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FC東京 MF米本拓司 インターハイは夢の舞台

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 豊富な運動量と獰猛なまでのボール奪取力で、FC東京の中盤を支えるのが、MF米本拓司だ。プロ1年目でレギュラーポジションを確保し、ナビスコカップ決勝では、チームにタイトルをもたらす決勝ゴールを叩き込んだ。輝かしいキャリアを誇るが、プロの世界に入るまでは、決して日の当たる舞台に立ってきたわけではない。サッカー日本代表入りも期待される『東京の闘犬』は、どのような学生生活を送って過ごしてきたのか。

――高校サッカーと聞いて、パッと思い出すことといえばなんでしょうか?
「今思うと、チームの練習はすごく楽でしたね。僕が通っていた伊丹高校は普通の公立高校で、そんなに強くもなく、弱くもなかったですし、下校時間までに練習も終わらせないといけなかったんです。当時は僕自身、プロになるということも、まったく意識していませんでした」

――そもそも、決してサッカーの強豪校とは言えない伊丹高校に進学したのは、どのような理由からだったのでしょうか?
「僕は『試合に出なければうまくならない』と考えていたので、高校1年生のときから試合に出られる学校にと考えていました。あと、自宅から近かったことも大きな理由でした。いろんな高校からお話をいただきましたが、移動時間に1時間とか、2時間とか、かけるよりも、その時間もボールを蹴った方がうまくなれるんじゃないかなと思っていたので。高校ではシュート練習ばかりやっていましたね」

――そうなんですか? 今の米本選手はボール奪取力が最大の武器だと思うのですが、当時はどんなプレースタイルの選手だったのでしょう。
「まさに泥臭いプレーですね。今とあまり変わらないかもしれません(笑)。おそらく中学生の頃が、始まりだったと思います。当時は兄がコーチをやっていたので、相当厳しかったですよ。僕はキャプテンもやっていたのですが、グランドでも怒られて、家に帰ってからも怒られて…。きつかったですね。でも、当時から『考えてサッカーをしろ』と言われていたことが、今に活きていると思います」

――具体的には、どんなことを考えながらプレーしていたのでしょうか?
「ボールを奪うために、どんな駆け引きができるのか。点を取るためにも、サイド攻撃をしていたら中央が空くし、中央から攻め続けていたら逆にサイドが空くとか。そういうことも考えていましたね。ただ、考える習慣を付けることはサッカーだけじゃなく、普段の生活でも活きると思うんです。何が一番良い選択なのかを考える力は、中学、高校で磨けたかなと思います。そこから、段々、高いレベルの中に身を置くようになっても、自分が今どういう状況にあるか、何をしなければいけないのか、そういうことを考えられるようになりました。だから、国体の兵庫選抜に選ばれたときも、ヴィッセルユースや滝川第二高等の有名なうまい選手たちがいた中で、自分はどこでやったら生き残れるかを考えて、それで辿り着いたのが、走ることだったり、チームのためにやったりすることでした。あまり守備をする選手もいなかったですし、そういうプレーをすれば、生き残れるんじゃないかなと思ってやっていましたね」

――当時はフィジカル的に強かったのですか?
「同じ高校の中でも、弱い方だったと思います。プロに入ってから最初に大きなケガをしたときも、理学療法士の人に『そんな体でプロサッカー選手としてやれるの?』と言われたくらいでしたから。でも、身体能力が低かったから、考えてボールを奪うようになったと思うんです。もし、身体能力が高ければ、そんなに考えなくてもボールを取れたはずです。でも、僕はフィジカルで当たるよりも、足を伸ばしてチョンと触ってマイボールにしたり、駆け引きをして相手に当たらないように先にインターセプトしたりしていました。フィジカルが弱かったから、考えたんでしょうね。今も足が速い人はいいなと思いますし、足が速かったら、もっとすごい選手になれたんだろうって思いますからね(笑)」

――いつ頃からプロに行くことを意識するようになったのですか?
「高校1年生で国体に出て、そのときにどこで見ていたのか分からないのですが、当時U-17日本代表監督だった城福さん(城福浩・現J1甲府監督)が、代表に呼んでくれたんです。それからですね、プロになりたいと思うようになったのは。代表の練習に行って『こんなにうまいヤツらがいるんだ』と驚いたのと同時に『コイツらと一緒にやったら、絶対にうまくなれる』とも思ったんです。そこで『高いレベルの中でやったら、もっとうまくなれるんじゃないかな?』『プロに行ったら、もっとうまくなれるんじゃないかな?』と思うようになり、プロになりたいと考えるようになりました」

――FC東京にはどのような経緯で入られたのでしょうか?
「高校3年生のときは、ヴィッセル神戸の強化指定選手だったので、どっちに行くかすごく悩みました。顧問の先生にも『人生の分岐点だから、悩めるだけ悩め』と言われて、1か月くらい、どうしようか迷っていましたね。神戸も出身地のクラブでしたし。でも、最終的にどっちがうまくなれるかということを考えました。監督がU-17日本代表の監督だった城福さんだったのが、最大の理由でしたね。自分のことを知っている監督のいるところに行った方が伸びるんじゃないかと思ったんです。中盤に自分と似たタイプの選手であるサリさん(浅利悟)や良い守備の選手もいたので、FC東京に行った方が、より学べるかなと」

――プロになれたという意味では高校時代には悔いがないのではありませんか?
「いえ、うちの学校は全国大会に出たことがなかったので、自分の代で連れて行きたかったですね。インターハイでも、選手権でも。でも、負けちゃいました。もうすぐインターハイが始まりますが、僕にとっては夢の舞台でしたね」

―――高校時代、チームの練習は楽だったということですが、自主練もやられていたのですか?
「かなりやりましたね。暗くなるまで、ずっとやっていたと思います。キックの練習や1対1や2対2をやることが多かったです。そういう練習が多かったのは、サッカー部と野球部とラグビー部が共同で一面のグラウンドを使っていたため、そんなに広く場所も取れなかったこともありますね。野球部のボールが飛んで来たり、ラグビー部の選手が突っ込んできたりしていたので(笑)。でも、そこで最後まで練習はしていました。自分自身、うまくなりたいという気持ちがすごく強かったので。練習が終わってからも、シュートに納得がいかなかったらGKに入ってもらって、シュートを打ったり、キックもうまくなかったので、相当練習しました。」

――最後にインターハイに出る選手に、何かメッセージはありますか?
「インターハイに出られる高校、出られる選手って限られていると思うんです。滅多に大舞台は味わえないものだと思うので、その緊張感を楽しんでほしいですね。なかなか経験できることじゃないですし、インターハイに出られる選手たちが、うらやましいですよ。ナビスコカップの決勝でゴールを決めたときに『持っているな、おまえ』っていろんな人に言われましたけれど『持っていたら、インターハイに出れていたよ』と思いましたからね(苦笑)。僕にとっては、もう一生出るチャンスのない場所なので、思う存分にプレーしてほしいです」

――練習着はサッカー部指定のものがあったのですか?
「練習着は指定のものがなかったので、各自で好きなものを着ていました。僕の場合は、お兄ちゃんのお古を着ることが多かったです。スポーツメーカーも上から下までバラバラでした。
僕が高校当時に着ていたウエアはダボっとしていたというか、引き締まっていないデザインだったので汗をかいたら重くなったのですが、このRENGIはすぐに乾くし、汗をかいても軽く感じる。肌触りも良いし、薄いし、夏にピッタリだなと思います。1日に何試合もやる中学生、高校生には、本当に良いと思います」

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