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【インタビュー】横浜FM小池龍太「僕の人生はもっと苦労が多かった」JFL→欧州の“シンデレラストーリー”を導いた、いくつもの決断

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 横浜F・マリノスのDF小池龍太は、JFLから社会人サッカーキャリアをスタートし、J3・J2・J1と着実にカテゴリを上げてきた数少ない選手だ。2019-20年にはベルギーで念願だった欧州リーグにも挑戦。そのトライはコロナ禍による所属クラブの財政難で志半ばに終わったが、常に自らの力を試される舞台に身を置き続けてきた25歳に、数奇な経歴の裏で行っていた節目での決断とステップアップへの思いを聞いた。

―(取材時点で)これから2次キャンプが始まるとのことですが、ここまで調整はどのように進んでいますか。
「まずはF・マリノスのフットボールを自分たちが体現していくという中で、ベースの部分といいますか、これまで積み上げてきたものをボールを使った中で再構築するというトレーニングをしています。この時期は素走りのトレーニングをするチームもあるんですが、F・マリノスではボールを使ったトレーニングの中で、ベースの部分を自分たちの戦術に落とし込むことができている。いい調整ができていると思います」

―昨季はシーズン途中の加入だったので、キャンプから合流するのは初めてだと思います。新鮮なものはありますか。
「昨年の夏前に加入して以降、ずっと試合が続いたので、戦術を理解するのに時間がかかってしまいました。また試合の中で見つかった自分の課題を練習で克服できないという状況に陥ることもあったので、今年はキャンプに課題を持ち込むことができ、自分のスキルアップや周りとのコミュニケーションの質や量を上げていける大事な時間になっています。そういう意味では、スタートから入れるということは今後にも関わる大きなメリットだと思っています」

―昨季はコロナ禍の影響で凄まじい過密日程となりましたが、どのようにシーズンを総括していますか。
「本当に試合だらけだったという感覚です。その中で、自分たちらしさを出し切れなかったシーズンだったので、悔しい1年でした。F・マリノスはもっとできるチームですし、もっとやらないといけないという葛藤も多かったです。個人的にも昨年F・マリノスに加入する前には、海外での挑戦に区切りがついてしまい、もう一度這い上がるというシーズンだったので、心情や身体的にも難しく苦しいシーズンでした」

―そうした中、先ほど語っていたような自身の課題はどのようなところにあると感じていましたか。
「試合で全てを吸収しないといけないという中で、探り探りにトレーニングや試合をやっている部分があったので、そこが僕の中で悔いが残っているところです。今季はそういったところを全て克服して、もっとアグレッシブにやって、監督やチームメートの信頼を勝ち取れるようにやっていきたいと思っています」

―チーム内にも昨季の悔しさを乗り越える気運のようなものは感じますか。
「悔しさといいますか、この1年をより良いものにしていきたい、またチャンピオンになるんだというものを誰よりも強く掲げてくれているのが(アンジェ・ポステコグルー)監督なので、そういったボスの意気込みや熱量というものが自然と僕らを引き上げてくれています。また僕らも、自分たちからそういった熱量を出していこうというポジティブな雰囲気の中でトレーニングができています。徐々にモチベーションも上がり、トレーニングの強度や激しさも上がっている中で、全員がライバルでありながら協力をし合い、良い雰囲気で取り組めたらと思っています」

―ここからは過去のことについても聞かせてください。小池選手が現在のようなプレースタイルになったのはいつ頃ですか。
「サイドバックをやり始めたのは中学2〜3年の頃です。当時は前目のアタッカーポジションで勝負したいという気持ちが強かった中で、JFAアカデミー福島の当時の監督が『これからのサッカー界はサイドバックが試合をつくったり、ゲームをつくるポジションになるんだぞ』ということを熱く語ってくださって、『プロになるのであればそういったポジションはすごく魅力的だし、やってみたらどうか』という話をしていただき、サイドバックでプレーするようになりました。当時から攻撃は好きだったので、最初はどうしても前に行くこと、攻撃することが多かったんですが、時が経つにつれて攻撃してくる選手を止めることも楽しくなってきましたし、ゲームをつくることの楽しさもわかってきました。監督が言ってくれたことを徐々に感じられるようになっていた形です」

