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小学生の時に上京、高校途中で青森山田に編入、プロは2年おきに移籍……「僕は感覚で動くタイプ」神谷優太がキャリアを振り返る

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 神谷優太のキャリアを辿ると、“決断の潔さ”が感じ取れる。「めちゃくちゃ考えて動くというよりは、感覚で動くタイプ。良いか悪いかは分からないけど、直感で動いて、プレーして、いろんな経験をして、という人生だと思っています」。25歳になった今、何を思う。

――最初の転機で言うと、小学生の時でしょうか。東京ヴェルディのジュニアチームに入団するために、山形県から上京してきました。
「バーモントカップというフットサルの大会でヴェルディの人に声をかけてもらったのが、きっかけでした。それで小学校5年生の終わりに、最初は山形から週末の試合にだけ通っていたのですが、6年生になってから母親と一緒に上京しました。自分で言うのも何ですけど、当時山形では誰にも負けないと思っていて、正直東京に行ってもやれるだろうなと思っていました」

――実際どうでしたか?
「まずは環境に驚きました。人工芝で、クラブハウスもあって、練習着も支給してくれて。もともとJリーグを知らなかったのもあるけど、日本にもこういう環境があるんだと思いました。他のクラブからの誘いですか?ちょくちょく話は聞いていたけど、明確なものはなかったです。僕が山形にいた時に見ていた全国少年サッカー大会も優勝していたので、ヴェルディに一番魅力を感じていました」

――高校に上がる時にはそのままユースに昇格。でも高校3年生になる前に大きな決断をしましたね。
「高校に上がる時に一度、青森山田高校に行くことを考えました。でも昇格が決まっていたので両親に反対されて。『ユースに上がれなかった子もいるんだから、その子たちの分も頑張りなさい』ということでした。でも1年2年と過ごしても何か違うと思って、転校できるんだったら、と思うようになりました」

――なぜ青森山田だったのでしょう?
「映像で見た雪の中で必死にトレーニングしている姿が印象に残っていて、それでヤバいなと思った。その中でやったら絶対に精神的に強くなるじゃないですか。ヴェルディでトップに上がるモチベーションもあったけど、あの時点でトップに上がっても、持って3年プレーできたかというところだったと思う。そこでパッと思いついたのが、青森山田でした」

――結果的にその決断はその後に活きましたか?
「活きました。サッカーに対する姿勢は凄く活きたのかなと思います。自立して生きていくことが大事だったんだなと気付かされました。青森山田中から6年間過ごしている人もいたので、あれを6年間やったのは本当にリスペクトだと思ったし、高校生であれだけ自立していたら、サッカー選手じゃなくても何でも出来そうだなと思いました」

――そんな神谷選手が高校3年生だった2015年からニューバランスがスパイクの発売を始めました。
「実はニューバランスさんには僕が高校を卒業する時からお話を頂いていました。なので、いつか履いてみたいなと思っていて、2020年にちょうどいいタイミングがあったので、変えさせていただきました」

――ずっと履いてきたメーカーを変更する怖さはなかったですか?
「そこの違和感は全くありませんでした。スパイク自体は新感覚というか、前のメーカーとはまた違った素材だったり、軽さがありました。カラーですか?好きな色は赤。小さい頃から好きで、実は最初に履いたニューバランスのFURONも赤だったので、カッコいいなと思って履いていました。今でも残していて、ずっと飾ってあるんですよ」

――相当お気に入りのスパイクですね。
「本当に履きやすくて、前のシーズンのFURONはゴムっぽくて、履いた瞬間に足にしっかりとくっつく感じでした。中ズレもせずに、ずっと素足の感覚で、とにかく履きやすさが気に入っています」

 高校2年生の冬に青森山田に編入した神谷は、背番号10を背負う中心選手としてプレーした。全国高校サッカー選手権ではベスト4に進出。卒業後の湘南ベルマーレへの入団内定を勝ち取った。湘南では4月にJリーグデビューを果たすなど、順調なスタートを切った。

