[ソーシャル地域選抜選手権]初優勝に導いた関西選抜・北村の告白「同じ病と戦う人を勇気づけたい」
[11.11 第1回ソーシャルフットボール地域選抜選手権決勝 関西選抜 4-3 九州選抜 帝京科学大]
今年からはじまったソーシャルフットボール(精神障がい者のフットサル)の地域選抜選手権が11日に終了し、関西選抜が8地域の頂点に立った。決勝戦では、関西選抜が先に2点をリードして主導権を握ったが、その後、九州選抜が食い下がる一進一退の攻防。後半6分、九州選抜に3-3を追いつかれたが、その2分後、ドラマが待っていた。この試合で2得点していた関西選抜の北村広樹がピッチ中央からやや右サイドの位置から右足を振りぬき、強烈なミドルシュートがネットに突き刺さった。勝利を決定づけるハットトリックを達成すると、北村はベンチに入れないチーム関係者がいる観客席に右手を突き上げ、喜びを爆発させた。
「あの位置は自分の得意な位置でした。最後の最後に関西選抜の力になれてよかったです」
大阪で小学校から高校までボールを蹴り続けたサッカー少年だった。就職を視野に通い始めた専門学校ではサッカーを辞め、プライベートで旅行などを楽しむごく普通の青年だった。しかし就職すると、試練が待っていた。
「職場の方から『お前はダメなヤツなんだ』と言われることが多くて……。別の同僚の方の中には『大丈夫やで』と言ってくださる人もいたんですが、当時はそこに気づけなかった。それは自分が悪いんです」
自分に降りかかる現象に対して真正面から向き合い、起きた結果について他人に責任転嫁はせず、すべて自分にベクトルを向けた。大阪の実家を出て、京都で1人暮らしをはじめる新生活がはじまったばかり。甘えられる場所にはすぐに戻れる距離にありながら、「ここで何とかやっていきたい」という思いで実家に戻らなかった。徐々に仕事が行く足もざかり、嘔吐を繰り返した。うつ病を発症していた。2年半頑張ったのち、半年間休職。「こんなに休ませてもらって申し訳ない」と会社に辞表を出した。まだ23歳だった。
その後、治療をするために通っていた病院で、サッカーボールを再び蹴る転機が訪れた。北村が振り返る。
「同じ病院に通っていたアーティストの方から『最後のライブをやるから見に来てほしい』と誘っていただきました。誘ってもらったこと自体がうれしくて拝見しました。自分より病気の症状が重く、何かしたくてもなかなかできない人たちを目の当たりにして、『自分は何か頑張れることはないか』と思ったんです。僕は長い間、サッカーをしていたのでフットサルを選びました。今は、自分が元気になることも大切だし、それを見て同じ病と戦っている周りの方々を少しでも勇気づけたい、という思いもあります」
フットサルをはじめて3年になる。自分の中に、確実な変化を感じ取っている。
「今まで気にしていたことを気にしなくなりました。以前は道を歩いていたら、見知らぬ人が『自分のことを何か言っているんじゃないか』という錯覚にとらわれていましたが、それがなくなってきた。なぜそうなったか、その理由は僕の中でもはっきりわかりませんが、考えすぎなくなったことは確かです。社会人としてのコミュニケーション力がついてきているのかもしれません。仲間と人の巡り合わせが大事だなって感じています」
今は障がい者雇用ではない職場で仕事に励む30歳。好きなサッカーを通して「素」の自分を取り戻しつつある北村は、仲間のありがたみを感じながらこれからもボールを蹴り続ける。
(取材・文 林健太郎)
●ソーシャル/障がい者サッカー特集ページ
今年からはじまったソーシャルフットボール(精神障がい者のフットサル)の地域選抜選手権が11日に終了し、関西選抜が8地域の頂点に立った。決勝戦では、関西選抜が先に2点をリードして主導権を握ったが、その後、九州選抜が食い下がる一進一退の攻防。後半6分、九州選抜に3-3を追いつかれたが、その2分後、ドラマが待っていた。この試合で2得点していた関西選抜の北村広樹がピッチ中央からやや右サイドの位置から右足を振りぬき、強烈なミドルシュートがネットに突き刺さった。勝利を決定づけるハットトリックを達成すると、北村はベンチに入れないチーム関係者がいる観客席に右手を突き上げ、喜びを爆発させた。
「あの位置は自分の得意な位置でした。最後の最後に関西選抜の力になれてよかったです」
大阪で小学校から高校までボールを蹴り続けたサッカー少年だった。就職を視野に通い始めた専門学校ではサッカーを辞め、プライベートで旅行などを楽しむごく普通の青年だった。しかし就職すると、試練が待っていた。
「職場の方から『お前はダメなヤツなんだ』と言われることが多くて……。別の同僚の方の中には『大丈夫やで』と言ってくださる人もいたんですが、当時はそこに気づけなかった。それは自分が悪いんです」
自分に降りかかる現象に対して真正面から向き合い、起きた結果について他人に責任転嫁はせず、すべて自分にベクトルを向けた。大阪の実家を出て、京都で1人暮らしをはじめる新生活がはじまったばかり。甘えられる場所にはすぐに戻れる距離にありながら、「ここで何とかやっていきたい」という思いで実家に戻らなかった。徐々に仕事が行く足もざかり、嘔吐を繰り返した。うつ病を発症していた。2年半頑張ったのち、半年間休職。「こんなに休ませてもらって申し訳ない」と会社に辞表を出した。まだ23歳だった。
賞状を手に控えめに喜ぶ北村(前列左から3人目)
その後、治療をするために通っていた病院で、サッカーボールを再び蹴る転機が訪れた。北村が振り返る。
「同じ病院に通っていたアーティストの方から『最後のライブをやるから見に来てほしい』と誘っていただきました。誘ってもらったこと自体がうれしくて拝見しました。自分より病気の症状が重く、何かしたくてもなかなかできない人たちを目の当たりにして、『自分は何か頑張れることはないか』と思ったんです。僕は長い間、サッカーをしていたのでフットサルを選びました。今は、自分が元気になることも大切だし、それを見て同じ病と戦っている周りの方々を少しでも勇気づけたい、という思いもあります」
フットサルをはじめて3年になる。自分の中に、確実な変化を感じ取っている。
「今まで気にしていたことを気にしなくなりました。以前は道を歩いていたら、見知らぬ人が『自分のことを何か言っているんじゃないか』という錯覚にとらわれていましたが、それがなくなってきた。なぜそうなったか、その理由は僕の中でもはっきりわかりませんが、考えすぎなくなったことは確かです。社会人としてのコミュニケーション力がついてきているのかもしれません。仲間と人の巡り合わせが大事だなって感じています」
今は障がい者雇用ではない職場で仕事に励む30歳。好きなサッカーを通して「素」の自分を取り戻しつつある北村は、仲間のありがたみを感じながらこれからもボールを蹴り続ける。
(取材・文 林健太郎)
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