直樹も、思い出の多い選手だ。「直樹は別格の身体能力でした。ちょっとモノが違うだろうと。400メートルとか800メートルを走らせたら、陸上選手でも行けたんじゃないかというぐらいで、サーッと走っていましたからね。185センチぐらいあって、ストライドも大きくて。『これは日本を代表する選手になるな』というのは、高校時代から分かっていました」。

 1998年度の高校選手権で初めて全国4強を経験し、翌年度も国立競技場まで勝ち上がった代からは、現在母校でコーチを務めている松下裕樹を筆頭に、4人のJリーガーが誕生した。「やっぱり松下の時ぐらいからじゃないですか。『ああ、こういう選手がプロに行ったら通用するんだ』という手応えを掴んだのは。岡田や大島があそこまで行くとは思っていなかったですからね」。

 山田先生が挙げた“岡田”とは、コンサドーレ札幌へと進み、今では司法書士へと転身を遂げた岡田直彦。“大島”とは高卒ルーキーとして加入した横浜フリューゲルスを皮切りに、19年間のプロ生活をまっとうした大島秀夫(現・横浜F・マリノスコーチ)。32期生の岡田の代から、56期生に当たる笠柳の代まで、すべての代が必ずプロサッカー選手を輩出しているが、その礎は岡田や大島、松下が在籍していた1990年代後半に着々と築かれていった。

 最も多くの選手がプロの門を叩いた世代は、前橋育英が初めて高校選手権で全国決勝まで勝ち上がった際に3年生だった50期生。日本代表にも選出された坂元達裕(オーステンデ/ベルギー)や小泉佳穂(浦和レッズ)、鈴木徳真(セレッソ大阪)、渡邊凌磨(FC東京)をはじめ、実に9人の選手が国内外でプロサッカー選手になっている。

「この代は凌磨と徳真がずっと代表に呼ばれていたので注目されていましたけど、佳穂も本当に良い選手でしたよ。右足でも左足でも蹴れて、俯瞰しながら周りが良く見えていて、『コレは絶対良い選手になるな』と思っていました。ボランチは徳真と大志(吉永大志/福島ユナイテッドFC)がいたので、いつも切り札、ジョーカーみたいな感じでしたね。ただ、インターハイの時は大志がケガしたので、佳穂を準々決勝ぐらいから出したら、優秀選手になっちゃって。『おお、入ったよ』って(笑)」。

 ともにFC東京U-15むさしからU-18へと昇格できず、前橋育英へと進学してきた小泉と坂元の思い出を、山田先生は楽しそうに教えてくれた。「あの2人はいつも一緒に練習していた印象はありますね。ウチに来た時は声変わりもしていなくて、2人だけ声が違うので、すぐどこにいるかわかりました。『佳穂もタツも来てるな』って。それが、ある日急にわからなくなっちゃって、『アレ?佳穂いる?タツいる?』って。『ああ、いるってことは声変わりしたんだな』って(笑)。でも、2人ともまだまだこれからですよね」。多忙な日々の中でも、彼らを含めた教え子が出ている試合は必ずと言っていいほどチェックしてしまうそうだ。

 そして、今年。「特徴がある選手が多かったですよね。『大学に行って、みんな伸びるんだろうな』と思っていました」と山田先生も評した、この春に大学を卒業する学年の53期生は、前述の50期生に並ぶ9人のプロ選手を輩出する代となった。

 高校選手権で初めて日本一に輝いたチームで、3年生として主力を張っていた彼らは、高卒で渡邊泰基(アルビレックス新潟)と松田陸(ツエーゲン金沢)の2人がJリーガーに。角田涼太朗(筑波大→横浜F・マリノス)も昨年夏に一足早くプロ契約を結ぶと、田部井涼(法政大→横浜FC)、後藤田亘輝(青山学院大→水戸ホーリーホック)、五十嵐理人(鹿屋体育大→栃木SC)、飯島陸(法政大→ヴァンフォーレ甲府)と相次いで内定を勝ち獲っていく。

 前述した笠柳の同級生であり、ザスパクサツ群馬への入団を決めた岡本一真が“99人目”をさらうと、記念すべき“100人目”となったのは、53期生屈指のムードメーカーだった宮崎鴻(駒澤大→栃木SC)。さらに、田部井悠(早稲田大→ザスパクサツ群馬)もそのあとに続き、前橋育英出身のプロサッカー選手は現時点で101人となった。

 指導者キャリアも40年に迫り、これだけの選手たちを育成してきた山田先生に今後のプランを問うと、こういう答えが返ってきた。「もちろん毎年毎年良い選手を出したいし、良いチームを作りたい。そのための努力をし続けることが大前提ですけど、彼らがプロ選手になるとか、指導者の道に行くとか、そうなっていくことによって、大きく言うと日本のサッカーがどんどん発展していってほしいなという気持ちはどこかにありますね。それが選手たちに望むことであって、つまりはサッカーを通してしっかりとした人格が形成されていけば、人生って良いものになるじゃないですか。そういうことをやり続けていきたいと思います」。

 そう言いながら、まるで子供のような笑顔を浮かべた山田先生の言葉は続く。「ウチの女房には『アンタなんてサッカーがなかったらどうしようもないんだから』っていつも言われてますから(笑)。『アンタはサッカーがなくなったらすぐ死んじゃうから、サッカーをやりなさい』って言ってくれて。『その通りだな』と僕も言っています。だから、これからもサッカーをやり続けると思いますよ(笑)」。

 “100人目”はあくまでも通過点。不良少年たちとの格闘からスタートした前橋育英と山田先生の幸せな関係は、まだまだこれからも、ずっとずっと続いていく。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。株式会社ジェイ・スポーツ入社後は番組ディレクターや中継プロデューサーを務める。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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