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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:ゴールと生きる(工藤壮人)

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日本代表歴も持つストライカー、工藤壮人

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 30歳の誕生日は、サッカーボールの魅力に取りつかれてから、初めてプレーするチームがない状況の中で迎えることになった。だが、その男はただ自分が磨き上げてきたゴールへの嗅覚だけを信じて、黙々とトレーニングに励んでいる。「もちろん結果が出なくて叩かれるのは当然だけど、ゴールを獲った時の喜びの方が勝っているからこそ、これだけ続けられているし、ある意味中毒ですよね。だから、本当にもう1回それを感じられるように、必死にもがいています」。ゴールと共に生きるストライカー。工藤壮人がたぎらせる情熱の炎が消える気配は、微塵もない。

 実に不器用な男である。取材があっても真摯には受け応えるものの、必要以上に美辞麗句を並べる訳ではない。こと自分の話題となれば、積極的にアピールすることもなく、ゆえに誤解されることも少なくないように思う。たとえば海外移籍を決断した経緯についても、多くを語らぬまま今に至っている。

レイソルへの不信感なんて全然なかったです。2011年にリーグ優勝した後ぐらいから、改めて海外でプレーしたい気持ちがあったのと、ありがたいことに2012年、2013年と国内の全タイトルを獲らせてもらって、よりその想いが強まって。チームにも恵まれて、結果にも恵まれたからこそ、どんどん年齢を重ねていくと可能性も狭まっていくことを考えて、『早く挑戦したいな』という気持ちがあったんです」。

「その中で熱心に手を上げてくれたのがバンクーバーのチームで、僕としては絶対にヨーロッパという想いはなくて、逆に今までほとんどの人が行っていない場所というのもモチベーションになりましたし、『このチャンスを掴みたい』という純粋な気持ちだけで移籍を決めたのが本心ですね」。2015年は年末まで天皇杯を戦っていたことで、慌ただしく移籍するような格好になったため、ちゃんとした形で“仲間たち”に挨拶ができなかったことが心残りだったのは言うまでもない。

「確かに(吉田)達磨さんが辞めるタイミングでレイソルを離れたこともあって、いろいろなものが重なって誤解されるのも仕方ないと思いますけど、リーグ優勝したぐらいから自分の中での流れがあったので、自分の短いサッカー人生の中で、挑戦できる場所があるのであれば挑戦したいな、という気持ちでした。だから、チームメイト、監督、スタッフ、もちろんサポーターもそうですけど、あれだけの結果に恵まれたことには、本当に感謝しかないですね」。大きな感謝と確固たる覚悟を持って、未知なるカナダの地へと身を投じたのだ。

 小学校4年生から16年の時を過ごした“ホーム”を離れ、異国に飛び込む選択は多くのモノを工藤にもたらした。「新しいチームに行ってイチから人間関係を構築したり、サッカーのことも含めて相手に伝えるとか、逆に言葉の問題で伝わらないとか、そういうのも含めて、毎日に楽しさしかなかったですね」。今までは自分がどれだけ恵まれた環境を用意してもらってきたかも、外に出てみることで痛感したという。

 加入したバンクーバー・ホワイトキャップスは、いわゆる“多国籍軍”。監督はウェールズ人で、チームの中にも英語圏とスペイン語圏の選手が混在していた。「僕としてはチーム全体を見て、はじめは英語が全然わからないし、スペイン語圏の方がノリもかなりいいなと感じてそっちに入っていったら、『オマエ面白いじゃねえか』って感じになりました(笑) 当時のチームメイトは今でもたまに『元気してるか?』って連絡をくれたりするので、良い関係を築けたのかなと思いますね」。新鮮な体験に自分がブラッシュアップされていく。

 ただ、サッカー面では不運に見舞われる。ようやく念願のリーグ戦初ゴールを決めた4日後。味方のフィードを追いかけた際に、飛び出した相手GKと正面から激突すると、その場で昏倒。診断は顎の骨折とほお骨の亀裂骨折。一時は生命も危ぶまれるような状況だった工藤の意識が、はっきりと戻ったのは数日後のことだった。

「今まで1回もケガをしたことがなかったので、『ここで来るか』というもどかしさはありました。でも、自分自身も必死にやっていましたし、毎試合結果を残したい気持ちが強かったので、それがああいうケガに繋がってしまったのであれば、やむを得ないかなと思います」。タイミングの悪さは否めなかったが、結果としては1年の在籍でリーグ戦17試合に出場して2得点。チームに居場所を確立するまでには至らなかった。

 実力不足は自分が一番わかっている。「あまり『良かった』と言いすぎると、なんか言い訳じみている感じがするので」と彼らしく前置きしながら、それでもカナダでの1年間は実りの少なくない時期だったと振り返る。「個人的な経験値としては本当に行って良かったなと。かなり性格的にもオープンになりましたし、いろいろな所に飛び込んでいけるようになったので、そこは自分でも変わったかなとは思います」。人間的な幅を広げる意味で、大事な時間を過ごしたことは間違いない。

