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指導歴45年、東海大福岡を強豪へ育て上げた平清孝総監督が勇退。新たなチャレンジへ

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東海大福岡高の平清孝総監督が同校での指導45年を区切りに勇退。新たなチャレンジへ

 多くの選手、指導者を育ててきた名将が惜しまれながら勇退する。指導歴45年、東海大福岡高(旧・東海大五高、福岡)男子サッカー部を全国的な強豪校に育て上げ、女子サッカー部の強化にも貢献した平清孝総監督が、21年度限りで慣れ親しんだ場所から離れる決断を下した。

「いろんな人に出会えて、いろんな勉強をさせてもらった。若い時から周りに助けられて今がある。自分にとって本当に充実した45年間でしたね」

 定年を迎えた20年度からは学校の要請により、3年間の契約で学校に残った平総監督。ただ、45年を一つの区切りと考え、21年度限りでの退任を決めた。昨年10月から引き際を考えていたが、正式に決めたのは同11月。翌月に学校へ正式な意向を伝え、学校長と家族以外では男子サッカー部の大丸忠監督だけに報告をした。

 特に11月は高校サッカー選手権予選を戦っている時期。携わってきた子供たちが懸命にボールを追う中で、学校を離れる決断を下したことは難しさがあった。

「周りは言えないから、子供たちにも伝えられない。もちろん、同じ気持ちで戦っていたけど、複雑な心境だった」

 いつかは来る別れの時。それでも、45年間を思い返せば、いろんな人に支えられた教員生活だった。

 日体大を卒業後、1977年に東海大五へ赴任。当初は1年契約の非常勤講師として採用され、教壇に立ちながら男子サッカー部の指導に携わった。正式に採用された翌年から同監督に就任したが、考えられないような環境だった。今でこそ人工芝のグラウンドがあるが、当時は土のグラウンド。草が生い茂り、石ころもあちらこちらに転がっているような状況である。そうした状況を変えるべく、生徒たちと一緒になって練習やグラウンド整備に汗を流したのも今となっては良い思い出だ。また、部員のレベルも今ほど高いわけではなく、サッカー未経験者を一から教えることも珍しくなかった。そもそも、生徒にどうやって練習に毎日来てもらうかを考える日々だったという。

「最初は素人でやんちゃな子が多かったから、まずはグラウンドに毎日来てもらうことが大変だった。就任当初はサッカー経験者が1人もいなかったし、ゴールラインからハーフエーラインまでボールが蹴れない子ばかり。『(なぜ)小学生でもないのにインサイドキックを教えているんだろう』って最初は思いました。でも、面白い子たちばかりでしたね」

 体当たりで子供たちと向き合うと、監督就任4年目の1981年度に全国高校サッカー選手権初出場を果たす。これを機にチームは大きく変わっていく。

「初出場した時のチームは叩き上げで、高校からサッカーを始めた選手も1人いたぐらい。全国大会に出場したことで、『東海大五にサッカー部あるんだ、頑張ってるんだ』という認識をされるようになった。初出場をきっかけにいろいろと変わったと思う。僕自身も福岡市の教員団でプレーを続けていたけど、ウチに来る選手はどちらかというと北九州の子が多い。なので、北九州市の教員団に鞍替えしたんです。そこから北九州市の先生や指導者の方と仲良くなり、選手を預けてもらえたのは大きかった」(平総監督)

 1983年度にはインターハイに初出場し、選手権は1988年度大会まで8年連続で出場。県内で確固たる地位を築くと、1990年度には全国高校選手権で初の4強入りを果たす。その記憶は今も色褪せていない。平総監督にとって、東海大五・東海大福岡で過ごした45年間の中で最も印象に残っている出来事だという。

「やっぱり、1990年度の選手権は嬉しかった。九州勢がベスト4に3チームも残った大会。これは本当に嬉しかった。『九州を一つにして強くしよう』という言葉で強化され、鹿児島実の松澤隆司先生、国見の小嶺忠敏先生と一緒に同じ大会でベスト4に入れたのはお世話になった方へ最高の恩返しだった」

 以降も生徒たちに寄り添いつつ、松澤氏や小嶺氏が掲げた「九州は一つ」という意思を受け継ぎ、03年からスタートしたサニックス杯国際ユースサッカー大会(昨年度と今年度は海外チームの参加が叶わなかったため、サニックス杯ユースサッカー大会として開催)の創設にも尽力。08年に総監督へ就任したが、以降も現場に立ち続ける姿勢は変わらなかった。そうしたスタンスは九州の指導者たちから教わったことでもあるという。

「松澤先生にはずいぶんお世話になり、サッカー以外でも勉強をさせてもらいました。現在、松澤先生の教え子たちもいろんな場所で頑張っています。そういう縦のつながりが九州は本当に深い。指導者を育てるというのは松澤先生から教わったこと。自分のチームだけ強くなればいいというのはほとんど見られなかった」

 指導者育成へ力を入れた理由も、松澤氏の教えを受け継いだからこそだ。現在、多くの卒業生が全国各地でサッカーに携わる。卒業生の横内昭展氏(現・日本代表コーチ)は昨年の東京五輪でU-24日本代表のヘッドコーチとして4強入りに貢献。高校サッカー界でも多くの人材が活躍しており、岡山学芸館高(岡山)の高原良明監督が21年度のインターハイでチームをベスト8進出に導いた。

 そうした教え子たちの活躍に平総監督も目を細める。

「東海大五、東海大福岡出身の指導者がたくさんいて、教員としてサッカーに関わっている教え子も多い。ある意味、チームが勝つことよりも嬉しいかもしれない」

 ただ、自身の情熱も失われていない。

「やり残したことはいっぱいあるし、どこに行っても満足して辞めることはない。『あれをしておけば良かった』、『こうすれば良かった』と言えばもうキリがない。でも、若手が頑張っているので託すしかない。次もし行くところがあれば、もう1度整理して自分ができることをやっていきたい」

 東海大福岡を離れるが、平総監督は現場に立ち続ける意向を持つ。もちろん、次の舞台も高校サッカーを希望している。

「オファーがあったところを前向きに考えて、時間を開けずにすぐやるつもり。サッカー中心の生活はこれからも変わらない」 

 選手や指導者の育成という想いはどこに行っても一緒だ。そして、もう1つ新たな夢もできた。それが公式戦で東海大福岡と戦うことだ。

「新しい目標であり夢。実現したいと思う。でも、負けたらショックだなぁ(笑)」

 意欲は十分。衰え知らずの情熱で現場に立ち続ける平総監督の夢は終わらない。「選手権に東海大福岡は2012年度以来行っていないから達成してほしい。あとは託すのみ」と古巣に想いを馳せつつ、名伯楽は新たなチャレンジに向かって走り出す。

(取材・文 松尾祐希) 

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