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“高校で引退”から這い上がった男、U-22日本代表DF亀川「今年は大きな勝負の年」

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 料理人。高校3年生のときに、本気で考えていた進路だ。しかし、アビスパ福岡のDF亀川諒史は現在、手倉森誠監督率いるU-22日本代表の常連メンバーとなり、日本サッカー界の未来を背負って立つ選手の一人となった。自分自身に自信を持てなかった無名の高校時代から五輪代表戦士へと這い上がってきた男が、現在、過去、そして未来を語る。

移籍は悩みましたが
新しい環境で挑戦したかった


――今季、3年間所属した湘南ベルマーレからアビスパ福岡に期限付き移籍しました。移籍の経緯を教えて下さい。
「湘南との契約も残っていましたし、『戦力として考えている』と言われていました。ただ湘南での3年間を振り返ってみると、1年目はケガで公式戦にまったく絡めずに終わり、2年目はJ1で20試合に出場しましたがチームが降格という形になり、3年目の昨季は18試合に出場してチームもJ1に昇格できましたが、自分の中で納得できていない部分がありました。『本当にチームに貢献できたのか?』と考えたときに、『貢献した』と胸を張って言えない自分がいたんです。そのときにアビスパから話を頂いて、しっかりと話を聞くうちに、違う環境に身を置いて成長したい気持ちが強くなってきました。ただ、湘南からも『一緒に戦おう』と言ってもらえていたし、やっぱりJ1の舞台でプレーしたかったので悩みました。本当に悩みましたが、3年間在籍している湘南で甘えたくなかったし、自分の中の可能性に賭けたかったので、新しい環境で挑戦しようと移籍を決断しました」

――初の移籍ということもあり、難しさもあったと思います。
「僕自身、知らないところに行ってグイグイ行けるタイプではありません。環境に慣れれば自分を出していけますが、それまでに時間が掛かるというのは自覚していたので不安もありました。でも、アビスパはいいチームメイトばかりですぐに打ち解けられたし、また違った世界が見えてきていると感じています。あとは自分の決断が間違っていたと絶対に思いたくなかったので、ガムシャラな部分もありました」

――U-22日本代表でチームメイトのFW金森健志選手の存在も大きかったのでは?
「健志とは代表で仲が良かったので、彼の存在はもちろん大きかったです。僕と健志は代表では左サイドでコンビを組むことが多いのですが、2人ともなかなか試合に絡めずに、あるとき2人で『いつか、俺たちのコンビで試合に出よう』という話をしていたんです。だから今回アビスパに来て、『アビスパでコンビを組んで活躍すれば、それが代表にもつながるはずだ』と健志と改めて決意しました」

――福岡では左SBや中盤の右アウトサイドで起用されています。
「湘南のときも右と左で半分くらいずつ出場していたので両サイドでプレーできるのは自分の強みの一つです。井原正巳監督からも『両方できるように』と言われていますし、自分の中では右サイドでも左サイドでも、最終ラインでも中盤でも同じレベルでプレーできると思っています」

――帝京三高時代にはFWとしてもプレーしていました。
「高校1年のときはFWでしたが、ポジションがだんだん下がっていきましたね。FWをやってトップ下、サイドハーフ、ボランチときて、SBとCBですから。高校のときは、GK以外のポジションは全部プレーしてきました。ただ、SBでプレーしていても、ある局面ではゴール前にいるときもあるので、FWでプレーしていた頃を思い出してゴールへの意識は相当強いものが出ます。それはプラスだと思うし、いろいろなポジションを経験してきたことは自分の武器だと感じていますね」

――ただ、自分の良さが一番出るポジション、ここで勝負したいポジションがあると思います。
「僕の持ち味はボールを奪った瞬間に前に出て行けることや、味方のボール保持者に対して、ランで助けられることです。攻守の切り替えのスピードや前に出て行く推進力では他の選手に負けたくないし、一番後ろから駆け上がっていくのが好きなので、それを考えると最終ラインで勝負したいのかも知れません。もちろん僕のクロスから得点が生まれるのが理想ですが、たとえボール保持者を追い越してボールをもらえなくても、その選手がクロスを上げて得点に絡んでくれれば上下動は苦になりませんし、何より自分自身がそこにやりがいを感じています」

