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『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:師資相承(関西大一高・芝中信雄監督)

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関西大一高・芝中信雄監督

東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 子供たちにさらなる高みの景色を見せてあげたいと願い、下した決断が果たしてどうだったのかという疑問は、きっとこれからもずっと持ち続けていくのかもしれない。口にはしないが、「“監督”だったらどうしただろうか?」ということも、自分自身に問い掛けていくことになるのだろう。それでも、素直な想いも内側から湧き上がる。「正直な所はやっぱり嬉しいです。『佐野先生を全国に連れて行きます』という想いを実現できたので」。13年ぶりに夏の全国切符を掴んだ関西大一高。チームを率いる“顧問”の芝中信雄はその日、何とも説明しがたいようないくつもの感情に包まれていた。

 2010年1月9日。国立競技場は異様な雰囲気の中にあった。高校選手権準決勝。2年生司令塔の柴崎岳を擁する青森山田高に対し、後半44分まで2点のリードを許していた関大一が突如として覚醒する。まずは1点を返して反撃の狼煙を上げると、すぐさま同点弾まで叩き込み、土壇場で試合を振り出しに引き戻してみせる。最後はPK戦で競り負けてファイナル進出こそ逃したものの、『月まで走れ』という印象的なチームスローガンと共に、同校の名前は多くのサッカーファンに記憶されることとなる。

 当時をコーチとして経験した芝中信雄はもともと関大一の出身。高校の3年間は前任の佐野友章監督にみっちり指導を受けた。「僕は佐野先生が30代の時、バリバリの時のキャプテンをやっていましたけど、もうそれはムチャクチャされましたよ(笑)」。そんな佐野の人間性に影響を受け、大学卒業後は母校で教鞭を執りながら、恩師の下でサッカー部に携わる未来を選択する。

「僕は佐野と一緒に約30年やっていました。嫁さんよりも“先生”と一番長くいましたしね」と笑顔で語る芝中。その約30年の中でも印象深いのが前述の国立競技場。日本一を目前に敗退したとはいえ、自分たちの辿ってきた道のりが正しかったことを、大きな注目の集まる晴れ舞台で示せたことが何とも嬉しかった。

 ただ、周囲からは“国立”のイメージで見られるものの、以降はなかなか目に見える結果が付いてこない。夏も冬も全国への出場権を手繰り寄せることができず、グループに経験値を上乗せしきれない時期が続く。そんな状況の中で、佐野が病気療養のために現場を離れることが多くなり、実質的に芝中が全体の指揮を任される。

 2年近く監督代行という立場でチームを率いた時期も大阪制覇には届かず、良い報告ができないまま、佐野は闘病生活の末に他界してしまう。2015年からは正式に“監督”の座を引き継ぐことになったが、前任者の大き過ぎた存在も、後任の“教え子”に圧し掛かってくる。「ホンマ豪傑のような方でしたし、凄い監督やったので、そのスタンスを引き継ぎながらずっとやっていたんです。でも、替わってからも勝てないし、どうしても比較されるんですよね。それで2,3年は苦しみました」。

 ところが監督業をスタートさせて数年が経った頃、芝中はようやくある境地に至る。「『たぶん名監督の後の監督さんは、皆さんこういうふうに思ってはるんじゃないかな』と。『苦しんでいてもしゃあないから、自分は自分のやり方でやるしかないな』と思えたんです」。少しずつ、少しずつ、“芝中色”がチームの中に反映されていく。

「ベースは変わらないですけど、子供らをゲーム前に笑わせたり、冗談も言うたり、ちょっと自分の個性を出しながら来ているつもりなんです」。自身は前任者の幻影から解放されつつあったが、全国への道のりは遠いまま。「『今年は良いチームができた』『今年は頑張れる』『今年は戦える』と思っても勝負弱いというか、ここ一番で勝てなくて。『それは何でだろう』『何でなんだろう』というのはチームの中でもみんな考えていたんじゃないかなと思います」。築いてきたはずの栄光は、徐々に過去のものへとなりつつあった。