―その後はサイドバック一本でしたか。
「たまに右サイドハーフをやることもありましたが、右サイドバックでプロになろうというふうになっていきました。それまではトップ下もやっていました」

―コンバートされた時には、長友佑都選手や内田篤人選手らの活躍で「日本人のサイドバックが世界で通用する」と言われていたような時代でしたか。
「そのもう少し前ですね。まだ当時は全然言われていなかったと思います。僕がやるようになって2年くらいしてから、長友選手、内田選手がサイドバックとして徐々に取り上げられるようになってきていた記憶があります」
(※JFAアカデミー福島U15在籍は2008〜11年。長友、内田の欧州移籍は10年夏)

―サイドバックをやるとなった時、当時はどのような選手と自分を重ねていたんですか。
「それが本当にあまりいなくて、僕自身もすんなりサイドバックになれたわけではなかったです。思春期というのもあって点を取りたいという気持ちが強かったですし、ポジションに納得はしていたけれど前線の選手に憧れていました(笑)。なので、まずは自分がやっているプレーを見て、どうしたら自分はうまくいくのかとか、何が自分に足りないのかというものを補うことで精一杯でした。自分ができることを整理していった中で、ようやく日本代表の両サイドバックであったり、海外ではダニエル・アウベス選手であったり、徐々に好きな選手がサイドバックになっていきました」

―当時はまだ前線の選手に憧れがあったんですか。
「メッシ選手、クリスティアーノ・ロナウド選手にはすごく憧れていましたし、あのように多く点を取る選手がプロの世界に入れば大切なのかなという認識でいたので、そうではない生き方といいますか、そういった選手を支える選手がどれだけ重要なのかということは中高年代で徐々に理解していったと捉えています」

―そういったプレースタイルの変化に適応していったことに加えて、これまでの経歴も目を引きます。どのような思いでキャリアを選んできましたか。
「よく“シンデレラストーリー”と綺麗な言葉で特集してくださったりして、それはすごくありがたいことですし、すごくうれしいことなのですが、僕の人生はもっと苦労が多かったなと思います。いまだから笑えるようなことも当時は結構苦しかったですね。ただ、JFL(のレノファ山口FC/当時)でスタートして1試合目に出た時、4年でJ1に行きたいですという言葉を発してきて、自分で有言実行することができました。また(柏レイソルで)J1に上がってからは2〜3年で海外に出るという目標もクリアできました。そのために努力という中では目標というものが大事で、そういった目標に向かって地道にトレーニングしてきた結果、順序よくステップを踏めたと思います。その気持ちはいまも昔も変わりません」

―さらに振り返ると中学でJFAアカデミー福島に入ったことも、小学6年生には重い決断だったと思います。
「失礼な話なのかもしれませんが、たしかに当時はJFAアカデミー福島がどういうところなのかをわかっていなくて、小学校の時に所属していたチームの監督に『こういったチームがあって、面白い取り組みだと思うし、プロになるのであればそういった決心や決断も大事だと思う。トライしてみるか』と言われてセレクションを受けてみました。正直、合格するとは思っていなかったので、合格した時はびっくりしましたけど、それ以上にワクワク感が強かったです。ただ、いざ入学してみて、親元を離れる寂しさだったり、全員が初めて会う人だったということもあって苦労は大きかったです。それでも、同じ苦労を共にする同級生が15人いたことはチームとしても大きかったし、いまも年に一度、みんなで顔を合わせて話し合う家族のような絆を持つメンバーがいたことで、苦労を乗り越えられたと思います。いまでも各方面で一人一人が頑張っているので、お互いに刺激をし合っていて『自分も頑張らなきゃ』と自分を奮い立たせられる要因になっています。プロになるためというだけじゃなく、一人の人間として育てられたいい場所だったなと思います」

