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[SEVENDAYS FOOTBALLDAY]:フィールド・オブ・ドリームス(ラインメール青森・奥山泰裕)

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10番を背負ったMF奥山泰裕ラインメール青森イレブン。千葉相手に健闘したが、PK戦で無念の敗退に

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

「今日も勝てなかったので、まだサッカーはやめられないなって感じですよね。また勝つ日までというか、Jリーグに戻って彼らと対戦できれば一番いいですけど、そこをまず目標にして頑張っていきたいなって思います」。当時は足を踏み入れることすら叶わなかった、かつての“ホームスタジアム”で躍動した奥山泰裕は、そう言い切って、少し笑った。きっと32歳のサッカー小僧は、あのフィールドに再び立つ日を夢見て、また明日からもボールを蹴り続けるのだろう。

 2008年。東北学院大学で4年間の研鑽を積んだ奥山は、ジェフユナイテッド千葉へ入団する。長友佑都や東口順昭らもチームメイトに名を連ねた全日本大学選抜に、東北地区からは唯一名を連ねた実力者。他のJクラブからもオファーを受けていた中、夏のキャンプで仙台を訪れていた千葉との練習試合で好パフォーマンスを披露し、本人も「『練習試合やるか』ぐらいの感じだったので、まさか入ることになるとは思わなかった」クラブで“Jリーガー”という職業に就く。

「『スターダムを夢見て』じゃないですけど、『バリバリ活躍して』という気持ちを抱いて」飛び込んだプロの世界。ところが、現実は容赦ない。当時の千葉は、JFLに参戦するチームの“リザーブズ”も保有しており、彼の主戦場は例外なくそちら。時には全員参加と聞いたトップの練習に、1人だけ呼ばれなかったこともあったそうだ。「プロの壁みたいなものに阻まれて、ケガも凄くしたし、率直に苦しかったなって思うんですよね」とその時を振り返る奥山。2年目には「リザーブズ一辺倒」になり、憧れていたフクアリのピッチはどんどん遠のいていく。

 今から省みれば「逆にJFLでプレーしていても、そこでちゃんと結果を出していればトップに呼ばれる訳で、やっぱり自分の実力が足りなかったんです」と理解できる。とはいえ、渦中にいる時こそ、そう冷静さを保てるものではない。「たぶんそれでふてくされたり、顔や態度に出したりすることがあったと思うので、そういう部分は子供だったなと思います」。2009年7月にはリザーブズと同じJFLに所属していたガイナーレ鳥取へ完全移籍。奥山はフクアリの芝生を踏むことなく、千葉でのキャリアへ別れを告げることとなった。

 試練の時間は続く。2009年シーズンはJ2に昇格できなかったため、奥山は大幅に給与を減額された契約更新を提示される。強化部も他クラブのセレクションを薦めてはくれたが、対象は同じJFLやそれより下のカテゴリーのクラブ。その時、奥山は悟った。「現実を見ると、『自分でお金を出してセレクションを受けに行って、こういうチームに入るしかもう道はないんだな』と思ったんです。それなら『契約があるんだったら、J2にチャレンジすべきだな』と。鳥取に来てまだ何も成し遂げていないし、『環境のせいにして辞めるのは違うな』と」。クラブにアルバイトを並行することを伝え、契約書に判を押す。こうしてサッカーとアルバイト、二足の草鞋を履く生活がスタートした。

 勝負の2010年シーズン。「試合に出ていたら契約を変えてくれる約束も何とか取り付けていた」ため、出場時間を着々と伸ばしていた夏過ぎには契約変更を勝ち獲り、ボーリング場でのアルバイトに終止符を打つ形で、再びサッカーのみに専念できる環境が整うと、チームも見事リーグ優勝を達成し、J2昇格が決定。奥山も2年ぶりに“Jリーガー”という立場を取り戻す。

 鳥取がJ2に在籍していた3シーズンの中で、奥山がフクアリでプレーする機会に恵まれたのは2回。初めてピッチに立った2012年のゲームも、2度目の凱旋となった2013年のゲームも、どちらも感慨深かったが、より強く記憶に残っているのは後者だという。「あのゲームのことは凄く鮮明に思い出しますね。『こういうボールの流れで、真ん中にいて、こぼれてきて、その時はすべてが冷静に見えていて、切り返して決めたんだよなあ』と、今でもゴールの時の光景はパアッと出てきます」。