 2017年、春。関大一に転機が訪れる。「普通ならウチが声を掛けても、阪南さんや履正社さんに行っていたんですけど、こっちから声を掛けた子がみんな来てくれたんです。たまたまそれにプラスアルファで、一般の子でもトレセンに入っていた子とか、背の高い子とか足の速い子とか、そういう子たちが入ってきてくれて。だから、『この子らが3年生になった時に勝負できるかな』というのが正直な所でした」。不思議と人材が集まる学年というのはあるものだ。先を見越した上で、我慢しながら起用し続けてきた学年が今の3年生。すなわち2019年は勝負の年として位置付けられてきていたのだ。

 選手たちも指揮官の期待に応える日常を積み重ねていく。「今の3年生はマジメだから、練習でも限られた本数とか少ない本数を、手を抜かずに一生懸命やるんですよ。やっぱり上級生が手を抜いていたら、下級生がそれを見ますからね。だから、今年はもう明らかにチームとして戦っている雰囲気はありますし、『この3年生はみんな付いていく代なんちゃうかな』と思いますね」。そして5月。その先は沖縄へと続く勝負の扉に、彼らは手を掛ける。

 芝中はある“失敗”を自ら明かす。「今回の組み合わせのクジを引いたのは私なんですよね。生徒を休みにしてクジを引いたら、興國さんが入って、履正社さんも入ってきて。学校に帰って、彼らにその話をしたら誰も笑いませんでした(笑)」。組み込まれた難敵ぞろいのブロック。この大会へ懸ける想いも強かっただけに、素直に笑えなかった彼らの心情は十二分に理解できる。

 ところが、『ピンチはチャンス』とはよく言ったものだ。今年も年代別代表選手を抱え、府内屈指のタレントを有する興國高を1-0で退けると、近年はことごとく敗退を突き付けられてきた履正社高もPK戦で撃破。死のブロックを制して、決勝リーグへと駒を進めてみせた。芝中はこの成果が大きかったと強調する。「興國に勝ったことが自信になって、一戦一戦強くなったのは事実だと思います」。4チームで行われる決勝リーグでも、初戦で大阪桐蔭高相手に2-0で勝利を収め、2試合目は東海大仰星高と引き分け。この時点で首位に浮上したものの、2枚用意された全国切符の行方は決まらないまま、運命の日がやってくる。

 6月2日。決勝リーグ最終日。第1試合は東海大仰星が大阪桐蔭に2-1で逆転勝利。この時点で勝ち点3にとどまった大阪桐蔭の敗退だけが決定。勝ち点を4に伸ばした東海大仰星にも全国出場の可能性が残された状況で、第2試合の関大一と阪南大高のラストゲームはキックオフされた。

 引き分け以上で2位以内が確定する関大一に対し、得失点差の関係で勝利のみが求められる阪南大高。立ち上がりから勢いは後者が鋭い。「阪南さんの方が出足も気持ちも上でしたね。ウチが飲まれてしまったというのが現実かもしれません」と芝中。阪南大高に先制点を奪われ、1点のリードを許して前半の40分間は終了する。「ハーフタイムにロッカーで怒鳴りました。今日のテーマは『自分に負けるな』と。昨日からの連戦で疲れてる中で、自分に負けずに走れるか、あるいは声を出せるかを今日のテーマとしてやっていたのですが、前半はこっちが思っているようなことはできなかったですね」。不甲斐ない戦いぶりが許せなかった。

 迎えた後半について、多くを言及するつもりはない。ここまでに両チームが得た勝ち点と得失点差の関係で、そのままのスコアで終われば、どちらも全国出場が決まるシチュエーションとなったため、試合はほとんど動かなかった。その展開に対する賛否は当然あると思うし、東海大仰星の選手たちの心情は察して余りあるが、これは彼らの問題というよりも制度設計の問題である。リーグ戦というルールの中で、結果を出すために阪南大高も関大一も最善の選択をしたということだ。試合後。関大一のある選手は、顔を両膝の間にうずめながら泣きじゃくっていた。彼の感情を客観的に説明することはできない。しかし、あの光景が今回の結果を如実に表していたように思う。

 芝中は苦渋に満ちた表情で、こう話している。「彼らには『この責任はみんな僕にある。僕が背負うから君たちは何も気にする必要はないよ』ということは言いました。ただ、違う世界を見れば、彼らにとって違う何かが見えるかもしれない。その想いだけがあるんですけど、自分の中でも整理できていないですね。大人でもワールドカップであんなことがあったので。ただ、16歳、17歳、18歳の高校生に対して全国に行けるということで、ああいうふうにやらしていいものかなというのは、自分の中で今後もずっと続いていくんじゃないかなと思います」。これからもこの方式で大会が行われれば、同じ事態が起きる可能性は否定できない。何がより最善の形なのかが、これを契機に再考されることを願ってやまない。