僕は本当は高校で
サッカーを辞めるつもりだった


――リオデジャネイロ五輪を目指す代表には、手倉森誠監督が就任以降、コンスタントに招集されています。
「手倉森さんが監督に就任してからコンスタントに呼ばれていますが、それまでの僕は代表には縁がありませんでした。高校時代は無名で高校選手権にも出場したことがなかったので。初めて代表に呼ばれたときに『自分の年代はリオ世代なんだ』と実感して五輪が大きな目標に変わりましたが、プロ生活が始まった頃は五輪は遠い世界、違う世界のように感じていました。だから自分と同じ年代の代表チームを見て、『こういう選手が選ばれているんだ』『あの高校の選手は代表選手なんだ』という感想を持っているだけでした。久保裕也(ヤングボーイズ)なんかは京都で試合に出ていて、A代表にも呼ばれていたので有名人でしたよ」

――ただ今では、違う世界だと感じていた五輪を目指す代表チームの常連メンバーの一人になりました。
「中学のときのクラブチームのコーチからは『お前が代表に入っているなんて考えられへんわ』と今でも言われますし、誰も僕が代表に入るとは思っていなかったと思います(笑)。ただ、だからこそ高校生のときの僕と同じ境遇の選手が今の高校生にいたとしたら、諦めずに頑張り続ければその先に何かあるし、代表まで辿り着けることもあるということを伝えたいですね」

――高校選手権の出場経験がなく、年代別代表にも呼ばれたことがないということで劣等感もあったのでしょうか。
「僕は本当は高校でサッカーを辞めるつもりでした。もちろん、サッカー選手は憧れでしたが、プロになれるとも思っていなかったし、身近にプロになった選手もいなかったので現実的に考えられませんでした。だから、高校3年のときに進路希望を出すときも、最初は料理の学校に行きたいと思っていて。いとこが料理人をしていて、単純に格好いいなという気持ちがあって、僕も料理人になりたいと本気で思っていたんです。だから、サッカーは高校で辞めようとしていました」

――何がきっかけで、プロサッカー選手の道を進むことになったのですか。
「高校の監督から『お前はサッカーを続けた方がいい』と言われて、悩んだ時期がありました。その時期に湘南から練習参加の声が掛かったのですが、これも偶然が重なったことでした。他の選手を見に来ていた湘南のチーム関係者が、自分のプレーもたまたま見てくれて声を掛けてくれたんです。一度練習に参加して、その後にもう一度練習に参加をして正式にオファーを頂きました。練習には参加しましたが、絶対に無理だろうなと思っていたので驚きましたね」

――料理人という目標がある中でのオファーとなりましたが、決断に迷いませんでしたか。
「僕は02年の日韓W杯を見てサッカー選手に憧れてプレーし始めたのですが、そのサッカー選手になれるチャンスが巡ってきたときに親がすごく喜んでくれて、僕自身もサッカーで勝負したい気持ちが強くなっていました。当時、大学からも誘いがあったのですが、大学で4年間サッカーを頑張っても、もう一度プロサッカー選手になれるチャンスがあるとは限らないし、料理人はサッカー選手が終わった後にチャレンジできるかもしれないと考えました。だから『一生に一度のチャンスだ』『ここで一度勝負してみたい』と思い、今の道を決めました」

