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「この日本人は誰だ」…レガネスDF井手航輔、アメリカ出身21歳が持つビジョン

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レガネスDF井手航輔

 特異な経歴の持ち主だ。アメリカ生まれのDF井手航輔は、アメリカ、ドイツ、スペインでのプレー経験はあるものの、日本のチームでプレーしたことはない。しかし、自らの理想に近付くために一歩ずつ階段をのぼり、今年2月にスペイン1部レガネスへの加入が発表された。東京五輪世代となる21歳の若武者は、これまでどのように歩みを進め、今後向かう先に何を見ているのだろうか――。

(プロフィール)
井手航輔/いで・こうすけ。98年2月13日生まれ。両親は日本人。アメリカ出身で日本とアメリカの二重国籍。生後半年から6歳まで日本で育ち、両親の転勤で6歳から9歳までをドイツ・ミュンヘンで過ごす。その後、再び両親の転勤でアメリカに移り、19歳のときに単身ドイツへ。現在はスペインで生活している。アメリカのローカルクラブであるアーバン・ストライカーズでサッカーを始め、11年にLAギャラクシーに加入。17年にドイツへ渡った後は4部、5部、6部のクラブを渡り歩き、今年2月にスペイン1部レガネスとプロ契約を結んだことが発表された。日本語、英語、ドイツ語、スペイン語と4か国語を話すことができる。172cm、62kg。

きっかけは代理人の一言
つかんだレガネスとのプロ契約


――現在はスペイン1部のレガネスに在籍しています。加入の経緯を教えて下さい。
「当時ドイツでプレーしていましたが、バイトで生計を立て、自分でチームを探していました。5部、6部を渡り歩いていたけど、2、3か月で辞めてしまうなど、サッカー選手として成長できていないと感じ、状況を変えないといけないと思っていた。そのとき、スペインに住んでいるお世話になっていたトレーナーから、『レガネスの代理人と知り合いで、練習に参加してみないか』と言われたのがきっかけでレガネスに行きました。最初は月謝を払ってスクール生として参加していたけど、Cチーム、Bチームと上がり、Bチームに参加しているときに、会長が『この日本人は誰だ』と目をかけてくれたようで、今の契約に至りました」

――昨季はどのような活動をしていたのでしょうか。
「2月から5月まで活動していましたが、トップチームには参加していませんし、VISAやチームの書類の関係で昨シーズンは試合に出ていません。ただU-23のBチームの練習に参加させてもらい、トップチームの試合を見る機会があるときは自分がプレーしているところを想像しながら観戦して、少しでも自分の成長につなげようとしていた。でも、新シーズンの頭からプレシーズンの一週間はトップチームに参加させてもらえる話を頂いているので、そこで良いプレーを見せられたらなと思っています」

――実際に触れてみたスペインサッカーの印象は?
「U-23のBチームでも試合前にはポゼッションやパスをベースとした練習内容が多く、崩しのパターン練習をやります。ドイツでは試合前にはシュート練習ばかりでしたが、国によってプレースタイルが全然違い、そういう意味ではスペインは技術面がすごくうまく、パスを回すというイメージ通りだったと思います」

――現在SBでプレーしていますが、ポジションは元々SBだったのですか。
「15歳くらいまではFWでしたが、LAギャラクシーの3年目くらいのときに韓国人の監督から、『SBでやってみた方がいい』と言われたことがきっかけでSBをやるようになりました。FWでアメリカの代表候補に選ばれたこともあったし、ゴールをすることは好きなのでFWでずっとやりたい気持ちはあったけど、自分がFWとして世界に出て通用するのかという思いもあったので、今振り返るとポジションを変えるいいタイミングだったと思います」

――なぜ、FWとしては通用しないと思ったのでしょう?
「FWをやっていたときのチームメイトにクリスティアン・プリシッチ(現チェルシー)や今シャルケでプレーしている選手がいて、この人たちには敵わないと思った。それはアメリカの中での話だけど、これが世界になったとき、自分では通用しないと感じました。ただ、裏に抜けるタイプのFWだったので、最終ライン裏に走り込んでクロスを上げる部分などはSBとなった今も生かせていると思います」

――FWからSBへのコンバートで難しさもあったと思います。
「最初はSBの動きが分からなくて、結構悩みました。でもサッカー好きの親父が常に練習や試合を見に来てアドバイスをくれたり、動画を撮ってくれていたので、自分のプレーを見直して修正しながら動きを覚えていきました。今でもディフェンスの動きは完璧とは言えませんが、SBというポジションに魅力を感じています」

アメリカでは武器にならない
けど、ドイツでは武器になった


――さまざまな国でプレーすることで、自身の中にも変化があったと思います。
「技術がうまくなったとかよりも、考え方が変わったというのが正しいと思う。フィジカル勝負が多いドイツのサッカーの中で持ち味を生かすとき、あえてフィジカルを避けるようなプレースタイルにしてみたり、90分間の中で終盤に間延びするなら、どのようにして攻撃参加するかとか、自分の考え方を変えて順応できるようなスタイルになっていかないといけないと感じた。あと、アメリカでは持ち味じゃないと思っていたものがドイツでは持ち味になった。パス回しは苦手だと思っていたのにドイツでは武器になると理解したとき、ひらめきがあったりしたので、いろいろな国に行くことで新たな自分を発見できると思います」