 帰国してからの3シーズンは、率直に言ってそれぞれの場所で掛けられてきた期待に応えられたとは、言い難い。以前から興味を示してくれていたこともあり、佐藤寿人の後任というプレッシャーを望んで受け入れたサンフレッチェ広島での2シーズンは、リーグ戦30試合出場で4得点。クラブ史上2人目の日本代表経験者として、ゴール量産が義務付けられていたレノファ山口では、リーグ戦27試合に出場して4得点。ストライカーとしては物足りない結果が、明確な数字として浮かび上がる。

「レイソルの時はフォワードのポジションを奪われないように毎試合必死にやり続けてきたからこそ、『何が良くて点が獲れているのか』なんて客観的に考えていなかったので、『あの時は何だったんだろう?』って考えてしまう苦しさは正直ありました」。特に広島での2年目は改めて自分のスタイルを見直す機会にもなったようだ。

「パトリックをどう生かすかがチームの中でのかなりのウエイトを占めていたのは理解していて、そのために2トップの相方は僕と渡(大生)で守備のタスクを必死に補っていた部分はあって。でも、『やっぱりフォワードとして、ゴールに向けての矢印がなくなってきたらヤバいよね』とは渡とも話していて、そのあたりは葛藤もありながら、かなり模索していたというか、何が正解なのかを凄く追い求めながらやっていた感じですね」。

 行きついた答えは至極シンプルなものだった。「自分の中のフォワードって、やっぱり『他に何も仕事をしなくても、1点取って帰ってくればいい』みたいな。僕はそれでずっと生きてきて、キタジさん(北嶋秀朗・現大宮アルディージャコーチ)にもそう言われて、実際に自分でも実感してきたけど、なんか『バランスとかも考えるようになっちゃったな』って。それじゃよくないのは自分でもわかってるんです。だけど、守備の所で貢献すれば称賛されることもあったし、自分自身も結果が出ていなかったからこそ、『そういう所で貢献しなきゃいけないな』ということも凄く感じていたし。でも、冷静にフォワードとして考えた時には、『それじゃいけないよな』って思ったんですよね」。

 それでも想いと結果は必ずしも直結する訳ではない。前述したように、広島でも山口でも存在感を誇示するような活躍は見せられず、2020年シーズンは新天地を探すことになったが、年が明けてもなかなか思うような吉報は舞いこまない。国内外問わず、広い視野で今後を模索していたところ、ある海外のクラブからようやくテスト参加のオファーが届いたと聞かされる。

「少し報道があったオーストリア2部のチームから、『テスト参加みたいな形で来てもらえないか』と言われたんです。基本的には1週間の練習参加でしたけど、コンディション的な所を最後の確認として一度見たいと。しかも、『ほぼ契約は決まるから』と言われたので、『やった!チーム決まるぜ』と思って、オーストリアに行きました」。

「自分が思っていた以上に体も動いて、手応えは凄くあったし、実際に結果としても2試合の練習試合で3点獲れたので、やれたという感覚はあったんですよね」。既にユニフォームを着た写真撮影も済ませており、オーストリアでの新生活に想いを馳せていたが、結果はまさかの不合格。「2試合目の練習試合が終わった後に、『今回の契約は見送る』と言われて、呆然としちゃって。『え?どういうこと?』って。今から考えれば笑い話なんですけど(笑)」。

 再びチーム探しの大海原に解き放たれた工藤は、オーストリアに同行してくれたドイツ在住の知人のアドバイスもあって、そのままヨーロッパに残る決断を下す。次に向かったのはドイツ4部のクラブ。4部とはいっても全員がプロ契約で、ブンデスリーガでプレーしていた選手もいるような環境の中、当初は3、4日を想定していた練習参加は、わずか1日で打ち切られる。「『もうちょっと爆発的なスピードのあるフォワードが欲しい』って言われて。『いやいや、それは違うでしょ』って」。

 チェコ2部のクラブも1週間の練習参加を許されたものの、契約には至らない。「チームがない選手はみんなそうだと思うんですけど、『これで決まらなかったら、たぶんサッカーやめるしかないよな』って想いが、自分の中でもずっと頭の中をぐるぐる回っていたというか。もちろん難しいのはわかっていたけど、『ここまでダメか』というのもあったし、心は折れますよね」。ポーランド2部のクラブでは、90分間頭上をボールが飛び交う練習試合でプレーし、結果を聞く前に不合格を悟る。「厳しい現実を突き付けられているなとは思いました」。所属クラブは決まらなかった。

 この時期。人生で初めての“バイト”も経験している。ヨーロッパに滞在中、各クラブの練習参加にも付き添ってくれた上に、快く自宅に住まわせてくれた方が経営しているうどん屋で、接客に勤しんだ。「お世話になっている以上は自分も何かやらなきゃいけないし、朝一緒にお店に行って、開店準備して。『オレ何やってるんだろう?』とは思ったけど(笑)、暗く下を向いているよりは、こういう状況も何でも楽しんでやらないといけないと思ったし、その方には感謝しかないですね」。周囲の人の温かさへ報いるために、自分のなすべきことは十分に理解している。