 前述したように、関大一にとって夏の全国は13年ぶり。あの“国立”からも10年が経過しようとしている。キャプテンの黒田翔太が発した言葉が記憶に残る。「『昔は強かった』とか、『10年前は強かった』とか、そういうことを耳にする機会が多くて悔しい想いをさせられていましたけど、その悔しい気持ちを芝中先生の方が味わっているのは選手全員がわかっていましたし、『何としても芝中先生を全国に連れて行きたい』という想いで練習してきたので、こういう形ではあるんですけど、全国を決められて素直に嬉しいなと思います」。“先生”の気持ちは“教え子”が一番よくわかっている。この想いの継承は彼らの大事な強みと言っていいのかもしれない。

 とはいえ、確かな時代の移り変わりも指揮官は感じているようだ。おなじみのフレーズを引き合いに出し、「佐野先生がおった時みたいに『月まで走れ』言うてて、夏場に走らせたら今はすぐ倒れてしまってとんでもないことになるんで、そこの運動量は落ちました(笑) 皆さんから『“月まで走れ”って言うてるけど、どんだけ走ってんの?』と言われても、他のチームと同じぐらいですよね」と笑いつつ、こうも続ける。

「でも、走れないと試合には出れないです。それはもうコイツらも『頑張る所を頑張る』『守らなあかん所を守らなあかん』『帰ってこなあかん所は帰ってこなあかん』というのはわかっているから、そこはもう伝統じゃないですかね」。黒田もそのことについて言及する。「僕たちは全然上手くないですし、相手より走って、しんどいことしないと勝てないのは全員がわかっているので、そういうことを心に決めてやっています」。もうおなじみのフレーズをあえて口にしなくても、誰より選手たちが自分たちの生命線をはっきりと理解している。

「私は自分のことを“監督”と言いませんから」。おもむろに語った芝中の“呼称”にまつわるこだわりも興味深い。「選手は僕を“監督”って言いますけど、自分では言いません。僕の中での“監督”は佐野先生しかいないんですよ、だから、自分からは必ず『“顧問”の芝中です』と。自分が“監督”の器ではないことはわかっているから、そこは一線引いているというか。みんなが“監督”と言ってくれても、『いや、“監督”じゃないです。僕の中での“監督”は佐野だけです』と」。

 だからこそ、“顧問”として譲れない部分もある。「ウチは『人間のあとにサッカーだ』と。当たり前のことですけど、それができなければサッカーも伸びないと思いますし、佐野はそういう所にムチャクチャ厳しかったです。試合がやれているのも当たり前じゃなくて、競技関係者がいろいろなことをやってくださっているからだし、『常に感謝の気持ちを持って戦いなさい』と。それはもう佐野のそのままを引き継いでいます。だから、レギュラーであっても迷惑を掛けたら試合に出しませんし、公共の規則を守れなかったら出しません。そこだけは譲れないし、そこを許してしまったら『もうサッカーだけかい』ってなるのでね。僕は監督の前に教師なので、やっぱり人間としてこの子らをどうやって育てていくのかという、そこしかないですからね。そこはもう退けないです」。穏やかな口調の中に確固たる信念が滲む。その姿に佐野が彼を後継に指名した理由の一端を覗いた気がした。

 全国の抱負を尋ねられた芝中は、笑いながらこう答えてくれた。「沖縄に行って海で泳がしますわ(笑) 僕はサッカーだけはイヤですから。いろんなものに興味を持ったらいいんですから。試合がなかったら泳がします。もちろんサッカーも頑張りますよ」。7月。沖縄の澄み切った青い空と、透き通るような青い海が彼らを待っている。“先生”から引き継いだものを、“教え子”はピッチにぶつける。その積み重ねられた伝統は、きっといつの日も彼らのそばにあり、きっといつの日も彼らを護ってくれるはずだ。


■執筆者紹介:
土屋雅史
「(株)ジェイ・スポーツに勤務。群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に「メッシはマラドーナを超えられるか」(亘崇詞氏との共著・中公新書ラクレ)。」

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