――スペインで新たな発見はありましたか。
「ドイツよりもスペインではパス回しをするので、タイミングを見て裏に抜けられるし、自分の攻撃参加をより生かせます。それにドイツでは体格のことで練習にも参加できないことがあったけど、スペインではスキルを見てくれる。正直、自分が通用しないと思っていた国で評価されるのは嬉しいし、やっぱり来てみないと分からないことでした」

――これまで多くのクラブでプレーしていますが、うまくいかなかった時期もあると思います。
「LAギャラクシーには中学の頃に加入して、4年半から5年間在籍しました。U-16世代のときにU-18世代に飛び級でプレーさせてもらい、先発でも使ってもらっていましたが、シーズン後に解雇されてしまった。その後、一番最初に所属していたローカルクラブに戻り、併用してサンタアナウィンズというセミプロチームでもプレーしていたけど納得いくレベルでプレーできませんでした」

――そこで、ドイツに渡るという選択をします。
「自分の中でどうしてもプロになりたい気持ちと、自分はもっとできるという気持ちがあったので、海外にサッカー留学したい気持ちが芽生えてチャレンジすることにしました。留学するときに両親からは反対されましたが、23歳で東京五輪に出場できなかったら引退するという話をして納得してもらった。でも、ドイツに渡ってからも何度か挫折しそうなときはありました」

――どのような経験をしたのでしょうか。
「最初はドイツ4部のアーヘンに加入して半年間プレーしましたが、最後の1か月半はケガをしてしまい契約更新できず、当時の代理人に7部のチームを紹介されましたが、『そこではやりたくない』と話したら、『それなら、もう協力はできない』と言われ、そこからは自分でチームを探すようになりました。5部のトライアウトに行ったときには、まず監督に自分を見られて『DFなのに小さいし、体格もよくないから練習に参加しなくていい』」と練習前に弾かれることもあった。ドイツで自分はやれるだろうと思っていたレベルでやれていなかった歯がゆさはありましたね」

――日本でプレーする選択肢は?
「ドイツに渡る前にアメリカか日本の大学に入学して大学でサッカーをやるという考えはあったけど、それはサッカーをやりたくて日本の大学に入るのではなく、学業を第一に考えた選択でした。でもサッカーをしたい気持ちが強かったし、プロサッカー選手になりたかった。自分が世界のトップレベルの国、トップレベルのチームでプレーしたい気持ちがあったので留学を選択しました」

――「プロサッカー選手になる」という強い意思がこれまでの原動力になって、いろいろなものを乗り越えてきたと感じます。
「今までサッカーを諦めようと思ったことや選手として情けないと思うことは何度もあったけど、自分の夢、自分の中でのビジョンは自分がサッカー選手として影響力や発信力がないと近付かないので、心が折れそうになってもサッカーを辞めようとは思いませんでした」

たとえ誤差が生じても
自分の理想に向かっていく


――プロを目指し始めたのはいつ頃ですか?
「サッカーを始めてドイツに住んでいたとき、06年のW杯準決勝ドイツ対イタリアをスタジアムで見て、自分もここでプレーしたいと思ったのがきっかけです。観客が一つになったときの熱気がものすごく、自分もこのフィールドに立って、人を感動させられるような選手になりたいと思い、プロサッカー選手を目指すようになりました。ただサッカー選手になるのではなく、プロになって、多くの人に感動やサッカーの楽しみを伝えていけるような選手になりたい気持ちがあった」

――レガネス加入時に10年後、15年後、将来のビジョンが出来上がっていると答えていました。
「サッカー選手としての一番の理想のキャリアは、自分が28歳のときにアメリカ、カナダ、メキシコで行われるワールドカップに日本代表として出場して優勝したい。それが、常に自分の夢で、理想のキャリアですが、サッカー選手として通用しなかったとき、理想とまったく通用しなかったときの中間のときのことも考えています。今はサッカー選手としてはまだまだ未熟ですが、自分の理想のキャリアに向かって進んでいます」

――現役引退後、将来のことはどのように考えていますか。
「自分がサッカー選手として、ある程度の名前を残し、選手としての地位を確立したときには、その先のビジョンがあります。自分の名前、影響力、発信力を使って日本とアメリカ、日本とヨーロッパをもっと身近にすることが自分のミッションだと思っています。例えばサッカーで言うと、自分は特殊な人生経験をさせてもらい、特殊な経歴を持っていると思いますが、日本人選手にもっと海外を身近に感じてもらいたい。中学、高校の頃からもっと海外のサッカーに触れられる環境を提供していければと考えています」

――両親には東京五輪に出場できなければ引退という話をしたようですが、状況は変わってきたようですね。
「今はプロ契約を勝ち取って、両親もある程度納得してくれています。今までの自分の状況では東京五輪に出場できなくて当たり前の選手でしたが、プロ契約をしていただいて、少しだけ近付いたと思う。大きなことは言えませんが、目標にしてきた一つなので、もちろんそこは目指します。ただ、五輪に出場できなかったときのことも考えています。アマチュアからプロ契約になったことは大きなステップだと思いますが、それは自分がどうしたらそこまで行けるかを考えた結果です。だから、次の誤差が生じても、自分の理想にどう追い付けるかを別の角度から考えて向かっていきます」

――一番近い目標を教えてください。
「新シーズン、レガネスのトップチームで出場するのは一番近い目標にあるし、それができたら自ずと五輪代表も少しずつ見えてくると思っています。成長できる環境をレガネスの方々が与えてくれているので、努力を続けてもっと成長したいです」

(取材・文 折戸岳彦)

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