―JFAアカデミーでは松本昌也選手(磐田)が一つ先輩で、金子翔太選手(清水)や安東輝選手(松本)と同世代ですよね。彼らを筆頭に世代別代表に入っていた選手も多かったですが、ご自身の立場としてはどのように捉えていましたか。
「僕は世代別も含めて日本代表には一度も選ばれたことがないので、うらやましかったというのが一番大きかったです。やはり同じチームから日本代表選手が出て、日本を背負って帰ってくるということのうらやましさと、そして悔しさは強かったです。そうやって区別される中、このままプロになれるのかなという不安もありましたし、どうしたらプロになれるんだろうとずっと考えていました。ただ、それも含めていろんな準備の部分に取り組み、いまのままじゃダメだなという根本的な考え方がついて、『次の日も、その次の日も』というレベルアップにつながったのかなと思っています」

―「本当は俺もあれくらいやれる」というよりは「どうしたらやれるか」というメンタリティーだったんですね。
「どうしたら……というのもありましたし、うらやましいという気持ちもありつつも、自分をけっこう客観的に見ることができていたかなとも思っています。代表に行くことが全てではないし、最終的に自分がどうなりたいのか、どうあるべきなのかということを客観視できていました。そうやって自分がいまどういう立場なのかとか、どういう人間なのかというところが構築された時代だったと思います」

―客観視できていたからこそ、難しい進路を決めることができたのだと想像します。高校卒業時には大学に進むという選択をする選手が多い中、JFLの山口に進んだのはどのような思いがあったのですか。
「あの時は自分の中でも1、2を争うくらい悩んだ時期でした。というのも、まずはプロになりたいという明確な目標がある中で、プロとして所属するクラブがないという明確な結果がありました。その状況を目の当たりにした時に『足りないものがあるから大学に行くほうがいいんじゃないか』という自分がありながらも、『それだとプロになれない』と思う自分との葛藤がありました。ただ、やはり『プロとして人生を歩みたい』という強い気持ちがありました。観客の方からお金をもらって試合をすることで、自分のプレーを見せられるというところがプロフェッショナルだと考えています。もちろん大学に行って頑張ればプロにはなれるんですが、『サッカーへの欲がどうやったらより強くなるか』という自分の生き方も考えると、ファン・サポーターの方々がお金をかけて自分のプレーを見に来てくれるという環境でプレーしたほうが自分が成長するんじゃないかという自覚がありました。だから僕の中では大学に行くことはできないなということで、アカデミーのコーチの知り合いが山口の監督だったので、セレクションを受けにいかせていただき、加入できることになりました」

―そういった決断を着実にし続けた上で、ここまで歩まれてきたことと思います。なかなか途中で挫折する選手も多い中、ここまで来ることができた自分のことを褒めてあげられるなと思う点はありますか。
「極論、僕は『どこにいるか』よりも『どこで何をするか』が一番だと思っていて、たとえばもし僕が高校を卒業してすぐにJ1の選手になっていて、そこで『プロになれてOK』と思うような選手であれば、いまはここにいないと思います。そうではなく、契約金や年俸がゼロというところからサッカーに必死に打ち込み、将来の自分を見据えながら『山口の地で何をするか』『どういう自分になりたいか』というところがしっかり明確であったことや、それを一日も妥協せずにできたことが大きかったと思います。自分にとってその3年間は誇らしいことですし、そのスタートが山口であったこともすごく恵まれていました。そこはいまの自分をつくってきたもので、今後の自分も変わらないものだと思います。僕の中ではとても良い3年間だったなと思いますし、良い時間の使い方をしたなと褒めたいです」