――高校卒業後は再び関東に戻って、湘南でプロ生活を始めました。
「1年目はデビューも早くて、すぐにA契約になって順調でした。2年目も代表に呼ばれていたので、U-20W杯に行けるかなと思っていたけど、落選してしまって――。そこからですかね。あまり調子がよくなかったのは。自分では引きずっていないと思ったけど、やっぱり引きずっていた。そこからちょっとサッカーが嫌になるというか、あまり楽しくなかった。ひとつの挫折だったのかなと思います」

――高校で脚光を浴びたことによる難しさを感じることはなかったですか?
「(当時の監督の)チョウ(・キジェ)さんや、湘南で一緒だった選手は、僕のことを『スター』と呼んでくれるんですけど(笑)、正直、その難しさは感じませんでした。それより、さっき言ったW杯メンバーに落ちたこと。それまで落ちた経験がなかったからなのか、コンディションをなかなか上げられませんでした」

――出場数が半減した2年目を終えたオフに、愛媛FCへの期限付き移籍を決断します。
「J2のいくつかのクラブからオファーを貰っていたけど、その中でちょっと修行しに行くかという感覚で選びました。でも今までで一番大きな経験ができました。すごく自由にやらせてもらったのもあるけど、自分でもパッと思い浮かばなかった特長が、愛媛で分かった。ドリブルとか、プレースキック。今まではオフェンスの部分全部ですと言っていたけど、愛媛に行ってからは本当にそう思うことができて、とにかく自分のプレーの特長を掴むことが出来ました」

――愛媛の2年目には元南海放送アナウンサーの西木恵美里さんと結婚。私生活でも大きな変化がありました。
「それも多少は影響があったのかなと思います。自分ではあまり実感できていないけど、支えてくれる人がいるだけで、また精神面で違うのかなと思います」

――愛媛での2年間で自信を取り戻し、2020年からは再びJ1へ。柏レイソルに完全移籍するという大きな決断もしました。
「正直言うと、僕的には帰りたかったけど、湘南から戻って来いと強く思われていなくて。そこに柏さんが熱いオファーをくれたので、移籍を決めました。だけどあの時は江坂任くん、クリス、瀬川くん、オルンガ、サヴィオ。めちゃくちゃ強力な前線ばかりで、とにかくポジションを取るところからでした。でもキャンプでも全試合結果を残した自信があったし、開幕戦の前半でケガ人が出て、すぐに出番が来たんですけど、そこでやっていけるなと思いました。そういう記憶がありますね」

 神谷は2シーズンを過ごしたあと、2022年に清水エスパルスに完全移籍。プロに入ってからは結果的に2年おきにチームを変えることになっている。

――柏で結果を残していた中で、清水への移籍を決めました。
「確かに傍からみたら移籍しなくていいじゃんみたいな感じだったと思うけど、エスパルスにも魅力があったので。すごく熱いオファーでしたし、タイトルを獲りたいと思って来ました。僕はめちゃくちゃ考えて動くというよりは、感覚で動くタイプ。良いか悪いかは分からないけど、直感で動いて、プレーして、いろんな経験をしてという人生だと思っています」

――ただシーズンの後半、神谷選手は怪我で離脱。チームもJ2降格が決まってしまいました。
「柏の時から捻挫が多いタイプだったんですけど、一昨年一回大きいのをやって、それが治らず、引きずってきた感じでした。でもあの時点で手術した決断に後悔はないし、今はエスパルスをJ1に戻すことだけで精いっぱい。全員が変なプライドを捨てて、もう一回、一からやり直す覚悟を持って、チャレンジャー精神で臨まないと足をすくわれることになると思っているので、気を引き締めていきたいです」

――来季は高校の恩師、黒田剛監督が率いるFC町田ゼルビアとの対戦もあります。
「監督就任が決まった時に『おめでとうございます』と連絡させてもらいました。監督なら出来そうだなという感じのLINEだった。だけど対戦するからには勝たないといけないので、そこはすみませんという感じですけどね。本当に楽しみですね。でも個人の感情よりチームとしてJ1に戻ること、そこだけにフォーカスして頑張りたいと思います」

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