 新型コロナウイルスの影響もあり、ヨーロッパでのクラブ探しを一時中断し、帰国した工藤は日体大柏高校サッカー部の練習に参加している。「そこも本当にご縁というか、高校時代の同期だった比嘉(厚平・現柏レイソルU-12コーチ)と御牧(考介・現柏レイソルU-15コーチ)ともいろいろ話していた中で、彼らのアドバイスもあってダメもとで監督の酒井直樹さんに『練習参加させてもらえませんか?』と連絡したら、僕が学校の卒業生でもあるし、サッカー部の総監督を知っていることもあって、了承してもらえたんですよね」。

 かつて通い慣れた道を自転車で走り抜け、高校生と一緒にグラウンドで汗を流す。最初は少しよそよそしかった彼らとも、日を追うごとに打ち解けつつある。「なるべく自分からも声を掛けたりしたら、少しずつ彼らも話してくれるようになって、僕が意識していることも話したりする中で、次の日に『工藤さんが言っていたことを意識してやりました』って言われたりとかして。プロってあまりそういう感覚はないので、『ああ、こういうの久しぶりだな』って」。

「だから、こういうことを経験できるのも良かったなと。彼らから学ぶことも多いし、凄くやりがいがあるというか、本来ならここにいてはいけないけれども、こうやって練習させてもらっている以上は、彼らにも良い影響を与えたいし、僕もここからチームが決まった後にもこの経験が生きるように、プラスに捉えたいなと思っています」。ボールを蹴ることの原点を高校生に教えてもらいながら、必死に前だけを見て日々を紡いでいる。

 家族の大切さも、こんな時期だからこそ痛感している。「1人だったら本当に孤独を感じて、『自分は何をすればいいんだろう』って考えもするだろうし。でも、やっぱり子供に父親がサッカー選手だったという記憶が残るぐらいの年齢までまだまだ続けたいし、できるとも自分でも思っているし、だからこそ、その一心で今はやっています。僕よりも奥さんの方が不安なはずですけど、僕の前だけでも強く振る舞ってくれている所もあると思いますし、本当に感謝しかないからこそ、早くチームを決めて、とりあえず少しでも気持ちを落ち着かせてあげたいですね」。見守り続けてくれる家族のために、自分のなすべきことは十分に理解している。

 実に不器用な男である。その印象を本人にそのままぶつけると、苦笑交じりに肯定する。「なんか『ここはドライに割り切って、こういう行動をすればいいのにな』っていう時でも、ちょっと割り切れずに考えちゃったりとか、そういうのがあったりするから、その部分は『もっとシンプルに考えてやればいいのにな』とかは、正直思ったりするかなあ」。ゴールという結果は、言葉を要さなくても、自らの存在価値を証明してきてくれた。今は再びその日々を取り戻そうと、自分自身と向き合っている。ゴールという結果で周囲に認めてもらえる日々を。

 これからの目標もはっきりしている。「とりあえず今は引退してどうこうというのも考えていないし、体も十分動くから、1年でも長く現役でやり続けることしか考えていないです。それに現役でやる以上は、傍から見れば難しいと思われるでしょうけど、ここからまた活躍して、日本代表に戻りたいとも思うので、本当にそこしか見えていないです」。追い込まれたことで、本質が見えた。結局自分が生きている意義は、そこに集約されている。

「改めて『自分はサッカーが好きなんだな』って。よく選手って『サッカーができる環境のありがたさや、ボールを蹴れる喜びを感じました』みたいに言うけど、『今の自分は誰よりもそれを感じるよ』って。やっぱりチームがあって、ボールを蹴れる状況があるというのは幸せなことだし、今までの自分には常にそういうものがあったことに感謝しなくてはいけないなとも感じます。だから、これからチームが決まったら、本当に今まで与えてもらっていた環境のありがたみをより感じるはずだし、ゴールを奪うことや試合に出ることへの貪欲さを今まで以上に感じるはずなので、それを前面にぶつけていきたいなと思いますね」。

 今までの自分にこだわりはない。周囲から見れば羨ましがられるような肩書きや栄光も、もう過去に置いてきた。何が周囲を幸せな気分で満たし、何が自分を幸せな気分で満たしてきたか、その答えはとっくに出ている。あの歓喜を。あの絶叫を。もう一度あのピッチで。今はただそれだけを願い、いつ終わるとも知れない自身との戦いを続けていく。

「もちろん結果が出なくて叩かれるのは当然だけど、ゴールを獲った時の喜びの方が勝っているからこそ、これだけ続けられているし、ある意味中毒ですよね。だから、本当にもう1回それを感じられるように、必死にもがいています」。ゴールと共に生きるストライカー。工藤壮人がたぎらせる情熱の炎が消える気配は、微塵もない。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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