―この先にはJFAアカデミー出身者初の日本代表という立ち位置も見えてくるところにいらっしゃると思います。チーム、個人ともに今後の目標を教えてください。
「まずはチームとして、今年タイトルを奪還する、もう一度Jリーグ王者になるという目標を強く持っています。チーム全体がそこに向かって進んでいるし、掲げないといけない目標だと思っているので、今季を終えた時に有言実行できるよう準備しています。またそれが現実になるよう、自分たちの状況も考えながら、F・マリノスのフットボールをより大きなものにできるよう取り組んでいきたいです。また個人としては、そういった日本代表などの目標はありますが、個人的にはまずはワンシーズン怪我をしないこと、そして試合に出続けることです。その先にあるものはデザートやご褒美であって、誰しもがなれることではないし、自分で選べるものではありません。自分が見せた頑張りの中で、選んでくださる方にそこを評価していただければうれしいし、もし選んでもらえたら自分も最高のパフォーマンスができるようF・マリノスで結果を残したいと思っています」

―最後にスパイクについて教えてください。スパイクに求めるものはどういった要素ですか。
「僕は軽さが重要ですね。見た目の上でも、履く時に見た目が重そうなものより、軽めな雰囲気があることを大事にしています。軽く見えるように見た目がスタイリッシュであることを気にしています」

―「見た目が軽そう」という感覚は他の選手からも聞いたことがあります。やはり気持ちの面で重要になりますか。
「そうですね。軽そうに見えると個人的なフィーリングで気持ちが上がります。実際はスパイクで変わるものではないのかもしれませんが、自分が速くなった気でいられますし、気持ちだけでもまったく違ってくると思うので、見た目はすごく大事だと思っています」

―デザインはいかがですか。
「デザインは派手なカラーが好きなので、より速そうで目立つ色だとテンションが上がります。それによって『これから仕事をするんだ』という気持ちになります」

―履き心地についてはどのようなものを求めますか。
「フィット感はやはり大事ですね。サッカー選手は足が仕事道具なので、どうしても靴ずれや合わない靴というのもある中で、プーマさんのスパイクは何を履いても合ったのでなんでもいけると思いました。最初は『フューチャー』を履いていたんですが、その後により軽量化された『ウルトラ』が出たので、一度履かせてくださいとお願いして、履かせていただくことになりました。軽いですし、あのようなソックスタイプの形なので『履きにくいんじゃないか』という声もあるようですが、実際は本当に履きやすくて、僕としては今まで履いた中で一番フィットしているスパイクだなと感じています」

―いま『ウルトラ』を気になっている選手に勧めるとしたら、どういうところが優れていると説明しますか。
「まずは出ているスパイクの中で一番軽いです。そして、軽さが一番の売りになっているかもしれませんが、フィット感もあります。あと意外と重要なのが『履く時の大変さ』です。ソックスタイプのスパイクは履きにくいものも多い中で、履きやすさもすごく考えられていると思います。靴ひもを結んだ時のフィット感は靴下を履いたような感覚になるので、自分の足にしっかりフィットしてくれる感覚があり、おすすめポイントだなと思います」

―今回『ウルトラ』シリーズの顔という形でスパイクに関するインタビューもさせていただきました。今後、小池選手に憧れて同じものを履きたいという子どもたちもいると思います。プロのサッカー選手はそうしたさまざまな形で影響を与えることのできる存在ですが、率直にどのように捉えていますか。
「ファン・サポーターにもそういう方がいらっしゃるんですが、『小池選手のプレーを見て子どもにスパイクを買いました』と言われるのは選手としてすごくうれしいことです。日頃から練習や試合をより一層頑張らないといけないなと思います。また憧れの選手になるためにプレーするということは自分もすごく大切にしていることなので、自分がさらに活躍することでこういったスパイクのモデルのことも伝えられればいいなと思います。また昔一緒にプレーしていた伊東純也がプーマさんの顔として頑張っているので、僕もそういう選手に並んだり、追い越したりできるように、日本を代表するような選手になっていきたいです」


(インタビュー・文 竹内達也)
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