 後半16分に奥山は綺麗な得点を、千葉サポーターの目の前にあるゴールに叩き込む。「ジェフ相手に点を決めて、サポーターの人に『ウチにいたんだ。じゃあ何で使わなかったの?点まで取ってるのに』とか『凄くいいじゃん』って言われたい、みたいなことをモチベーションにして頑張っていたので、その時は最高に気持ち良かったです」と回想する奥山。ドローで終わった試合後。挨拶に行くと拍手とコールで応えてくれた千葉サポーターの温かさが、とにかく嬉しかった。

 2013年シーズンのJ2・JFL入れ替え戦に敗れ、新設されたJ3での戦いを余儀なくされた鳥取。一時は退団を視野に入れた奥山も、「戦力として見られていたし、クラブも『何とか1年でJ2に戻って欲しい』という感じだったので、『絶対上げるぞ』という気持ちで残った」ものの、リーグ戦でのスタメン出場は2試合にとどまり、シーズンが終わると契約満了に。この年いっぱいで6年を過ごした鳥取の地を離れ、Jリーグ合同トライアウトに臨む。

 今後の人生が懸かったトライアウトの舞台は、フクアリ。1年前のゴールも思い出し、「『たぶんいいプレーができるんじゃないかな』っていうメンタリティ」を携えながら、“3度目”のピッチに全力を注ぎこむ覚悟だった奥山だが、開始してすぐ負傷に見舞われてしまう。思い出の地に苦い記憶を刻み込み、アピールもままならなかったトライアウトを経て、彼の元には当時東北社会人リーグに所属していたラインメール青森からのオファーが届いた。

「そのまま引退するのは、自分の中で悔しい気持ちが大きくて、『辞めるってどうなの?』って凄く思ったんです。その前の年に結婚もしていましたし、プロでやらせてもらえる所があるんだったら、どんなリーグでもいいから、やっぱり何か良い思い出として“成し遂げる”とか、そういうポジティブな感じで『自分はやれる所までやった』と言って辞めたいと思っていた」奥山にとって、JFL昇格とその先のJリーグ昇格という明確な目標は、十分魅力的に映った。「『生活できる。じゃあやるぞ』って感じでした」。2015年。奥山は青森の地で再スタートを切る決断を下す。

 その年の地域決勝で優勝を飾り、JFLへと駆け上がったラインメールは、昨シーズンのリーグ戦でも2位と躍進。奥山も「まだJ3ライセンスはないんですけど、来季ぐらいに申請するとかいう話も出ているんです」と認めたように、周囲の気運が高まりつつある中、2018年シーズンは経験豊富な望月達也監督を新指揮官に迎え入れ、内外に本気度を示す。天皇杯予選でも青森県を制し、3年ぶりの本大会出場を決めると、初戦で作新学院大学を相手に3-3と打ち合い、最後は10人ずつが蹴り合ったPK戦をモノにして、2回戦へと駒を進める。そこで待っていたのが、千葉という因縁の相手と、フクアリという因縁の舞台だった。

 6月6日。天皇杯2回戦。“4度目”のピッチへ、奥山が歩みを進めていく。「今までいろいろな決断やタイミングがあったけど、そういうものがまたここでやってくるのは、『運命的な感じもあるな』と思った」一戦は、前半わずか3分にスムーズなサイドアタックから、最後は太田徹郎が冷静な一刺しを千葉ゴールに突き立て、ラインメールが先制点を奪取する。

 以降も守備に回る時間が長い状況でも、時折アタックの意欲を窺わせるラインメール。41分には奥山が右サイド深くまで侵入し、折り返したボールは味方と合わなかったものの、「『オマエも若くないから』みたいに言われて(笑)、周囲がコンディションに気を遣ってくれている部分もあるんですけど、そこで気を遣わせなくてもいいくらい、最後まで元気に走りたい気持ちはあります」と主張する10番は攻守に奮闘。前半はラインメールが1点をリードして、45分間が終了した。