――そのときの決断は?
「もちろん間違っていなかったと思います」

代表はゼロからのスタート
まずはアビスパで結果を残す


――3月に行われたAFC U-23選手権予選(リオ五輪アジア一次予選)ではU-22日本代表に選ばれながらも、負傷で途中離脱しました。
「僕はずっと年代別代表に入っていたわけではないので、与えられた一つひとつのチャンスを生かさなければいけないと思っていました。軽い肉離れだと思っていたし、多少痛くても我慢してやりたかったのですが、このまま続ければチームに迷惑を掛けると思いました。手倉森監督から『絶対に残ったメンバーで最終予選の切符を手に入れるから、残ったメンバーに託してくれ』と言われましたし、チームメイトからも『こっちも頑張るから、リハビリ頑張れよ』と言われたので、仲間を信じていました。だから、3連勝で最終予選の切符を手にいれてくれて本当に良かったと思います」

――日本は現在5大会連続で五輪に出場していますが、プレッシャーは感じませんか。
「僕はプレッシャーを感じないタイプなので、そこはあまり意識していません。ただ、僕たちは昨年1月のAFC U-22選手権や昨年9月のアジア大会でベスト8で負けているので、周りからは厳しい目で見られていると思います。その評価を覆したい気持ちはありますね」

――リオ五輪に出場するためには来年1月のAFC U-23選手権(リオ五輪アジア最終予選)で3位以内に入る必要があります。まず、ベスト8の壁を越えるには何が必要だと思いますか。
「トーナメントになれば、きれいごとは通じないと思っていますし、内容うんぬんよりも結果が求められます。僕は昨年1月のU-22選手権でアジアレベルを肌で感じましたが、日本にはうまさが備わっていると思いますが、球際の強さで劣る部分があり、うまさだけでは上には行けないと感じました。球際の強さを身に付けるには習慣づけと言いますか、練習の中でも紅白戦の中でも常に本気で臨む必要があると思っています。『ここでボールを取らないと点を取られてしまう』『絶対にボールを奪い切る』という気持ちを持って練習をする。湘南のときにチョウ・キジェ監督から「練習がすべて。練習で戦えない選手は試合でも戦えない」とずっと言われてきたので、そこは意識していますし、練習を100パーセントでこなすことで球際での強さも少しずつ身に付いてきていると実感しています」

――手倉森監督はチームでレギュラーを取る選手が増えてほしいと話していました。
「代表は集まる期間が限られているので、個々がどれだけレベルアップできるかは本当に大事です。試合に出なければ分からないこともたくさんあるので、まずはアビスパでレギュラーの座を確保しないといけません。若い世代の選手が活躍することで、チームのレベルアップにもつながると思うので、アビスパでたくさんの試合に絡めるように頑張りたいです」

――現在、アンダーアーマーの「クラッチフィット」を履いてプレーしていますが、スパイクの履き心地を教えて下さい。
「『クラッチフィット』を初めて履いたときに、名前のとおりすごく足にフィットするなと感じました。縦への動きにも横への動きにも対応してくれるので、すごくプレーしやすいです。このスパイクは昨シーズンから履いていますが、軽過ぎず、重過ぎないところや、人工皮革を使用しているところも好きなところで、自分の理想に近いスパイクだと感じています」

――デザインはいかがでしょうか。
「カラーがピッチ上で目立っていいですよね。僕自身はプレーではなかなか目立てないので、助かります(笑)。祖母がテレビで僕の試合を見てくれているのですが、『人がいっぱいいるからどこにいるのか分からなくなるけど、スパイクの色を見ると分かるよ』と言われるくらい目立っているようなので、そこは嬉しいですね」

――最後に今後の目標を教えてください。
「U-22日本代表ではAFC U-23選手権予選前に離脱してしまったので、自分の中ではもう一度ゼロからのスタートだと感じていますが、代表に呼ばれるためには、まずはアビスパで結果を残すことが絶対条件になります。アビスパでしっかりレギュラーを取るだけでなく、自分の良さを出して結果につなげていきたい。そして代表にも選ばれるだけで満足するのではなく、試合に出て結果を残していきたいです。来年のAFC U-23選手権につなげるためにも、今年は自分の中で本当に大きな勝負の年だと感じています」

(取材・文 折戸岳彦)

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