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[連載]被災地からのキックオフ~コバルトーレ女川の奮闘記~(vol.1)

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今連載はフリーライター佐藤拓也氏の“サッカー復興”へ少しでも力になりたいという使命感からスタート。「多くの人の命、生活が津波によって奪われた中、それでも町のために戦おうとする彼らの姿、その軌跡を、僕は1人のサッカーライターとして追わずにはいられなかった……」

 8月11日、コバルトーレ女川は宮城・女川町の子供たちを石巻市のグラウンドに集めてスクール活動を行っていた。笑顔でボールを追いまわす子供たちの姿は“日常”そのものであった。

 そして、時計の針が14時46分を指したとき、ある子供がコバルトーレの檜垣篤典選手兼ディレクターにこう話しかけてきた。

「お祈りをしなくちゃ」

 その子1人だけではなかった。参加したほとんどの子供が足を止め、目を閉じながら手を合わせた。

「正直、驚きでしたね。僕の中では心のどこかでサッカーをしているときぐらい忘れようという気持ちがあったのですが、子供たちはみんな、お祈りをしだしました。その光景を見たとき、5カ月前のことを鮮明に思い出したんです」

 あの時、女川町に生きていた者ならば、決して消えることのない記憶。お祈りをする子供たちを見て、檜垣の脳裏には“あの日”が蘇ってきたのであった。

 2011年3月11日、14時46分。三陸沖を震源とする大地震が発生。その直後に宮城県牡鹿郡女川町では大津波警報が鳴り響いた。それから約30分後、高さ20m近くの巨大津波がやってきて、女川の町のありとあらゆるものを流し込んで行った。“町が飲み込まれる”――その表現がぴったりだった。

 建物が壊れる音や流れる車から出るクラクションの音、そして人の叫び声が、津波に襲われる町の悲鳴のように大音量でとどろいた。波が去った後、まるで戦後の焼け野原のような風景が広がっていた。

 のどかだった港町はたった1日で、そこに人の暮らしがあったとは考えられないほど凄惨な姿へと形を変えたのであった。

「夢であってほしい」

 檜垣はそう願ったものの、それは現実以外の何物でもなかった。そんな壊滅的な被害を負った町の中で、あるサッカークラブが重要な役割を果たしたのである。それがコバルトーレ女川だ。

 震災直後、選手の多くが働いているクラブスポンサーの水産加工会社の工場に選手たちは集まった。そして、工場の製品を支援物資として避難所に届け、さらに給水活動を行うなど支援活動に尽力したのだ。

 道路が寸断されて物資が届かなかった町の中で彼らの活動は町民の救いとなり、その姿は“被災地を救うサッカーチーム”として、国内外のメディアで広く取り上げられ、注目を集めた。

 だが、「別に特別なことはしていない」と檜垣は平然とした表情で語る。 そして、こう続けた。

「気が付いたら動いていたという感じですよ。コバルトーレ女川という肩書の人間が動いたことで注目されただけで、周りの人たちと僕らはなんら変わりがないんですよ。たまたま僕らは全員が無事で集まりがよかっただけなんです」

 06年、コバルトーレは「女川スポーツコミュニティ構想」の一つとして、女川町を含めた石巻地域をスポーツで活気づけようという使命を受けて誕生したクラブである。その中で最も大切にしたことが「地域密着」であった。

 近江弘一GMはクラブの存在意義をこう語る。

「コバルトーレは地域に何ができるかということで活動してきましたし、地域貢献のツールなんですよ。震災前から我々はサッカーだけでなく、町のお祭りに参加もしましたし、町に花を植えたりしていました。幼稚園や小学校の巡回指導もしていましたね」

 だからこそ、震災後の行動は“特別ではない”のだという。 「今回の場合は被災した人たちを助けることが目的でした。それは、我々のクラブの存在意義そのものなんですよね。今回は手段が変わっただけで、震災前と意識は何も変わってないんですよ」と近江GMは説明する。

 女川という町にしっかりと根付いていたからこそ、緊急時に俊敏に動くことができ、町民たちの支えになることができたのだろう。ただ、それは一朝一夕で築いたものではない。5年という年月をかけて、町との関係を構築してきたのだ。

「最初の1、2年はなかなか町の人から理解を得られず厳しかったですね。でも、町の人と一緒に生活して、一緒に働いて、そして、いろいろ町の活動を行うことで徐々に理解してもらえるようになっていったんです。本当に地域に根付きはじめたのは3年目ぐらいからですね」と近江GMは振り返る。

 檜垣も「5年間、町のために活動してきたからこそ、こういう活動ができたのでしょうね。もし、1、2年前だったら、わからなかったですね」と語る。震災によって、コバルトーレ女川は地域の中で生きるコミュニティーとして積み上げてきた存在価値を見出すことができたのだ。

 とはいえ、彼らの前には厳しい現実が立ちはだかっていた。トップチームは活動休止を余儀なくされ、今季の東北社会人2部リーグの参加も断念せざるを得なかった。グラウンドには自衛隊のキャンプが張られ、練習すらできない状況が続いた。

 また、町民の多くが避難生活をしている中でサッカーをすれば、周りからどう思われるか分からない。今まで築いた信頼関係が崩れてしまうかもしれない。

 仕事の休み時間や休みの日に被害のなかった公園や工場の空きスペースでボールを蹴ることぐらいしかできなかったのである。本当に女川町でサッカーをする日は戻ってくるのか。選手たちは不安の日々を過ごすこととなった。

 震災から約1カ月後、ついに近江GMから選手たちにクラブの今後について語られた。

「必ず来年コバルトーレ女川の活動がきちんとできるように今から準備します」

 選手たちの表情には喜びと戸惑いの表情が入り混じった。近江GMも選手たちが納得してくれるかどうか不安で汗がにじみ出た。町には生々しく震災のつめ跡が残っている。この状況で来年本当にサッカーができるかどうかは分からない。

 ただ、壮絶な現実と向き合いながら、とにかく前に進むしかない。選手たちの思いは一つであった。

「コバルトーレ女川として今こそやらないといけないことがあると思うんです。それは子供たちを元気にすることと、町の人たちにサッカーをする姿を見てもらうこと。必ず女川町で試合をしてみますよ」

 檜垣の目には、1カ月ぶりに輝きが戻った。ガレキだらけの町の中からキックオフの笛が鳴り響いた。

[写真]津波の被害にあった女川町の風景。ここからサッカーを通じて復興へと向かう

(取材・文 佐藤拓也)

コバルトーレ女川・写真特集vol・1

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