 後半6分。奥山に見せ場が訪れる。右サイドを得意のドリブルで疾走。マーカーに掴まれながらも、前へ、前へと突き進み、最後はボールを失ったが、アグレッシブさを誇示してみせる。「マーカーが1枚イエローカードをもらっていたので、あそこで頑張らなくても、もうちょっとうまさを出して自分が倒れたら退場だったかも、ということも終わってから気付きました。でも、あの時はゴールしか見えていなかったので」。正直な言葉にプレースタイルと実直な性格が滲む。

 29分の失点で追い付かれたラインメールに、後半最初の決定機が到来したのは残り5分。左サイドで得たCKを太田が蹴ると、「週に1度セットプレーの練習があるんですけど、僕が最近はニアに入るようにしていて、凄く速いボールが来て、マークも外れていたので、本当にうまい感じで逸らせた」奥山のフリックは辛太漢に届いたが、頭に当たったボールは枠の左へ消えていく。するとしばしの休息を経て、突入した延長の前半5分。ピッチサイドの交替ボードに“10”の数字が浮かんだ。「足には結構キテましたけど、『まだできるぞ』というか、いつまでも続いてもいいくらいの感じだった」奥山の“4度目”は95分間で幕を閉じ、全員が年下の仲間たちへ想いは託される。

 突き放され、追い付いた延長でも決着は付かず、2試合続けて挑んだPK戦。サドンデス方式までもつれ込んだ熱戦は、後攻だったラインメール7人目のキックがクロスバーに阻まれ、千葉の勝利でエンディングを迎えた。「フクアリでプレーすることは凄く特別な意味を持っていたので、最後までピッチに立っていたかった気持ちはありますけど、チームが頑張って一度追い付いてくれたので、そこは勇気をもらいました」と話した奥山。かつての“ホームスタジアム”で古巣に勝つという夢は、“5度目”以降へと持ち越された。

 最近になって、気付いたことがある。「若い時はクロスも全然下手で上がらなかったのに、『30歳を超えると、そこまで練習しなくても良いボールが上がるな』とか、そういう楽しさもあります。『ボールに毎日触るだけで上手くなってるな』『昔はこういうこと、できなかったんだけどな』とか。逆に『スピードでちぎれなくなったな』というのもありますけど、『じゃあ、どうしようか』っていうのが凄く楽しいんです」。すべてはここまでサッカーを続けてきたからこそ。それはこの日の“4度目”にも、同じ言葉が当てはまる。

「いろいろな辛い経験があったからこそ、逆にまだサッカーをやれているんだなと。もっとそういう舞台に立ちたいし、『まだやり残したことがあるな』っていう強い気持ちがあるので、しがみついて頑張れているのかなという想いはあります。だから、今日も勝てなかったので、まだサッカーはやめられないなって感じですよね。また勝つ日までというか、Jリーグに戻って彼らと対戦できれば一番いいですけど、そこをまず目標にして頑張っていきたいなって思います」。

 あるいは千葉に入っていなかったら、こういうキャリアは辿っていなかったかもしれない。それでも千葉に入ったから、こういうキャリアを辿ったとも言えるだろうか。サッカーの楽しさを問われた奥山は、こう答えている。「やっぱり正解とか答えがない所だと思います。ジェフでは試合に出る機会がなかったけど、他のチームに行ったらジェフ相手にも点が取れるし、こっちのチームでは合わないけど、そっちのチームでは合うとか、パスの選択肢1つでも『オレはこっちに出したけど、もっとこっちも空いてたんじゃない?』とか、すべてに正解がないというか、やってもやっても答えがはっきりとは決まっていないので、そういう所は凄く楽しいですね」。

 サッカーに明確な正解や答えがないように、人生にも明確な正解や答えはきっとない。ただ、サッカーも人生も、自らの決断でその行く道を切り拓こうとする者には、自らの進むべき道がその視界の先に見えてくるはずだ。だからこそ、そのことを自らのキャリアで証明し続けてきた奥山は、あのフィールドに再び立つ日を夢見て、また明日からもボールを蹴り続けるのだろう。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」


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