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父は帝京で甲子園優勝&元ロッテ内野手…流経大“7年間”のGK争いでレベルアップ、GK鹿野修平がプロ生活をスタートへ

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いわきFCに入団するGK鹿野修平

「1年目から試合に多く関われるように、ファンやサポーターから応援される選手になれるように頑張ります」。付属校から7年間を過ごした流通経済大を巣立ち、今季からJ3に参入するいわきFCでプロ生活をスタートさせるGK鹿野修平は、希望に胸を膨らませた。

 父親の浩司さんは元プロ野球選手。高校時代は強豪の帝京高3年の時に春夏甲子園に出場。強打の内野手として活躍し、夏の大会では決勝の延長10回に決勝の適時打を放ち、大会初優勝に導いている。1989年のドラフト5位でロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)から指名を受けて入団。しかし怪我の影響もあって、入団から5年目の秋に現役を引退した。

 1999年8月27日生まれの修平は、父の現役時代の姿をもちろん知らない。「(父親がプロ野球選手だったと知ったのは)小学生の時だったと思います。家に写真があったので、それで認識しました」。

 野球は「ちょっとやろうかなと思ったこともあった」というが、サッカーの方が楽しかった。「(野球を)やってほしいという思いがあることは聞いたことがありました。でも自分の好きなようにやっていいよと言ってもらっていました」。周囲から“プロ野球選手の息子”というプレッシャーをかけられることもなかったという。

 ただ父親譲りの運動神経は少年期から抜きん出ていた。幼稚園で始めたというサッカーは、小、中と常にチームの中心だった。東京都のトレセンメンバーにも選ばれたことで、高校はよりレベルの高い流通経済大柏高への進学を決意した。

(写真協力『高校サッカー年鑑』)

 高校では同じトレセンに選ばれていたGK薄井覇斗としのぎを削ることになった。パワー系の薄井に対し、全身をバネのように使ってプレーする鹿野。特長の違う2人は常にお互いを意識しながら、一つのポジションを争った。

 その競争は結局“7年間”続くことになった。高校に入学してすぐに出場機会を掴んだのは鹿野だったが、3年生の時には薄井が逆転。インターハイ優勝と高校選手権準優勝という輝かしい成績を残したチームのゴールを守り続けた。

 大学入学の際に鹿野は別の大学に進むことも考えたというが、「負けたままじゃ嫌だった。評価を覆したかった」と決意を新たにして、薄井と一緒に流通経済大に進学。3年時に鹿野がレギュラーを奪い返したかと思えば、4年時には再び薄井がレギュラーGKの座を獲得。争いは最後まで続いた。

 ハイレベルな環境に身を置いたことで、プロという道がより身近なものになっていったという。少年期は恥じらいもあったのかもしれない。プロアスリートだった父親にアドバイスを求めることもなかった。しかし大学に入り、真剣に将来と向き合ったときに、初めて父親にアドバイスを求めようと思ったという。答えは「自分の好きなように、自分の人生なんだから後悔しないように選べ」。夢を追う決心がついたと振り返る。


 プロ1年目から試合に出ることが目標だ。「試合に出ている姿をみせることが一番の親孝行になると思う。高校、大学ではあまりみせてあげられなかったので、プロになって見せてあげられたらなと思います」。浩司さんはプロ野球の世界では1軍で出場することなく、志半ばでユニフォームを脱いだ。厳しい世界であることは分かっているが、修平は「将来的には日本を代表するGKになりたい」という高い志を持って、プロの世界に飛び込む。

(取材・文 児玉幸洋)
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